第二話 ドコ ガ イタイノ? 7
今まさに、太陽が一番高く昇る時。今日の彼は昨日よりもずっと夏であった。彼によっても、明里は身体が熱くてたまらない、汗を湧き起こす。日焼け止めで守られていない腕を赤く焼かれだす。
住宅街にある二階建ての一軒家の前まで、明里は駆け足でたどり着き、乾いた喉が痛くて咳き込む。学校からここまで走って、凡そ二十分というマラソンをこなした気分だ。
一軒家の表札が田辺であるままなのを確認してから、明里は敷地へ立ち入り、玄関のチャイムを鳴らした。玄関の扉の向こうから、田辺が姓である紅葉の応じてくる声が聞こえ、安心して身体から力が抜けた。扉は鍵を開ける音をたてずに開いた。
「あれ。明里ちゃんったら、どうしたの? まだ学校の時間じゃない。そんなに汗かいちゃってもいて」
扉が開いてからすぐに、紅葉は玄関前で心配してきてくれた。それよりも前に、明里は紅葉を心配したかった。見るからに紅葉はパジャマ姿、やつれ、目の下に不眠の黒い印が刻まれていた。出遅れて、明里は「大丈夫?」と心配したが、紅葉から首を傾げられただけで、逆にまた心配され、家の中へ招き入れられた。
家の中は灯りがついてなく、窓からの日差しで薄明るかった。冷房がついてなく、蒸し暑い。見ていく限り、家の中は綺麗に掃除が行き届いている。明里はリビングに通され、そこにあるソファでくつろぐようにと紅葉に促され、ソファに座ったが、くつろぎはしない。
「どうしたの? わたしの家に来て」
紅葉は明里に麦茶の入ったグラスを渡し、明里の隣に腰をおろしてから、心配そうに改めて尋ねてきた。渡された麦茶は、グラスを掴む手の肌に伝わる温度からして随分とぬるい。
「紅葉のことが心配になってね。もう何日を会えていなかったし。それに」
明里は続けるのに躊躇う。紅葉から首を傾げられ、続きを促せられる。
――告がおもどりになって、紅葉を襲うのではと心配になってさぁ。
と、明里は教えるのを省き、「紅葉がいないとね、学校つまらない。紅葉がいないと、あんな場所なんにも意味のない場所だ」と教えた。
紅葉から目を瞬かせられ、繁々と顔を見られる。明里は紅葉に微笑む。紅葉が目笑し、そこから涙が溢れ、頬に伝い落ちる。
「ありがとう。明里ちゃんだけだよ。学校でこんなにわたしをおもってくれる人は明里ちゃんだけ。本当にありがとう」
紅葉はそう告げ、視線を落とし、唇を一度閉じてから、明里には聞き取れない何かをいった。明里が何をいったのかと質問すると、「あのさ。久しぶりに今夜ここでお泊りしてほしくなったの。お夕飯一緒に食べたいな」と照れ臭そうに教えてきて、「わたし、ここでずっとひとりで寂しいの。お泊りしない?」と誘ってきた。もちろん、と明里は快諾した、断ることなんてできやしない。
本当に久しぶりだ、と明里は思ってから、麦茶を口にする。麦茶はぬるすぎて、まずい。紅葉から顔を逸らし、テレビが置かれる台座に飾られる写真立てを眺める。写真立ての中には、秋の山を背景に紅葉と鳶武が笑顔で納まっている。
最後にここでお泊りしたのは、鳶武が失踪する前だ。自分が曲がっている理由を理解してくれた紅葉のように、鳶武も同じだった。高一の時には、この兄妹共々に、この家で泊まることをよく誘ってくれた、と明里は懐かしむ。そして鉄の心が「哀しいねっ」て、語りかけてきた。
「何を眺めているの?」
紅葉から尋ねられ、明里は彼女へ顔を戻す。正直にはいえないから、「テレビでも一緒に見よう」と誘うと、唇が柔らかい唇によって数秒だけ塞がれた。
「ごめんね」いって、素早く紅葉は俯き、胸の中央に右手の拳を押し当てる。
明里は頭の中がかき混ぜられた。何が起こったのか、よく分からない。只管ただよく分からなくて、ソファから立ち上がり、「ちょっとトイレへ行ってくる」と思いついた言葉をやる。紅葉から小さく頷かれると、トイレへ行った。
トイレの個室で、明里は便座を椅子代わりに腰を下ろし、額に手を当てて何が起こったのかを考える。自分の感覚からして長い間考えてみたが、やっぱり分からないので困ったまま、長居し過ぎてるとは分かり、トイレから出た。
リビングへ帰る途中の廊下で、先ほどとまでと違う異変を明里は見つけ、立ち止まる。リビングへ通じる廊下の途中に物置部屋があるのだが、その扉が開けっぱなしになっていた。
紅葉が中にいるのだろうか、と明里は考え、物置部屋の中を覗く。中には誰もいなかった。扉を閉めて、リビングへ入った。
明里は佇んだ。リビングのソファの前で、紅葉が黒い液体でできた水溜まりの中で顔をうずめて、うつ伏せで倒れていた。紅葉の横には、制服姿の告が佇んでいた。彼は血の気の失せた顔から表情を消し、鼻と口周りが赤黒く汚れ、喉に黒い一線を横へ引かせ、白いシャツの喉元から雑な半円を黒い染みで描いている。――よく分からない、とだけ、明里は考えられた。
暫し、明里が紅葉と告を見比べていると、告から見られた。告は目を見開かせてから、怯えた顔になって、全身を小刻みに震わせだす。
「明里。これは、その、俺にもよく分からない。どうしてこうなったか、一から説明するならさ、俺は予想したんだよ。もしも俺がおもどりになると明里が考えたら、明里は紅葉を心配して、真っ先に紅葉の家に行くだろなって予想した。だから、俺は紅葉の家へ行って、紅葉の家の扉が開いたままだったから、お前が来るのを待って物置部屋にいた。それで、お前が来た声が聞こえ、お前を探しにリビングへ行ったら、紅葉がこうしてここにいて。……今、気が付いたら、こんなことに」
「お前は紅葉のことを大嫌いといっていたよな。だから殺したのか?」
明里は思いついたまま述べると、告から首を何度も横に振るわれた。自然と目がリビングを見渡し、自分の近くにある細長い鉄の脚をしたスタンドライトにとまる。身体が勝手に動き、スタンドライトの脚を右手で握り、スタンドライトのヘッドを下げて足で踏み外し、露わになった電球を足で踏み割って尖らせ、床につけて持つ。
「嘘か、本当かなんてどうでもいい。わたしはお前のことが大嫌いだ。前々から殺してやりたいくらいに。おもどりになったやつを殺しても、わたしには罪がない。好都合だ」
告は悲鳴をあげ、明里から遠ざかって走りだす。明里はヘッドライトを振り上げて、告の追行を開始した。
終
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