第一話 タベチャイタイ 3
美香から「征矢さん」から、「征矢」と呼ばれるようになってから凡そ一週間が経とうとした六月二日土曜日、征矢の頭上に麒麟模様の水色な空と半月があった。
征矢は彼らに関心を抱かなかった。駅の近くに置かれる鳥の銅像にもたれかかり、腕を組み、繁華街の賑わう人通りを遠目でただ眺めていた。
征矢、と美香の明るい声が背中からし、征矢は聞き障りの良さから口元が綻ぶ。振り返りきる前に、背後から彼女に思いっきり抱きつかれた。
「待たせちゃって、ごめんね。寝坊ちょっとしちゃった」
「いいって。たったの五分くらいじゃない」
一頻り征矢は美香と抱擁しあってから、手を繋ぎ、繁華街に向かってゆっくり歩きだす。美香が昨日のカフェでのアルバイトの話をしだし、いつもと変わらないデートが始まったと感じた。きっとこの後は大学の話だろうと予想すると、的中だった。今日は繁華街でのデートだから、そこに建ち並びにある雑貨屋に行きたがるだろうと予想すると、また的中で、彼女から「行きたい」とねだられだした。
どうしよう、と征矢はわざと渋る感じに悩んでみせる。彼女から不満げな顔を向けられた。
「いじわる。わざと悩むなんて」
「いじわるだからね」いって、征矢は笑う。「キスしてくれたらいいよ」
「こんなひとがいっぱいいるところでキスは恥ずかしいよ」
美香から嫌がられ、ますますキスをしてもらいたくなり、征矢はキスをねだった。これも、いつもの流れ。彼女は本気で嫌がっているのではない、わざと嫌がっていると理解もしている。
「分かった。恥ずかしいのに」と、美香は渋るに渋ってから、紅潮したふくれっ面で承諾をしてきた。
「おい。悪魔っ」
征矢が美香にキスしようとした時、近くから男の怒鳴り声がして、動きをとめさせられた。誰かが喧嘩でも始めたのかと想像し、目をやってはいけない、彼女を連れてここから遠くへ離れるかと考えだした時、また同じ怒鳴り声がし、横から誰かに肩を強く押された。
「みっちゃんから離れろ」
征矢が押されたほうを見やれば、そこには背広姿の太った中年の男がいた。男は血走った目を向けてきて、肩で息をしている。
みっちゃんって、もしや、と征矢は思いつつ、美香を見る。美香は真っ青にさせた顔を男へやり、体を小刻みに震わせている。男から美香は「みっちゃん」と力強く呼ばれると、「たっくん」と小声で呼びかえした。男は美香の傍に寄り、両肩を掴むと、顔を皺だらけにして泣きだした。
「みっちゃん。あんな悪魔と付き合うのはもうやめよう。あいつはみっちゃんを汚したいだけ、とんでもないやつ。僕のところへ戻っておいで」
「たっくん。痛いよ。離して」
まさかこの男が美香の元カレかと、征矢は目を疑う。元カレだとすれば、想像以下過ぎであった。美香と男の間に入り、ふたりを引き離してから、美香に男について尋ねると、「征矢の前に付き合っていた、あのカレ」と教えられた。
「悪魔。僕はすべてお見通しなんだ。お前が、僕とみっちゃんを引き離したんだってな。呪われろ。死んでしまえ」
男は口から唾を吐き散らしながら吠えてきた。「呪われろ」と「死ね」を交互に連呼しだし、征矢たちの周囲に人々が足をとめだす。
征矢は下げている手を拳にさせる。黙れっと男に怒鳴り、ぶん殴れるものならぶん殴ってやりたくなる。また男が発した発言に妙に胸を引っかからせられる。兎も角、ひとの目がある。男を宥める必要があり、それからひと目のないところで男と美香の三人で話す必要があると考えに至る。拳を解き、戸惑っている様子を装ってから、口を開けた。
「すみません。俺には何をいわれているのか、よく理解できていません。落着きましょう。きっと俺と美香さんとで話がしたいのでしょう? 三人でどこかで話しあいましょう」
征矢が男へ低姿勢で、頭をぺこぺこ下げてやると、随分と上から目線な態度ではあったが、男からすんなりと承諾されてきた。案外男が単純であることに、一安心させられ、どうにでもさせられると判断した。
続
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