第四話 カワリユク 3
一面に流星が見える。星が忙しく走っている。目がちかちかする、と謙吾が突然いってきて、類子は戸惑った。一月下旬、粉雪が降る昼頃。二人で窓から空を眺めているのではなく、昼食の後かたずけをしている最中のことだ。
流星なんて、星なんて、このアパートの一室にどこにもない。外も同じ。降る雪の上、引っ掻き傷だらけの藍色い冥王星がゆっくり回ってはいるけれども。
類子は返す言葉に迷っていると、謙吾が頭をふらつかせ、手にする食器を落としかける。慌てて彼の身体を支えてやる。肌から彼の腕、胸周りが骨ばっていると伝わってくる。ベッドに横になることを勧め、彼と共に寝室へ向かった。
「お腹が張っている感じがする。横になると圧迫されてくるというか、違和感があって、気持ちが悪い」
謙吾はベッドに横になるのを拒み、そう説明して腰を下ろすだけした。類子は彼の隣に座り、顔を覗き込む。黄ばみのある白目、両目の下から頬骨までに広がる薄っすら黒いくまに、嫌でも見入ってしまう。
あのさ、と謙吾が視線を落としながら、口を開いた。
「もしも病院へ行き、医師の診察により、死ぬ可能性の高い病気の患者と判定を下されたら、完治するか、死ぬまで病院から出してもらえないのは本当か?」
「……たぶん、そう。わたしが見ていた限りだと」
「うわっ。地獄だ。病院へは絶対に行かない」
謙吾が声をあげてきて、類子は閉口させられる。謙吾は頭を抱え、身を丸め、大きな声で続けだす。
「病院で死んだら、遺体になった俺は鼻の穴に鉄の太い針を入れられ、脳味噌をかき混ぜられ、脳髄を破壊されるのだろう? そんな屈辱嫌だ。死んだのに、また殺されるようなものだ。類子は死んでから、そんなことをされるのは嫌じゃないか?」
「うん。嫌だね」と、類子は素直に答える。
「俺には夢がある。頑張りたいんだ。死にたくない。だけど、病院で死ぬのなんて、真っ平御免。病院で死ねば、戻ってくることを許されない――戻されて、何かができる可能性を断たれてしまいもする」
謙吾から黙り込まれた。類子は謙吾の震える背中を眺め、ただ困る。何か彼にとって良い言葉なのかを考えてみるが、あまりに難しい事柄だから、何も思い浮かばない。馬鹿をして、彼を悲しませる発言だけはしたくなくて、苦しく哀しく黙りこくる。
「類子は、俺に病院へ行ってもらいたいか? それとも、行かないでもらいたいか?」
行ってもらいたいよ、と類子は即答できた。
「病院に診察しに来た時は、もう助からないだろうという状態のひとが、入院することで治癒して、病院から退院するのを見てきたから。そう、先月かな、五十歳くらいの」
「俺は助からない。もうすぐで死ぬ」
いくつも見てきた実例が、類子にはあった。作り話ではなく、本当で。病院に運び込まれた時は、明日にでもこの世界から去ってしまいそうに見えた人が、元気になって退院していくのを見ている。なのに、例えをあげようとする前に、遮断された。
「……そんな決めつけやめなよ。もうすぐで死ぬって。病院へ行って、治療を受けてほしいよ」
「俺が病院へ行けば、入院させられると目に見えている。苦しい治療も待ち受けている。自分の顔を鏡で見れば、分かり切ってしまう」
謙吾が顔をあげ、類子へ向けてくる。きっと病院へ行けば、医師が診察後に易々と返してくれる顔ではない。念入りに検査したいために、入院させるだろう。また肉体の健康の表れからだけではない、精神の表れからでもだ。この瞳の危うい輝き――死へ走りかねない者として、医師たちから誤解されうる。
「俺は診察後、そのまま家に帰れると、治療するのに通院だけで済むと、類子は思うのか?」
まさに、この時、聞かれたくないと願っていた質問を受け、類子は目を逸らしたくなる。「分からないよ。わたしはお医者さんじゃないから」と誤魔化してみたが、間をあけずに見抜かれ、「正直に答えてほしい」と頼まれる。嘘をついても見抜かれると悟り、正直に「思わない」と答えた。
「悪いけど。これは、やっぱり俺だけの問題。病院へは行かないと決定する。――俺は類子を傷つけたくないから、類子と別れたい」
嫌っ、と類子は声をあげる。涙腺が震えて、濡れてくる。
「わたし、別れたくないわ。今に至るまでで好き勝手にいわれてきた言葉で、既に傷ついているから。『別れる』なんて言葉は、最上級に傷つくわ。謙吾なしに生きられない。ずっと謙吾のそばにいる」
「類子は、俺におもどりになるのを許してくれるか?」
「もちろん」
「俺におもどりになって欲しいか?」
「馬鹿。当然のことをいわせないでよ」
類子は頷けば、謙吾から頷き返され、彼に近いところにある手を握り締められた。骨っぽい指、手の甲から緑色の筋が盛りあがっているのが見え、心配と一緒に泣かずにはいられなくなった。
続
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