宗教

朝川渉

第1話

今日も、世界の均衡は保たれていると思う。トムソンガゼルは教壇の方角へ降りていく階段状の席の一つに座って、机の上に挙げられているガラスの球体を見詰めている。

このドームが僕たちの世界だった。僕らはひがなこの中に閉じ込められて生きている、と考えられていて、いま地理学と宗教学の授業の最中だった。トムソンガゼルは壇上の教師が話すのを聞く。

「わたしたちは太陽のご加護のもとで完璧な均衡を保たれて暮らしている。日がさせば、海岸まで伸びた草や木が息を吸い込んでその体積を増やす。僕らはそれを食べ、数を増やす。一日、一日とその中で傷ついたものが死に、年老いたものが死んでゆく。溜まった不浄なものを、植物が食べる。それから…」


「皆に話がある。今日は転校生が来ています。おーい、入っておいで。」


ドアを開けて入って来たのはライオンに似た生き物だった。デムラくんと名乗るその生き物は僕らトムソンガゼルの多く活動するこの星の中で数少ない肉食動物の生き残りなんだそうである。

「法律にのっとって、僕らはこのサイクルを享受します。君らはまだ中学生だが…生物と宗教学については小学校で既に学び終えました。法律191条を、暗誦できる生徒はいるかな」ぽつぽつと細い手を挙げるトムソンガゼルたち。僕も一応挙げるが、先生と目が合い「きみ、言ってみなさい」と言われる。

「はい。僕らはサイクルを愛してます。その中にいることが神の眼差しに加わることです。ですからこのサイクルから離れるものは法律191条によって罰せられ、求めるものと求められるものの行使は国家が定めるものまで回復させられます」



「そうです。」

そういって皆がデムラくんの方を見た。デムラくんはノーリアクションだった。



「というわけでみなさん、今日からデムラくんと仲良くしてください。」



「よろしくお願いします」デムラくんは改まって教壇の上からお辞儀をした。



「デムラくんは僕らとは違って、本当にお腹が空いている時にしか食べません」



「はあい」

トムソンガゼルたちが、まばらに返事をする。僕も一緒になって声を出した。



「ええとどこまで話したかな」



先生が教科書を持って言い生徒の一人が「不浄の吸収までです。先生」と答える



「ああ、そうだった。」



「そういう時植物達は何を考えるのか。僕らは植物の声を聞くことができないが、その地点で色々な数字はゼロになることが科学で証明されています。その活動が行われるのはいったいいつですか?」



「夜です」

当てられた生徒が応える。



そうです。そして朝になると僕達が目を覚まして、今度は植物達は眠る時間帯です。〈活動が起こるごとに予知夢のような気体が生まれる〉それが普通の化学反応の解なのですが…植物の関わる、この反応の場合それは歌に変換されるようです。



続きは、また明日。次の授業で教えます。では、起立!」


そこで生徒達が立ち上がり、礼をする。


デムラくんはのっしのっしと自分の席の方へと歩いてきて、それに対する僕らはまだノートを書き留めている最中だった。宗教学…それを学ぶことはお祭りの終わりのなか、最後の紐を自分で締めるような事だと思う。


先生の行ったことを書き留めながら、教科書をめくる。僕はデムラくんの様子を横目で感じ取りつつ、今年の初めに自分の祖母が死んだことを思い出していた。


今年で20歳になる祖母は死ぬひと月ほど前からだんだんと動きがゆっくりになって来ていた。食べたのに、吐くことが多くなった。それから、横たわって何日も動かない日が続いた。皆がそれを見ながら、今祖母は一体何を考えているんだろう、今から何に成り変わるつもりなのだろうと考えていた。


「デムラくん、体育の授業だよ」生徒の一人が声をかける。デムラ君が僕らと一緒に先生のクリーナー掛けの音に耳をすませているのを見て居た僕らは、まだ僕らとデムラくんの体つき以外の違いがよく分からない。



「うん」デムラくんは答える。「どうやって行くの?」



「一緒に行こう」

生徒の何人かが、甲斐甲斐しく荷物などを持ってやり案内する。僕も少し離れてそこに加わる。


廊下からは、中庭が見えるつくりになっている。僕らは、いつも硝子窓がとても好きで、区切られた空間があまり好きじゃない。いつも周りを見渡していたい本能なのだろう。



「どんな肉が好きなんだ」



生徒の一人が聞き、僕はその話に耳を澄ませる。



「この間食べた、赤ん坊の肉は美味かった。」






「ふうん」

聞いた生徒が、ぶるぶるっと耳を震わせる。僕も同じ気持ちだった。

その後で僕らは仲間と同じように授業をした。なんの変哲もない授業で、デムラくんはボールを触ったことが無いみたいだから先生から持ち方を教えてもらっていた。


(本当にお腹が空いた時にしか食べない)


僕はデムラくんを見ながら先生の言ったことを考え込む。本当だろうか?トムソンガゼルは土地じゅうに生えている草や木をあたり前に食べている。それから、光合成と呼吸のサイクルを成功させるためにこの世界は夜と朝が明確に区切られていて、朝になればずーっと食べているトムソンガゼルもいる。子どもなんかは遊び食べをする。肥満のトムソンガゼルもいる。

次の日も次の日もデムラくんはお腹が空いてないみたいだった。



「ねえきみは、本当にお腹が空いてる時にしか食べないの」



僕は思い切って聞いてみた。デムラくんは正面に付いた目を僕の方に見据えてぱっと離してから「うんそう」と答える。



「じゃあ、この間食べたのはいつ」



「ひと月前」



「えっ。そんなに前なの?」



「そうだよ。」



「ぼくらは、一日中食べてるけど」



「はは。それは、エネルギー効率が違うもの」



「へえ」

僕はデムラくんのピンと張ったひげを見る。これに血がついたときは慌てて毛繕いするんだろうかと考える。




一週間後、テスト前でトムソンガゼルが参考書やノートのやり取りに忙しく歩き回っている時、教室へと入ってきたデムラくんを見てなんとなく近づきがたい感じがした。皆も、何も言わずに普段通りにしているけど、なんとなく近くに寄るだけで雨が降り出す前の曇りの日みたいな感じがしてくる。僕もいつもより前足を舐めすぎてしまい、教科書がボロボロになってしまった。



「何やってるんだ」



「あ、いや…」



ちょうど、それは憲法の教科書だった。ものを廃棄するとき、トムソンガゼルを埋葬するとき、それから次の章に入れば他の生き物との接触について書かれている。


一条ーすべて憲法に基づいた法律で定められる


僕はページをめくる。

「我々のつくりはサイクルに加わる時にもっとも喜びを感受するような身体と精神の作りになっている。」「何者もサイクルからはみ出ることは出来ない」「サイクルに加わるとき、痛みや恐怖、悲しみなどは感じない。」


「死にゆくものを処理する手段はさまざまだが、まず体の声を聞き、それにあったもので行う」


祖母の死んだ身体はサイクルの意思にしたがって(と父が言っていた)海岸の土に置かれることになった。土と、草が生えているちょうどはざまの当たりで、皆が歩く道からもよく見える場所だった。あくる日そこに沢山の大きな鳥が集まって居るのを皆が見た。


次の日、教師もなんとなく緊張していた。デムラくんはいつ肉を食べるんだろう、というか、僕らを食べるんだろうと皆が同じことを考えていた。けれど、それはあろうことかすぐ、それも午前の授業中に行われた。僕らのクラスにいるトムソンガゼルのいっぴきが、デムラくんに消しゴムを貸した瞬間、デムラくんの本能というかサイクルの行使が我慢がならなくなったようなのである。


その子はいつもデムラくんにプリントを回して居た子で、このクラスではいちばん小さい子であった。僕らは授業中にその子がデムラくんに食べ尽くされるのを見ていた。デムラくんは前の席にいるその子の方に上半身を乗り出して、まず首元に噛み付いた。みな、「あっ」と思ったけど声は出さなかった。その子が動かなくなるとそれからばりばりと首の骨を噛み砕いた。もはや四つ足で、その子が無言でじたばたしているのをデムラくんは口だけで分解しようとして行くかのようだ。僕らはその動きを正視することは出来ず、けれど視界の片隅でそれを見守っていたのだが、デムラくんはなるべく血が流れないように気をつけているようだった。


僕らはこの世界に飼い慣らされてしまったが、デムラくんは僕らよりももっとこのサイクルの近い部分にいるのだ。僕はその時にそう思った。それから法律191条、教師の言っていたことを考えてみる。ある授業で、サイクルの仕組みのひとつは救いにあたると教えてもらった。


僕たちはずっと、窓の外を意識していた。その子はずっと、食べられていた。日が明るくて暑過ぎるせいか誰かがその窓を開けた。僕もいつか食べられることがあるのだろうか、そのときは本当に痛くないんだろうかと考えていた。デムラくんに首の骨を壊されてしまえばいつものように教師の話を聞き、次の日のことを心配し、掃除当番のときに雑巾で触れるようにその場所まで手を伸ばすことがきっと出来なくなる。

多分、圧力から抜けて行くように自由きままだった僕らはサイクルに引きずり込まれるのだろう。ひとつのそれが、本当に音楽にを生むことになるんだろうか?そんなふうに感じていて、その後で僕らはそこでもっと、大きな声を聞いたのだ。

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宗教 朝川渉 @watar_1210

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