第二話 ドコ ガ イタイノ? 1
藤田先生と呼ばれる初老の男はデスクの上で両手を組み、度が強い眼鏡の奥にある小さな目から射るような視線をこちらへ寄越す。ついに、もったいぶらせていたトークに、終止符を打たせるつもりだ。
「この場をかりて僕は宣言させていただきます。これはウイルスが原因ではありません」
見事に彼は終止符を打ってみせた。その直後、彼の両手の下にテロップが再び出現した。本名である藤田忠司から始まり、大そうな略歴である国立大医学部教授に、海外で医学やウイルスだの研究をしたとかの、テロップが左から右へとだらだらと流れていく。
そのようなテロップを出さなくても、賢さ漂う顔から、世間を充分に説得させられそう。ただの画面の邪魔をしているだけじゃないの、超疑問っと、明里は半ば寝ぼけた頭で思いつつ、あくびをこぼした。パジャマの胸元に手を入れて、ブラジャーの位置を整える。
居間の壁に掛かる時計を明里は見やり、午前七時四分と確認する。登校時間までに十分余裕があると判断して、またテレビへ目を戻した。自分の寝ぐせだらけの金髪を手櫛で整えだす。髪を繰り返し染めたことで傷つけた代償からも、髪にはあちこち絡みがあった。絡みが指に掛かるごとに、頭皮を引っ張られて痛い。
「本当にウイルスが原因でお亡くなりになった人が、おもどりになられるわけではないのですか?」
いかにも不安そうな声でそう尋ねたのは、女子アナの千夏だ。アップに映されていた藤田が遠ざかり、ニュース番組のスタジオ全体が映しだされる。藤田が座る半円型のデスクには、右から藤田、メインキャスターの大森、千夏と横並びで座る。千夏は藤田のほうを見て、わざとっぽいほどに表情を曇らせていた。
はい、と藤田は深々と頷く。
「日本だけでなく、世界中でウイルスが原因ではないと調査結果を出しておりますからね。だから、おもどりになられた人に襲われても、怪我をしても、決してパニックになってはいけません。その怪我により死ぬことはありません。またその怪我が原因で、おもどりになられた人のようになることもありません。そして、その怪我を治療した後で亡くなった時に、その怪我が原因となって、おもどりになられることもありません」
「もしもおもどりになられた人に襲われても、怖がることはないということですよね」
と、千夏は藤田の発言をまとめる。
「その通りです。怪我をしたら、速やかに病院へ行きましょう。そしてね、僕の話はまだ終わっていませんから。今はまだ世界各地で、お亡くなりになられた方々が、何故おもどりになられるのかの調査が始まったばかりですが、いち研究者の僕の見解でも、人間の身体に変異が起こったことでおもどりになると考えています」
藤田は咳き込み、目の前に置かれる透明な液体が満たされたグラスに口づける。千夏と大森が歩調を合わすように、うんうんと頷く。藤田はグラスを置くと、さらに続けた。
「何故身体に変異が起こったのかは、まだ不明です。北欧や、アメリカの研究チームは半年前に金星が大接近したことが原因で、我々には体感することができない地球環境の変化が発生し、その変化が我々の身体に影響を及ぼして変化が発生したと考えております」
「より詳しくお話していただけませんか?」
千夏の質問に、明里は思わず同意して頷く。台所のほうから、母が「朝食を食べなさい」と不機嫌そうに催促する声が聞こえたが無視をした。
「我々には体感できない地球環境の変化とは、例えば地球にかかる重力、気圧、空気中の酸素濃度といった目には捕らえないような、しかもごく僅かな変化ですね。そのような環境の変化が引き金となって、我々の身体は変化に応じよう、変化した環境にとけ込もうと備わる生物反応を起こし、我々の身体にも変化が生じた。それにより、亡くなっているのに、おもどりになるようになったと考えているのですね」
「なるほど」と大森は相槌をやる。
「僕が訴えたいことから逸れてしまいましたね。この場で訴えたいのはね、ウイルスが原因じゃないとはっきりしていて、誰もがおもどりになっていない。またさっき僕が述べたこと――海外の研究チームも、人間の身体に変化が起こったからおもどりすると考えますが、医療現場を見てきましてね、本当に、事実、亡くなったみんながみんなでおもどりをしていませんから」いって、藤田は眉間に皺を作り、声をはりあげた。「自分の身体は変化しているのだ、必ずおもどりするのだなんて考えてね、命に関わる危険な行為をしないでくださいっ」
そのとおりです、と大森と千夏は大きな声を合わせる。藤田がまた咳き込み、グラスに口をつける。大森は唸ってから、口を開かせた。
「先ほど先生がおっしゃっていましたが、おもどりになられた人は、身体の損傷具合と腐敗の進行具合によって、生前のように意思疎通ができれば、自らの意思で行動をおこせる。けれど、おもどりになられた人は意思があっても、生きている我々を襲う」
「はい」
「世間では、おもどりになられた人は生前に好きだった相手、恨んでいた相手、強い想いを抱いていた相手を、自分の意思で襲っていると噂になっていますが、先生はどう考えますか?」
大森の問いかけに、藤田は顔を顰め、額を掻く。
「ああ。僕もその噂を聞きますね。僕は医療現場で働いていて、その噂に頷くことができませんね。――意思関係なく襲ってしまっているとも。だから危険なのですよ。それで、近しい間柄であった、恨んでいたからとの理由で襲っているとは思えませんね」
また台所のほうから母が催促する声をあがった。明里はため息ついて、生返事をやる。母が台所で大きな声で文句なのか、愚痴なのかをひとりでいいだす。生返事に対するいつも通りの反応――藤田から学んだ生物反応というやつかな、と明里は淡々と考えてみる。
「また遅刻したらどうするのかしらね。遅刻ばかりするから、先生がわざわざ家にまで来られて、わたしに注意をするの。恥ずかしい。これ以上遅刻したり、休んだりしたりしたら、退学になるのにね。親不孝だわ。高校中退になったら、どう生きていくのかしら」
藤田はテレビの中で口をぱくぱくと動かして懸命に喋っているが、母の騒ぎによって、明里は全く聞き取れない。母の文句、愚痴なんぞ今に始まったことではないので、いつもならへいへいと聞き流しているのだが、こうも邪魔をされると苛々してくる。
「ああ。わたしは不幸」と、ヒステリックに母が絶叫する。
「いえることは、お」
「誰もわたしを大事に想ってくれない。何でなのよぉ」
藤田が喋るのを、また母が遮った。
「おもどりになられた人と出会ったら、警察、公的機関に連絡を」
藤田がこちらに向かって、深々と頭をさげる。どうやら話を締めくくってしまったようだった。一方で、母はしぶとく、締めくくらない。
「どいつもこいつも自分勝手なのよぉお」
つい、明里は舌打ちがでて、「煩い」と怒鳴ってしまった。「自分勝手なのはどいつなんだよっ」
母が黙った。少し間を置いてから、台所から陶器が割れたような音が起こった。憤慨してからの、皿でも床に叩き落としたのだ、と明里が想像している最中に、真っ赤な顔をした母が居間へ駈け込んできて、躊躇いなく明里の頬に平手をくらわした。
平手をされても、明里には心を揺さぶられる衝撃――驚き、悲しみは生じなかった。自分が招いた結果で、分かりきっていた結果でもあるから。けれども頬に痛みが生じないということは、残念ながら起こらなかった。身体の変化とやらをちょっとは期待してはいたのだが。
続
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