第三話 ナニ ニ オモワレタノカ 3

 都会は紺色に染まり、建ち並ぶ高層ビルに点々と小さな光が灯る。この捜査一課のオフィスの窓から見える風景が夜へと変わった。クレーターがはっきりとした満月も見えるではないか。あと五分もすればここでは、午後九時半がやってくる。

 オフィスにある七割以上の席が空いている。その内の席をひとつ埋める彰人は、ここで午後九時半を越そうと決めた。

 今やるべき仕事はなく、夜勤もない、とっくの前に帰宅を許されていた。ただ彼には自宅に帰りを待つ女房もいなければ、恋人もいない。家でひとり過ごすよりも、ここで過ごすほうが楽しい。

 彼は背もたれに寄りかかり、煙草を吸おうとした。だけど、煙草の箱は空であった。空の箱から唐突に、「から」から「すい」と、未だに彼の腹は空いてこないことに繋がった。

 さすがに何も食べないで一日を過ごせば、筋肉量が落ちて、仕事に支障をきたすかも、と彼は考えだし、机の下の足元に置かれるビニール袋から、早朝コンビニで購入した唐揚げ弁当を取り出した。賞味期限が二時間前に切れていたが、問題ないと、気にせずに食べることにする。

 ごま塩がかかる冷え切った白飯を、彼が猫背で黙々と食べ進めていると、横から男のしゃがれた呼び声がした。

 脳が、その声の主を山海収造と即座に特定し、身体を操作させだす。大きな声で返事をさせ、背筋を伸ばさせる。箸をきちんと揃え置かせてから、素早く椅子を回し、全身を声のほうへ向けさせた。その後で、兵隊になった気分をちょっと味わった。

 彰人にとって、山海は大先輩、また捜査一課に配属されたばかりの頃の指導員だ。山海は今年で四十六になる警部。仕事の上下関係とか、年上だからってだけじゃない、生きてきた質でも、頭のあがらない存在だ。

 山海は片手に湯飲みを持って、大柄な身体を揺らしながらやって来た。彰人は椅子から立ち上がり一礼しようとしたが、声には出さないで、手の仕草で制してきた。

 ここ二か月ほど彰人は、山海と仕事を一緒に仕事をしていなかった、対面もしていなかった。常にポーカーフェイスの山海であるが、顔から疲れている感じがした。また、目の周辺に皺が増えたのでは、と疑わせた。

「お前は残業か?」と、山海はいつもの調子で静かに尋ねてきた。

「いいえ。山海さんは残業でしょうか?」

 山海は頷く。今が休憩時間であることを教え、唐揚げ弁当のほうへ細めた目をやる。

「ここで夕飯か?」

 まぁ、そうですね、とかと、彰人は曖昧に答えることはできない。山海は曖昧であると、それを明解にしようとしてくれば、誤魔化しも通用しない手強い相手だ。なので、正直に、「何故、今、唐揚げ弁当を食う流れに至ったのか」を、今朝目覚めたところから始まって、憎しみのラブレターも含めて教えた。

「なるほど。朝から食欲がなく、嫌がらせの手紙も届いて、今無理に食事をしているわけか」

 と、山海は要約すると、彰人の隣の空いているデスクの椅子に腰をおろした。詳しく聞いてこようとせずに、息を長く吐き、彰人の肩を軽く数度叩いてきた。

「どんな言葉をかけてやっていいか分からないが、お前は頑張っている。俺は頑張っているのだと認めるよ」

 救われる。有難い言葉を、彰人は受け取った。悪い感情は何もない。恥ずかしくも、目頭が熱くなりかける。山海に伝わるかは分からないが、ひと言の礼に心を込めた。山海からは、無言で首を横に振るわれた。

「食事を終えたら、家に帰るのか?」

「どうしましょうかね。ここにいれば、こうして山海さんと話せたり、他の仕事仲間と話せたりと楽しいから、家に帰りたいっていう欲求がないです」

 いった後で、彰人は愛想のいい、ぽっちゃりとした中年の女を思い浮かぶ。そう、山海の妻だ。三年前に、五歳年下のこの彼女と山海は結婚した。これは、山海にとって初婚だ。結婚してまだ三年目でもあり、早く家に帰り、彼女に会いたいのではと考えさせられる。

「山海さんが仕事を早く終えれるように、仕事を手伝いましょうか?」

「いいや。結構だ。気を遣ってくれたことに感謝するが」

「そういわずに」

「食べたらどうだ? 俺がいて食事が進まないのなら、俺は向こうへ行くが」

 彰人は山海と喋りたい故に、弁当に箸を向かわせる。弁当に詰まるものを見ても、食べたいと思えるものがない。適当に野菜の煮物を選び、薄切りのレンコンを齧る。冷えていて、甘辛いと、ただそれだけ口で感じる。

「嫌がらせの手紙には困ったものだな」と、山海は視線を落としていった。「お前だけじゃなく、どいつもこいつも受け取っているな。受け取っていないやつは、ひとりもいないのかもな。おもどりになられた人をお返しする任についたことのないやつも、警察官だからお返しに関わっているとして、嫌がらせの手紙を受け取っている。誰も好きで、喜んで、あんな任につくわけないのに」

 はい、と彰人は相槌を打つ。

「おもどりになられた人には困ったもの……いいや。違う。どう言葉を選んだらいいのやら。地球に金星が大接近してきたお陰で、困ったものだな。金星のお陰で、事件も増えた。おもどりになられた人が関係して、殺人や、誘拐やらと」いって、山海は少しの間、口を閉じた。「愚痴だな」

 彰人は首を横に振って、弁当箱の上で箸先を迷い泳がせる。唐揚げを選びたくはない。

「今担当している事件……今夜居残って捜査している事件は、おもどりになられた人が関わっている殺人でな。つい、そんな考えがよぎってしまった」

 なるほど、と彰人は答えた。その山海が担当している事件について詳しく聞きたくはなかった。聞けば、きっとこれ以上箸を進めたくなくなるから。ポテトサラダを箸でつつき、箸にこびりついたポテトサラダを口に入れる。久しぶりに、まずいポテトサラダを食ったものだ。

「定年まで俺はもつのやら」と、山海は漏らした。

 えっ、と彰人は声をあげ、瞬いた。山海から無表情を少し向けられてから、睨まれ、口を閉められた。「聞いてくるな」との威圧を発していると分かるが、彰人は声を潜めて「どういう意味か」と尋ね、教えてくれるように頼んだ。山海は眉間を寄せて黙り込む。

「俺、誰にもいいません。口が堅い、約束を守るやつだと知っているでしょう。定年までもつって、どういう意味ですか?」

 山海は腕を組み、睨む目を窓へやる。

 分かりましたよ。もう聞きません、とは、彰人はもっていかせない。これは、そうはいかせない。

 聞けるまで折れるものか、と彰人は決めて箸を置く。山海へ犯人を白状させる時並みの真面目な面を作ってみせて、腕を組んで黙りこむ。お互いに意地の張り合いを数分続け、山海はひび割れた下唇を噛んでから、窓のほうを睨んだまま折れた。それは、小さな声での白状でもあった。

「定年になる前に、退職しようかと考えている。退職をして、実家の林業を継ごうか、と」

 彰人は激しく動揺し、耳を疑う。

「定年前に退職って。……定年なんかない。ただ警察官として一生を全うするっていいましたよね?」

 と、彰人は大声で聞きそうになったが、堪えて小さな声で聞いた。

 ここに配属されたばかりの頃に、あなたはその言葉を濁りなくくれた。その後で、あなたが抱く警察官としての心構え、道も語ってくれた。俺が捜査一課に配属され、荷が重すぎる職だと悩んでいたからだろう。俺は揺れ動かされた。あなたがかっこいいと思った。俺は、あなたのようなかっこいい警察官になりたいと、と、彰人は続けて責めたくもなる。ずっと、かっこいいままでいてほしいって。

「あの時と、この時では変わるものだ。あの時のままを、この時まで貫こうとして良い時もあれば、駄目な時もある。特に自分が駄目になってしまう場合は。今、この時の俺は後者である。お前にその発言を与えたあの時の俺なら非常に悲しいことながら、今この時の俺は喜ぶべきことだ。なぜなら、そう喜べるのは、今の俺はひとりじゃないからよ」

 ひとりじゃないから、か、と彰人は心の内で漏らす。羨ましく、哀しくさせられる。だからといって、山海を嫉妬し、どす黒い気持ちは微塵も起きない。自分がひとりであることは、自分の責任だと理解もするから。

「すまないな。お前に悪いことをいったな」と山海から察しられたのだろう、面目なさそうに詫びられた。こういうところがあるから、彰人は彼を尊敬させられるのだ。だから笑顔を作り、首を横に振った。

「納得させられました。決して誰にもいいませんから」

 山海は目を閉じて、ゆっくりと頷いた。目を閉じたままで湯飲みのざらざらした表面を撫でてから、湯飲みの口に唇をつける。

 山海からの発言による、自分に関して生じた哀しみは消えた。けれども、この隣で茶を飲む者といずれこうして一緒に過ごせなくなる、と彰人は考えさせられてきて、哀しみがまた生じる。この哀しみは、果たしてどれほどの間続くのかと悩ましい。

 彰人は箸を手にして、弁当の上で箸先を迷わせ泳がせだす。哀しみが胸から目までに上ってくるのを感じて、適当にたくあんを摘みあげ、口へ入れた。

 たくあんは味がよく染み冷たくて、口の中で歯ごたえを噛んで堪能すればするほど、自分を虚しくさせてきた。



 続

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