第四話 カワリユク 2
午後六時には類子を想う彼は地平線へ消え、十一月一日における夜と雨が始まった。類子は彼らの訪れを、勤める病院にある着がえ室の窓から知れた。
窓に雨が伝い流れ落ちてゆく。黄色い銀杏の小枝が雨に打たれて、頭を下げているのが見えて、可哀そうにとなんだか思った。それからで住まいのベランダで干されてある洗濯物のことを思い出して、同棲する恋人に「ベランダにある服を取り込んでおいて」とメッセージを送った。
確か、と類子が振り返れば、二歳年上の彼が――赤に限りなく近いオレンジ色の斜陽に黒髪を照らされ、時折その光に籠る熱によって痒そうに頭を掻き、デスクに向かってボールペンを夢中に動かしている若い男の姿が思い浮かぶ。この時刻、彼、謙吾は家にいるはずなのだ。
惑星も、星も見えない夜。太平洋から北西にある街、傘を差しても服が濡れてくるほどの雨の中、類子は住まいのアパートに帰った。
チャイムを鳴らしてから、「遅いな」と感じるタイミングで、謙吾が気怠そうに出迎えてきた。ただいまをすれば、生返事された。
「疲れているの?」
「いいや。だるいだけだよ」
だるい。だるいな、と、謙吾は繰り返しにぼやきながら、濡れる類子を玄関に置いて寝室へ入っていく。類子は彼のことが心配になり、急いで着がえ、濡れる髪にタオルを適当に巻きつけ、彼を追った。
「謙吾。大丈夫?」
類子は寝室の扉の隙間から様子を伺い、案じる。謙吾はこちらに背を向けて、ベッドに横たわっていた。
「だるいだけ。ちょっと気持ちが悪いだけ」
謙吾は身動きしないで、答えてきた。続けて何かいうのを類子は待ってみてから、口を開いた。
「今夜はバイトあるの?」
「あるよ」
「なら、休んだら」
――だって、謙吾の今のバイトは高速道路の料金所。あそこ、空気が良くない。体調が悪いなら、休むべきだよ、と、類子は続けたかった。「休めるわけないだろう」と、気分を害した感じに即で遮られた。
「あのね、わたしは謙吾のことを想ってね」
気分害されて傷ついたわ。少しだけど、との本音を、類子は隠してしまう。ほんとに気分を害されたのなら珍しいことで、驚かされたから。体調が悪い時は不機嫌になりやすいとも耳にするため、余計に心配になる。出だしを変えて、遮られたことを述べた。「分かっている」と小声で述べ、詫びられた。傷つきは消えるが、一向に動こうとしない彼に、心配が胸にこびりついている。
「ちょっと寝ててもいいかな?」
うん、と類子は躊躇いつつ応える。「仕事へ行く前に、夕飯を食べるか」と訊けば、謙吾から、うん、とだけ。
寝室を少し離れれば、心配がまとわりつく。払い除けることできないもので、心配を連れて夕飯の支度をする。食事並ぶテーブルに腰を下ろせば、隣に心配が座られる。心配と共に、謙吾を呼んだ。
そこそこのすぐ、謙吾は寝室から出てきて、いつも通り類子の正面に席につき、箸を手にした。気怠そうな顔をしていた。箸で挟まれた小さなものを重たいもののように、ゆっくりと口へ運びだす。用意した食事の三分の一を平らげ、「お腹いっぱい」を理由に箸を置く、一方で類子は彼よりも食事を平らげ、まだ腹が満たされていない。
「ねぇ。大丈夫なの?」
心配に背中を押されて、類子は聞く。謙吾は首を傾げさせ、肋骨の左下部あたりに手を当てて摩る。
「ちょっと、この辺りが少し痛む」
類子は箸を置き、心配と共に謙吾の顔を伺う。やはり、気怠そう、としか思えない。
「その辺りにある内臓が痛むの?」
「うん」
「すごく気にならせられる場所。病院へ検査に行ってみたほうがいい」
「病院は行かない。俺は病院が嫌いなのだよ」
躊躇いもなくすぐ、だ。謙吾から拒否され、額に険を示された。思わず類子は頷いて、承諾してみせる。突発的に生じた、嫌われたくない心配から、「わたしのこと、嫌いにならないで」と口から頼みが零れる。
「何をいいだすのだよ」
さらに謙吾から険を示され、類子は萎縮する。
「俺が病院を嫌いだと知っていることじゃないか。だけど、類子のことは好きだってことも。病院で働く類子を尊敬するし、准看護師になりたいとする類子も尊敬する」
うん、と類子は頷く。
「こんな俺を愛してくれるのは、類子だけ。嫌いになんかなるものか」
「こんなって……。わたしも、謙吾を尊敬しているよ。一生懸命にバイトしながら、親からの仕送りなしで大学に通い、建築士を目指している。好きにならずにはいられないわ」
謙吾が微笑み、類子は微笑み返す。心配が類子から遠く離れて、後ろにて背をひっそりと眺める。類子は視線を感じながらも、食事を再開して、謙吾と心配に気にされない会話をする。時間が進むごとに、眺められていることを忘れそうになる。食事を終えて、謙吾から「そろそろバイトへ行く支度をする」と告げられ、心配が近寄ってきて、近くで見てきて、視線を強く感じる。
「やっぱり、休んだほうがいいよ。体調が良くないのだから。――もしも、おもどりになられた人と出会って、襲われたりでもしたら、抵抗できないかもしれない」
視線に耐えられなくて、服を着替えている謙吾に類子は口走る。謙吾から瞬かれ、苦笑された。
「平気だよ。今日に限って、襲われることなんかないと思う。俺は今まで、一度も襲われたことなんかないもの」
「本当よね?」
「本当だから。嘘じゃないよ」
謙吾はそう述べてから、急に眉を顰める。口に手を当てて、駆けだす。洗面所へ辿り着くなり、洗面器に声をあげて吐き出した。その始終を、類子は傍から謙吾を眺め、傍からは心配から眺められ、怖くて怖くて堪らなくなった。
続
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