第三話 ナニ ニ オモワレタノカ 1

 あまりに薄暗い。黒い霧が漂っている、と錯覚させられる。彼の右手首に嵌る、細かな傷だらけの腕時計は午後五時十四分を示す。玄関先から見える限りで、家の全ての灯りは落とされているが、かなり洒落た洋風な内装、斜め前にある上へ通じる階段を、彼は裸眼で視覚可能ではあった。左手にある拳銃の引き金に人差し指をかけ、拳銃を顔横まで持ち上げ、里幸恵を優しい声色を心掛けて呼んだ。

 しかし静まりきった家の中からは、彼女からの返事が起こらなかった。彼は焦っていたのが、さらに一層と焦りだす。

「里さん。どこにいるのですか?」

 自分の呼びかけに、家の中から若い女が現れるのを期待して待つ。彼は彼女の顔を知らない、同僚からの伝達で二十二になる女だと知るので、その彼女が現れるなら若い女だ。耳を澄まして、彼女の声を捉えようとする。通話で声は知っているから、彼女の声を聞き分けることはできるはず。少し待っても、誰も現れず、無音だけを寄越すので、覚悟をさせられるスイッチが胸の中で押された。

 彼は黒い革靴を履いたままで、玄関をあがった。拳銃を両手で構え持ち、周囲に注意を配りながら、また幸恵を呼んでみて、玄関から真っ直ぐのびる廊下を歩きだす。

「刑事さん。わたしは二階にいます」

 通話した女の声が、彼の頭上からした。女の声は落ち着いていた。

「はい。今行きます」

 彼は大きな声で返し、玄関近くにあった階段を急いで駆け上がる。階段の最後の一段を踏み越えると、横長にのびる廊下の中央に到着した。左右を見れば、廊下の両サイドに幾つもの閉じた扉が並ぶ。扉が多すぎて、どの扉の向こうに彼女がいるのか分からない、彼女を呼んだ。

「ここにいます」と彼女が報せてきて、彼は声がした右へ進む。また「ここです」と報せてこられ、ひとつの扉の前に導かれる。彼は緊張してきて、拳銃を握る手が震えてくる。

(お前はできるのか?)と、彼は震える手を見やり、問いかける。(できるだろう。お前も、俺もできるだろう。これが初めてじゃないだろうが)といい聞かせてやった。手は理解を示し、震えるのをやめた。

「入ってもいいですか」

 彼は扉に向かって、承諾を乞う。扉の向こうから彼女が落ち着いた声色で承諾してきて、銃口を片手で前方に構え持ちつつ、空いている手で扉を開けた。

 開かれた扉の向こうは、正面と左の壁を埋めるように本棚が建ち並ぶ書斎であった。天井と床を合わせて八つの角がある書斎は、全ての角を暖色の灯りで満たされている。本棚には、様々な外国語で記された表題の本ばかりで納まる。彼の知らない外国語で書かれた書類が床に散らばり、書斎内の歩行を困らせるほど埋め尽くされている。右奥の部屋の角にはデスクが正面を壁に接して置かれ、デスクには誰かが座る。

 誰かと呼ぶのは、その誰かの横には、こちらに背を向けて立つ女がいて、その者を上手いこと隠し、その者が誰なのかを判断させなくさせているから。女は茶色に染めたミディアムヘア、喪服のような黒いワンピースを着る。

「里さん」と、彼は呼びかけた。開かれた扉の前で立ち止まったまま、拳銃を構え持ったままで。「里さんの要求通りに、俺がきましたよ」

 はい、と女は応じ、素早く振り返った。若い顔をしていた。彼女が里幸恵に間違いない、と彼に判断させる。彼のほうを見るなり、目を見開かせ、彼へ人差し指をつきつけた。

「それは何ですか?」と尋ね、途端に幸恵は狼狽しだす。「それ、拳銃ですよね。何で、拳銃なんかを」

「落ち着いてください。拳銃所持の指令があるためです。俺のため、幸恵さんの安全のために、必要でもあります」

 幸恵はデスクのほうへ少し後ずさり、デスクに座る誰かを身体で完全に覆い隠し、両手を大きく開かせる。彼のほうへ悲しみしかない面を寄越し、震える唇を動かしだした。

「お父さんを見逃してください。お父さんは誰も襲っていません。お父さんはずっとここで論文を書いています。家から一歩も出たことないのだから」いって、幸恵は眉間に皺を作る。「やっぱり、あの人……さん、まなのこうたが通報したのでしょう? お父さんのことを誰にもいわないって信じていたのにっ」

 彼は問いに対して否定した。通報は近隣住民から、と同僚から教わっている。彼女から通報者が誰かを教えてほしいと頼まれ、憎しみの連鎖を生ませたくないのが本音だが、守秘義務を理由にして断った。しかし幸恵の目には、通報者に対する憎しみを確実に宿らせているのを、嫌でも見て分からされた。

 幸恵は視線を床のほうへやり、少し黙りこんでから、再びこちらへ視線を戻す。彼へ向けてくる目は、憎しみではなく、苦しくて堪らなそうな悲しみを伝えてくる。

「刑事さんは、お名前は、確か……」いって、幸恵は口を噤む。

 自分こそが、彼女の要求相手である永礼彰人ながれあきとである、と彼は改めて紹介した。彼女からの交渉要求通り、刑事たちの中で彼女と最も年の近いものが自分だ。最初の要求では同じ年の人間であったが、同じ年の刑事がいないため、一番年の近い二十六になる自分が来た、と。

「永礼さん」と呼び、幸恵は懇願するように胸の前で両手を組む。両の頬に何線もの涙が伝い流れる。「わたしは年が近い人なら、わたしの考えを理解できやすいと思うのです。ええ、認めますよ。認めましょう。わたしのお父さんは一度ここで死にました。それが、息を吹き返し、世間でいう『おもどりになった人』となった。おもどりになられた人のように、お父さんは腐っていっています。だけど、誰にも危害を加えていない。お父さんはやり遂げる時間を与えられたって喜んで、ここで論文を懸命に書いているだけ。――わたしは、お父さんを世間でいうおもどりになられた人と呼ばない。お父さんは死んでなんかいない。まだ生きている」

 彼、彰人は、「困った」のひと言が頭に思い浮かぶ。頭が痛くなってくる。困ったことに、彼女に共感しようとしている。

 ――あなたは、おもどりになられた人のことをどう思うの? 

 彼女は彰人に問いかける。彼女の問いかけが、木霊のように頭の中で繰り返される。彼は焦り、言葉に困らせられる。彼が言葉を探していると、突然と、彼女から向けられる瞳に憎しみが宿った。

「あなたは生きている人を殺そうというの? それを使って。――生きている人を殺せば、人殺しなのよ」

 彰人は拳銃を構える手が震えだす。あの漆黒の空で黄色く輝く惑星が思い浮かび、烏たちのけたたましい鳴き声に、女の悲鳴が脳内のどこからか聞こえてくる。頭が、後頭部から、地割れの如く二つに割れそうな強い衝撃の痛みが走り、視界が揺らめく。

 どこかから、女のさめざめとした泣き声がしてくる。前から聞こえてきたと思えば、次は斜め後ろから、そして次は右からと、あちこちから女の泣き声がする。女たちの泣き声に囲まれ、彼は頭を抱えて悶えた。


 

 続

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