第四話 カワリユク 4

 また、赤い視界だ。

 視界を悪くさせる赤い気体を手で振り払い、彼は輝き眩しくある右へと目を細めて見た。目を細めなければ、目がやられる。今日は梅の花びらが宙で舞う、三月五日。先月に比べて、輝く彼からまた離れられ、距離を置かれていると確信する。

 輝く彼は誰かから見られれば、必ず気がつくはずだ。二か月前から彼を意識してよく見ているのに、見向きもされない。じろじろ見ても、こちらに背を向けたまま。

 振り払って出来た覗き穴が、赤い気体の止まることのない流動によって、埋め尽くされてしまう。赤い気体に取り囲まれる中、彼はため息つく。輝く彼に悪いことをした心当たりはない。だけど、知らずして、不快にさせることをしたのかもしれない、と悩ませられる。

(こうして悩んでいることも、彼からお見通し。なんか意地悪だ……)

 彼がため息をまたついた時、地球のほうから視線を感じた。この視線は、彼女――類子のものだと分かる。ため息がでそうになる。きっと、哀しそうな目をこちらに向けているのだろうから。見下ろせば、赤いガスに覆われ、細かな雲が漂う視界からでも、「やっぱりそうだ。昨日と同じで」と理解でき、ため息つく。

 彼のため息は、類子には、微粒子が不思議な形をして動き、輝いて見えた。綺麗だと思うけど、どうしてか哀しく見えた。彼のため息だけではなく、彼自身に、彼自身を取り巻くものも哀しい。ここのところ、見るもの全てに対して哀しいとしか思っていない、と彼は読み取れた。

 彼は類子からバイバイと手を振られ、清掃員に戻られる。類子はこの病院で清掃員として働きだしたのは二年前、その廊下で習慣のように彼のことを眺めだしたのは働きだしてから二か月と三日目からで、眺めた後には必ずバイバイしてくれる。――自分が他のものを眺めている時にでも。

 バイバイをされ、他のものを眺めようかと考えた。だけど、この後で彼女に変化が訪れるのを知っていて、それが気になり、眺めつづけることにした。

 車椅子が引いた跡を消そうと、類子は懸命にモップを床に擦りつける。その最中、ナースセンターがある方の廊下から、三知が歩いてきて、類子を目に留めて、呼びかけた。

「三知さん。お疲れ様です」

 類子は恭しく頭を下げる。三知は類子の前で足をとめ、「お疲れ様」と返してから、眉根を曇らせた。それで何かを察した類子も、眉根を曇らせる。

「聞いてもいいかしら?」と、三知が切り出した。

「はい。何でしょうか?」

「来月の頭でこの仕事をやめるって、本当?」

 すぐ、類子は頷く。

「どうしてやめちゃうの?」

 類子は目のやり場に困って、モップを握る手を見つめる。

「疲れてしまって」

「疲れてしまって?」

「はい。いろいろと、いろいろと。いろいろ」

 いろいろと疲れて、を理由にして仕事をやめる。この世界の病院では、よくあり過ぎること。三知にとっても、聞き慣れた言葉だ。はっきりとした理由を述べずに、「いろいろと」で済ますのは、本当の理由を知られたくないのだろうと、三知にかぎ取らせる。

「このお仕事をやめてしまうとして、准看護師を目指し続けるわよね?」

 類子は顔をあげた。哀しさ宿した瞳に、この質問の投げかけ、答えを知られていると受け取れた。いいえ、と返せば、「准看護師を目指してもらいたかったのに」と悔しがられた。

「わたしには、向いていません。わたしは強くないし、根性ない」

 類子は思うことを教えれば、三知に「そんなことないわよ」と否定され、さらに悔しがられ、思い留まるように説かれる。三知からの言葉は耳に入って、脳へと届いて、白っぽいなと思うけれど、決めてしまったものを揺すってこようとはしない。

「ありがとうございます。でも、もう決めたことですから」

 聞き苦しくなって、類子は礼でもって、三知へこれ以上の説得をやめるように頼んだ。三知から渋々と承諾された。

 ここの今、ふと、であった。――あらわす言葉がないものからの悪戯によって、類子は三知に聞きたかったことを思い出した。

「三知さん。聞いてもいいですか?」

「あら。なあに?」

「人間は死んだ後、一時間から半日の間でおもどりになる可能性があるとは本当でしょうか?」

 三知は瞬いてから、頷く。

「ええ。本当よ。急に変な質問ね。どうしてこんな質問を?」

「ただ気になって気になって気になって」

 あっさりと、三知は納得した。ただ気になってしまうことも、この世界ではほんとよくあることだから、疑問なんかなんにも浮かばない。「そうなのね」と、明るく返した。

 なんで疑問に思わないのだろう――。

 疑問に思わないのが、赤い気体の中にいる彼からして、誠に疑問でならない。つい赤い気体を手で振り払って、彼は類子と三知を見比べる。類子と三知はお互いに「仕事があるから」を理由にして、別れを告げあう。三知が立ち去り、類子はモップを手にしたまま留まる。それから暫しの間、類子はモップを手に、立ち去った三知のほうを見たまま動かない。それで、何も考えていない類子から一瞥された。

 益々に、彼女のことが気になった。このまま、類子が何事もなく、いつも通りに仕事を終え、家に帰るとも知ってはいるけれども。

 彼は気体を手で払いながら、類子を眺める。時が進んでいく。今日も輝く彼はこちらを一度も見てくることなく、午後六時過ぎれば、類子のいる街の地平線へ姿を隠す。その頃には類子は仕事を終え、家に帰宅する。

 ほんとに何事もない。何事もなく、時が進んでいく。つまらなくて、あくびをこぼす。このあくびを類子から気にもされないで、玄関を越えると着がえをしないで、寝室へ直行される。

 明かりのない寝室に、全身の肉が枯れている男がベッドで臥せ、口から弱い息をこぼす。類子が声をかけても、身体に備わるあらゆる感覚が弱まっていて応じることができない。

 あと二時間四分と十五秒――。

 この瞬間では、あと二時間四分と二秒経過すれば、この臥せる男は心臓の動きを停止させる、と彼は読み取れ、腕を組む。赤い気体はお構いもなく、目の前を流動していく。類子に変化が訪れるまで、このまま眺めるか、眺めないかで、悩みだした。


 続

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