第四話 カワリユク 1

 鼓膜を貫いてくる絶叫が、廊下に響いてきた。

 この今、太陽は天頂で胡坐をかき、この絶叫で揺れた窓を通して彼女を眺めていた。ひとの手で灰色く汚れた雲の割れ目から、彼女が類子という名で、十九年という単位で生きてきたと知る。

 類子は輝く彼から探られていたことなんて、知るよしもない。後ろから絶叫に襲いかかられ、竦みあがり、モップを動かす手を止めていた。男の、怒っているような聞き障りに怖くなって、胸の鼓動が速まる。

 誰の声かしら、と類子は気になって、恐る恐ると振り返る。真っ直ぐな廊下、左に肩並びで三つの病室がつづく。耳残る欠片から記憶をほぐしにかかりだせば、絶叫と同じ主であろう罵声が起こる。

「なんで家に帰らせてくれないのだ。こんなに元気なのに」

 はっきりとした罵声が脳にしかと伝達してきたのに、類子には誰なのかが分からない。罵声がつづく。ここから数えて二つ目の病室から生じていると知れ、あの人――とくさんであると結びつけられる。

(……気にしちゃ駄目なのにって、分かるのに)

 窓から彼女を眺めつづける彼には目をくれず、彼の隣にいる赤いガスに覆われた木星にさようならを告げてから、罵声生じる病室へ向かう。病室の扉はちょっとだけ隙間を作って開いていた。そこからこっそり、こっそりとだけ覗き込んでみる。輝く彼を見れない位置する窓がひとつ、病床が一台置くには不自由しないほどの広さある四角い部屋に、人間が二人いる。

「ふざけんな」

 間違いなく、看護師の間では「とくさん」と呼ばれる、四十くらいになる男が罵声をあげた。病床から身を起こし、斜め前にいる男を恨めしそうに睨んでいる。その先に白衣の後ろ姿、ポケットに両手を突っ込んで佇む。

「こんなに元気なのに」との、罵声がまた起こる。それがとくさんなら、嘘。

「はい。元気だとは分かっていますよ。だけど、経過見しないといけないのです」

 この平然とした声は、たぶん木立先生、と類子は思う。その人ならこの病院に勤める内科医たちの正三角形の階層にて、中ほどに位置する先生。それで、こちらも嘘をついている。

「家に帰らせてほしい。こんな薬品くさくて、硬いベッドに寝てばかりだと、逆に元気じゃなくなる。これって、当然。だから家に帰せっ」

「できません。ごめんなさいね」

「ごめんなさいねじゃなく、申し訳ございませんだろうがっ」

 あっ、との声が類子の前歯を越えた時には、もう惨事が目に飛び込んでくる。木立先生は床に倒れていて、たかさんから馬乗りで首を絞められている。類子は悲鳴をあげ、首を左右へ動かし助けを求め叫んだ。という間に、救いの手が続々と集まってきて、類子へは「関わりのないこと」として遠くへと追い払われる。

 関わりのないことだけど、類子は気になってしまう。事の終息を見届けたくて、叫びと物音で騒がしい病室から少し離れたところで、廊下にモップを擦らせる。垣間見る中、部屋から中年の看護婦が出てきて、類子のほうへ顔を向けてきた。これでその婦人が、三知だと類子に解させる。

「類ちゃん。みんなに報せてくれて、ありがとうね」三知は類子の傍より笑っていって、右肩を撫でた。「ほんと、助かったわ」

 いいえ、と類子は謙虚に首を振った。

「准看護士になるための勉強は進んでいる?」

 はい、と類子は嘘を返す。嫌な質問で、胸が苦しくなった。三知が嫌味をくれる人間でなければ、意地悪い人間ではない、と彼女も承知する。類子に准看護師になって、この病院に働いてもらいたいと応援してくれる。その表れのように、三知は「今度、わたしがお昼休みの時に、勉強を見てあげようか」と申し出てきた。類子は胸がもっと苦しくなり、あやふやに返した。

「大丈夫? 顔色悪いけど?」

 三知から眉の間を曇らして訊かれ、類子は嘘で大丈夫と頷き、微笑んでみせる。

 ――ちっとも大丈夫じゃなんかないくせにね。

「ひとが首絞められているところを見たから、気分が悪くなったというか」

 類子の誤魔化しに、三知は納得したように声をだされた。

「なるほどね。確かにね。木立先生は大丈夫よ。あの人、丈夫だもの。若い先生たちよりも健康にばりばり働いていて、何事も慣れているわ」

「木立先生は大丈夫として、とくさんのほうは大丈夫ですか?」

 三知は苦笑して、いいえと首を横に振る。当然ですよね、と、類子は頷く。

「とくさんの病室のお掃除は今日した?」

「そこは、わたしの当番ではないです」

「ああ。そうなの」

「お掃除する必要ありますか?」

 三知は首を傾げ、唸った。

「必要あるわね。でも、この後ではないわ。できることなら、夜ごろね。とくさんが寝ている頃がいいわね。今日は、夜の勤務はある?」

「いいえ。今日は朝から夕刻までの番で」

「なら、後で夜勤の清掃のひとに頼んでくれる? 今は絶対によ、とくさんの部屋には近寄っては駄目。それで、とくさんにね、病気のこと、寿命に関することを聞かれても、『分からない』と答えてね。病院から脱走されたら、大事よ」

 どれもこれも分かっている投げかけで、どれもこれもに類子は頷いてみせた。決して意地悪ではないのに、意地悪く、どれもこれもから心臓を絞められて苦しい。

「とくさんは、寿命が差し迫っているのですか?」

「ううん。差し迫ってはいないわ。――わたしはそろそろナースセンターに帰らないといけないから、じゃあまたね」

 じゃあまた、と類子は返して、三知の背中が遠ざかり、見えなくなるまで眺める。心臓が重たい。重た過ぎる息が口から出て、視線を感じて、肩傍の窓へ目をやる。

 微粒子ちかちか、きらきら輝く赤いガスが、木星の周りで穏やかに渦巻いている。木星ってなんて綺麗なのだろう、と、類子は見惚れ、気分が癒される。ずっと彼女を見ていたのは、木星ではなく、その隣にいる彼であったのに。

 木星がきれいに輝いているのは、自分のお陰なのに、と彼は悶々と思いながらで、木星を流し見た。木星は類子のいる惑星とは別の惑星、そこの六月二日において広がる黄緑色の草原で、楽しく遊ぶこどもたちをぼんやりと眺めている。


 続

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