第一話 タベチャイタイ 1

 雲のない夜空で、うしかい座が清らかに輝いていた。清らかな輝きの真下にあるバーの中では、静かに流れていたジャズな感じのピアノ曲が終わり、また似た感じのピアノの曲が始まった。

 後二時間も経過すれば三月十二日が訪れる。客が減るのではなく、さらに客が増え、陽気な笑いがあちこちでひっきりなしに起こる。

 曲の変更に合わせてなのか、店内の明るさが若干薄暗くなった。それと伴いテーブルに置かれるキャンドルの灯が際立つ。自分の隣に座る彼女の顔が、灯に一層と照らされる。彼女の赤みあり、肉厚な唇は、濡れっぽく何とも美味しそうに、征矢には見えてしまった。

「美香ちゃんのこと食べちゃいたいな」

 お酒が回ってきてもいたから、征矢は思わず漏らしてしまった。彼女から嫌がられるかと心配になったが、照れ臭がるように身を縮こませ、小声で可愛らしく笑われただけで済んだ。

 大当たりを引いた、と征矢は改めて思った。

 今夜の合コンは正直いって気乗りではなかった。合コンにくる女の子たちは聞いたこともない私立大からの子と、誘ってきた友人から教えられていたから。自分は世間で名の通る大学の歯学部生であるのに、そんな低スペックと肩を並べたくなかったが、友人の頼みだから仕方がなく、数合わせとしてきたつもりだった。が、とんでもなく可愛い、自分よりも二歳年下、二十になりたての子を引いてしまった。

 予定を変更することに決め、征矢は周囲の様子をさりげなく伺う。征矢の友人たち、他の女の子たちは自分と美香のことを気にもせずに、各々のお目当ての相手と話している。――問題ない、と判断して、彼女の猫っぽい目の輪郭に納まる茶色い瞳を見つめ、切り出した。

「ねぇ。付き合おう」

 美香は目を瞬かせてから、口を両手で覆い隠して小声で笑った。

「征矢さんは冗談ばかりいいますね」

「冗談じゃないよ。本気なのだけど」と、征矢は彼女の瞳から目を離すことなく、舌を絡ませることもなく、嘘をつけた。けれど彼女から嘘だと判断されたからか、また笑われた。

「本当に面白いひとですね。その」

「本気だから」

 美香が何かを続けていおうとしたのを、征矢は言葉にやや力を込めた嘘で遮ってみた。彼女から微笑まれつつも、明らかに困惑した目つきをされ、黙りこまれる。芝居の効果はあったようだ。「本気だよ」ともう一押しすると、彼女は恐る恐るとした感じで口を開いた。

「あの。わたしたちはついさっき出会ったばかりですよ」

「うん。そうだけど、単純な話でさ、ひとめぼれした。付き合いたい。好きだよ」

 征矢が美香の肩に腕を回そうとすると、彼女から腕を優しく払われ、首を大きく横に振るわれた。

「実はわたしは合コンの数の埋め合わせできたのです。わたしにはカレシがいます」

 辺りの様子を伺うようにして見てから、彼女は困り顔で静かに告白をしてきた。

 だから何なんだよ、と征矢は心の中で彼女にいい捨てる。その告白は別にどうでもよく、興味ない。ただこの場所からふたりで抜けだし、ふたりになれればいいだけだから。

「カレシいるんだ」

 わざと征矢は悲しげに思われるようにいうと、美香から同情的な眼差しを向けられ、申し訳なさそうに謝られた。謝るのを制して、微笑みを作る。

「こんな可愛ければ、カレシは当然いるか。いるよねぇ」

 美香は照れたみたいに征矢から顔を背け、目の前に置かれるカクテルが満たされたグラスの口を指でなぞりだす。

「征矢さんは、その、彼女がいないのですよね?」

 うん、と征矢は頷いてみせる。頭の中で今日一緒に講義を受けた恋人の横顔を思い浮かべ、目の前にある美香の横顔と比較をしながら。

「不思議。征矢さんに彼女がいないのが」

 そうかな、と征矢は大げさに首を傾げてみせてから、「美香ちゃんのカレシは同じ大学のひと? 気になるな」

 気になるのは嘘ではなかった。今征矢が思うに、この彼女は恋人がいるとしても、もしもこの自分から告白されれば、彼女は恋人がいることをひた隠して喜ぶべきで、俺を受け入れるべきでもあり、悔しくさせられる。どんなお相手なのか知りたかった。

「ううん。会社員」

 彼女は嬉しそうに答えた。まるでそのカレを思い浮かべたかのようだった。征矢はそんな彼女にさり気なく、「カクテルの氷が解けだして、美味しくなくなるよ」と理由をつけて、飲むことを勧めつつ、彼女のカレについて詳しく聞きだすことにした。

「わたしのカレシは郊外にある会社で働いているの。今四十歳。わたしとカレは付き合いだして二年になるの。わたしは都内の大きな本屋さんの近くにあるカフェで、バイトしているのだけど。二年前にそのカレが、わたしは気がついていなかったのだけど、『ずっと前から見かけていて、好きだった』とかで、ラブレターをくれたの。それで、付き合うことになって――カレ、バツイチなんだ」

 彼女はさも嬉しそうに、自慢げに教えてくれた。

 征矢からしたら、何故彼女は嬉しそうにして他人に教えられるのか不思議でならなく、自分なら絶対に他人に教えたくない内容だった。彼女からさらに、その恋人が名の知れないちっぽけな会社の平社員だということまで教えてもらい。猶更不思議で、嘘をついていると疑いたくもなった。思わず嘘かどうかの確認をし、事実と肯定されて、彼女に呆れつつ、ことさら悔しくなった。

 酔いが回ってきたのか、あれこれと美香のほうから恋人との惚気話をはじめ、征矢は悔しさをひた隠しつつ、只管愛想よく相槌を打ち、飲むのを勧める。飲まれて減っていくグラスに入る飲み物を目分量で図ってばかりいて、惚気話は全く気にならない。

 彼女のグラスが空になりかけ、彼女の頬が随分と紅潮しているのを確認してから、彼女の話を遮ることにした。

「話を聞いていて思ったのだけど、そのカレシ、美香ちゃんのこと遊んでいそう。愛していない、と断言かな」

 えっ、と美香は声をあげ、瞬く。

「絶対本気じゃないって。だいたい年が離れすぎ。美香ちゃんのことを恋人じゃなくて、こどもと思っていそう」

 美香は目を泳がせ、唇を小刻みに震わせる。間を置いてから、「そんなことないです」と否定した。

「俺はそうだと思うよ。いずれ近いうちに関係がうまくいかなくなるって。俺は美香ちゃんを想うから助言するけど、美香ちゃんが悲しい思いをする前に別れたほうがいいよ」

 悔しさからだけじゃなく、美香に対する意地悪として、でっちあげたことを征矢は弁じきった。

「そうなのかな?」

 困惑した表情の彼女から尋ねられ、征矢はゆっくりと深く頷いてみせた。



 続

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