第二話 ドコ ガ イタイノ? 4

 教室のスピーカーから今流行りの曲が流れだす。只今、お昼休みは中盤に差し掛かっていた。クラスメイトの何人もがその曲に誘われ、曲に合わせて手を叩き、盛りあがりだす。

 明里は曲に、彼らに耳を傾けつつ、See you Soonと横線の上で並べ綴り、ピリオドにしては大きめの黒点を鉛筆で渦巻いて描いた。前方から女の子の愛らしいハミングが小さく聞こえてきて、机の上のノートから目を離して、前を見る。

 明里の思った通りだ。自分の机を挟んで、相対して置かれる椅子に腰かける紅葉がハミングをこぼしていた。先ほどまでのように身体の正面はこちらへ向けていたが、ぼんやりとした顔の正面は、こちらへ向けてはいなかった。

 明里は彼女の目の先を辿る。そこにはひとつだけ開けっぱなしの窓があった。そこから穏やかな風が教室へ入ってくる。窓の向こうでは雨を予感させる曇り空が広がっている。きっと空ではなく、開けっぱなしの窓を眺めているのだ、と明里は考えて、彼女の愛らしい横顔を見つめる。

 紅葉はハミングを愛くるしく続ける。明里の視線を感じていない様子。栗色の艶ある前髪を耳にかけ、耳たぶにつり下がる小さな白い花のピアスを晒した。白い花が軽そうに揺れる。

 明里は悪戯心が擽られた。紅葉の耳たぶの白い花へ静かに手を伸ばし、人差し指でちょっと触れ、すぐさま手を引っ込めた。紅葉が目を瞬かせ、こちらへゆっくりと振り向くと、「分かっているのだから」という風に笑み、触れたピアスのある耳たぶを弄る。二人は小声で笑いあって、瞳を重ねあう。

(ねぇ。窓のほうをぼーと見て、何を考えていたの?)

 明里は紅葉へやる台詞を思いついたが、歯止めがかかる。声にしてしまおうか、どうしようか、と迷わせられた。

(開けっ放しの窓……開けっ放し……)

 教室の開けっ放しの窓から、明里は連想させられていく。紅葉の兄、今年で三十六歳になる鳶武、と自然と繋がる。逞しい身体つき、学生時代は柔道をしていたという彼。成人してからは運送会社で働いていて、その仕事柄でも力があるとして、軽々と重たい段ボールを担いで運ぶのを披露してきた。紅葉と彼の両親が四年前に事故で他界してから、紅葉の親代わり。

 恐らく、いつも通りに、紅葉は鳶武についてあれこれと考えていたのだろう、と明里は思い至る。何か違う台詞を早く思いつかないのか、と、紅葉に優しい笑顔を保ちつつ、焦らせる。

「ねぇ。明里ちゃん」

 紅葉から先を越されてしまった。明里は躊躇いがあったが、明るく相槌をやった。

「B組の子から聞いている? B組のいじめられっこの女の子が先週から失踪しているのだって。まぁ、明里ちゃんは他のクラスのことに興味ないから、聞いてないよね」

 鳶武について語りだすとの予想が外れたことにのみ、明里は少しだけ驚いた。B組でいじめられている女の子が、誰であるのか検討がつかない。紅葉のいう通りで、自分が属すE組にしか興味がない。紅葉のために提供された話題に興味を示してやり、驚いてみせた。何となく、結局の話の先行きは、鳶武だとまた予想しつつも。

 わたしの鉄の心が進化している、と明里は黄色い惑星を想像しながら思う。もうわたしは決して驚かないのかも。誰かが失踪するのは日常茶飯事だ。この先、世界で死者が動きだす以上の何かが起ころうとも、驚かないのかも。

「そのいじめられていた子は失踪する前の日に、学校でいじめっこたちに宣言をしてきたのだって。『死んで、おもどりになられた人になってやる。おもどりになって、あんたたちをみんな殺してやる。おもどりになられた人が、人を殺しても罪になんかならないのだから』って」

「なんというか、すごい宣言だね」

「うん。いじめていた女の子たちは怖がっていて、何人かは怖いから学校へ来ていないのだって。その子が死んで、おもどりになられた人になって」いって、紅葉は唇を少し噛んで、目を潤ませる。「……自分たちのもとに来て、自分たちを殺すのではないか、喰ってこようとするのではないかと怖いから」

 紅葉の潤んだ目を眺めつつ、明里は鉛筆を手にして、その頭につく消しゴムをちょっとだけ噛む。話題を変えようと、この昼休みの後にある英語の授業についての話題を振ることにする。机の上に開かれたままのノートに書きこんだ英文を適当に選び、鉛筆でなぞりながら、「これスペルに間違いないかな」と質問する。

「お兄ちゃんは、何でわたしのところにやってこないのだろう?」紅葉は答えずに、声を潜めて聞いてきた。

「何でって」

 いつものパターンへ入ってしまった、と明里は悟り、困る。

「死んじゃっていて、おもどりになられているはずなのに、何でわたしのところにやってこないの?」

 紅葉は聞いて、すぐさま俯いた。身体を震わせだし、両手がスカートを握りしめる。教室では盛り上がる曲が流れていて、明里以外の誰も彼女を気にする様子ない。

「何でそう考えるのよ。紅葉のお兄ちゃんは死んでなんかいないし、おもどりになられるとかないから」

 声にした通りには全く思っていないけど、明里は紅葉を想えばそう否定してやる他に道はない。紅葉からは俯かれたまま、首を横にふられた。

「三か月も音信不通なのだよ。今は以前とは違う。おもどりになられた人がうろついている。おばさんたちのいうように、お兄ちゃんがわたしの学費を払うのが嫌、世話するのが嫌になっていなくなるってことない。お兄ちゃんはおもどりになられた人に襲われて、死んじゃっているんだ」

 紅葉が俯いたまま鼻をすすり、右目を手の甲で擦る。明里は返す言葉を探しだす。探すのに時間を掛け過ぎて、紅葉が続けだす。

「おもどりになってほしい。おもどりになって、会いにきてほしい。死んじゃって、もう会えないよりもそのほうがいい」

 うん、と明里は頷いた。好きな人にはおもどりになってもらいたい、と共感はまだできてしまうから、鉄の心だとしても苦しく、痛くなる。

「もしかしたら、今お兄ちゃんは家に帰ってきているのかもしれない。わたしがいないから、また家を出て、わたしを探しているのかもしれない。――どうしよう、わたしとお兄ちゃんがすれ違ってしまっていたら。誰かにお兄ちゃんが見つかって、通報されたり、酷いことをされたら」

 教室に放送終了のアナウンスが流れだし、明里は紅葉に「誰かに聞かれてしまうよ」と理由をつけ、鳶武の話をやめることを諭す。紅葉は俯くのをやめ、目と鼻を真っ赤にさせ、頬を濡らした顔をあらわす。

「家に帰ろうかな、わたし」と、紅葉はいった。「気分良くない」

「そんな。紅葉が家に帰るなら、わたしも家に帰るよ。紅葉が学校に来ないなら、今日わたしが来た意味ないよ。帰らないで」

 間をあけてから、紅葉は小さく頷いた。

 家に帰る――から、明里は胸にひっかかる。開けっぱなしの窓を一瞥してから、紅葉の近くに寄り、彼女の背中を優しく撫でる。

「あのさ、紅葉は、昨日はちゃんとおばさんの家に帰ったのだよね?」

 紅葉はまた俯く。黙りこんでしまった。

「実家に帰ったの?」と明里は聞いても、紅葉は黙ったまま。現在紅葉のお世話をする彼女の叔母の家には帰らず、鳶武と暮らしていた、かつては両親とも一緒に暮らしていた実家へ、紅葉は帰ったのだと察する。

「だって、あそこがわたしの家だから。あそこがお兄ちゃんの家でもあるから。家に帰ってくるかもしれないし」

 そうだね、と明里は相槌を打って、紅葉のことが心配になる。いつものように心配にさせられる。

「今日実家から学校へ行く時、家の戸締りしてきた?」

 明里の質問に、紅葉は答えない。暫く待っても答えがこないので、明里は続けた。

「玄関の扉を開けっ放しはやめなよ。お兄ちゃんが帰ってこようとして、家に入れなかったらいけないから、との理由で開けっ放しはやめな。危ないよ。泥棒とか、変質者が侵入してくるよ」

「うん。分かるよ。でも、でも、だってね」いって、紅葉は開けっぱなしの窓のほうを見た。「雨の匂い。雨だ」

 明里は開けっぱなしの窓のほうを見る。本当に雨が降り出していた。小雨だ。雨の匂いは感じ取れない。

「お兄ちゃん。傘を持つことできるのかな」

 紅葉はぼんやりとした顔で呟いた。


 続

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る