四章【矢も楯もたまらず、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ】

無欲な子


 鈴生雪。雪さん。


 人のためにばかり生きて、

 とかく献身的だった

 優しすぎるお姉さん。



 彼女がいなくなった途端、

 僕の視界は灰色に塗れた。

 色素を抜かれて、

 その上からグレーを

 上塗りされたみたいな廃都感。



 君に出逢って

 世界が薔薇色に変わったと、

 そんな喩えを恋愛ドラマで

 よく耳にするけれど、

 これはその逆再生。


 有から無へと転じる。

 有ったものが無くなる。


 人は対応力に長けた生き物だと

 聞いたことがあるが、

 有ったものを奪われるのには

 滅法弱いとも聞く。


 それが「ある」ものとして

 慣れてしまうと、

 あることが当たり前の

 生活を送るようになり、

 なくなったとき、

 どうしたらいいのか分からなくなる。

 ――それが今の僕だ。

 


 時は夜の十時頃。

 窓から見える夜空は

 星一つ見えないほど霞んでいた。


 雪さんを引き留めることもできず、

 かと言ってその背中を

 見送ることすらしなかった

 僕はとてつもない

 虚無感と喪失感に襲われた。


 少しでも気を紛らわせたくて、

 ちょっとエッチな

 シチュエーションボイスを視聴した。

 家に誰もいない状況だと、

 誰にも邪魔されず

 集中して聞くことができる。

 けれど、



(こんなもの見てたら雪さんにバレて、

 またシチュエーションの

 再現とかされて

 大変なことに

 なっちゃうんだろうなぁ……)


(うわ、このひと

 胸触らせてるみたいだけど、

 これ見てるの知ったら雪さんも

 同じようなこと

 しようとしてくるのかな?)



 そんな考えが絶えず浮かんで、

 気付けばお姉さんの

 そういうところを想像して

 昂ぶる自分に気付き、

 自己嫌悪に陥った。


 忘れるために、

 誤魔化すために色んな声・

 シチュエーションを聞いては、

 彼女を思い出して……

 そんな劣情ループに嵌まっていった。

 そのうち疲れ果てて

 眠っていたのだろう。



 僕の呼吸音以外、

 生き物の音がしない無機質な空間に、

 ピーンと調子の外れた

 甲高い機械音が鳴り響く。


 その音で目覚めた僕は、

 眠りを妨害した

 それに舌打ちをしながら

 スマホを手に取った。


 画面の右端には

 21:54と表示されている。

 通知元のアプリを起動した。



【約束通り、

 潦葉菊は解放してやった。喜べ】



 それは杣山との

 取引が完了したことと、

 雪さんが彼の元へ

 戻ってしまったことを意味していた。



(胸糞の悪い文章だ。

 まるで自分の方が立場が上だと

 言わんばかりで腹立たしい)



 何も返答する気にはなれなかったが、

 無視をしてばぁちゃんが

 帰ってこない羽目になったら

 本末転倒である。


 仕方なしに、

 僕は文字を打ち込んだ。



【はい。ありがとうございます】



 しかし、

 これで満足するような輩ではない。

 アプリを閉じようとすると、

 追加のメッセージが届いた。



【でも】


【お前は雪を売ったんだから、

 もう一生アイツには会えないな】



「っんの……

 腐れ外道がっっっ!!!!」



 僕は怒りに任せて

 スマホを地面に

 思い切り投げつけた。しかし、



「っっつう……」



 コントロールも何も考えずに

 地面へ打ち付けられた

 スマホはバウンドし、

 僕の足の小指に直撃した。

 神経を穿つような痛みに蹲る。


 物理的な痛みと

 精神的なダメージの両方を負って、

 年甲斐もなく

 うぁんうぁん泣きじゃくった。

 泣き喘いで、号哭して、また眠った。

 


 ガチャガチャと

 ドアノブを無理やり

 こじ開けようとする音で

 目を覚ました。



 スマホで確認すると、

 時刻はまだ

 午前五時を過ぎた頃だった。


 寝惚け眼を擦って居間へと向かい、

 インターフォンの

 画面を表示させる。


 するとそこには何ヶ月も

 待ち焦がれたばぁちゃんの

 姿が映し出されていた!



 僕は起き立てで

 ふらつく足取りのまま

 玄関の鍵を解錠し、

 ばぁちゃんを迎え入れる――、



「ばぁちゃ――」



 ところが、

 真っ先に飛び込んできたのは

 ばぁちゃんの顔でもなく声でもなく、

 骨に薄い皮が

 張り付いたような老人の骨腕だった。



 バチィィンッッ


「っこんの、馬鹿息子がー!!!!」



 打たれた拍子に尻餅をつく僕に構わず、

 息を乱したばぁちゃんは

 僕を睨み付け、指差した。



「あんたっ、

 好きな女を他の男に引き渡して、

 わしなんか取り戻して……

 それで男として

 恥ずかしくないんか!」



 家族が欲しくて、

 彼女に家族になってほしくて拾った。

 元はそんな下心が理由だったが、

 彼女を知って、

 救いたいって思うようになっていた。



 いくら仕事ができても、

 大事な人を顧みないどころか

 壊すやつなんて最低だって、

 杣山のことをひどく憎んでいたのに

 ……僕はいつしか彼のような

 人間になっていたのかもしれない。



「でもさ、ばぁちゃん……

 それならばぁちゃんを

 諦めたら良かったの?

 僕にはそんなことできないよ…………」



 ぺたんと地面に擦り突く

 膝の上に手を置いて、項垂れた。

 もうどうしたらいいか分からない。


 情けない僕の姿を見たばぁちゃんは、

 大袈裟にわざとらしく溜息を吐いた。



「あんたがそない、

 無欲な子やとは思わんかったわ。

 わしに育てられた子なら、

 もっとがめつくて

 自分に素直なんやと

 思ってたんやけどなぁ」


「何それどういう……?」



 ラノベ主人公さながらに

 勘の悪い僕を嗤うように、

 ばぁちゃんは

 ガハハッと盛大に笑い飛ばした。



「なんで、小悪党の言うてきたことを

 素直に聞かなあかんのや? 


 聞き入れてしもうた時点で

 あんたはあいつの

 思惑に乗っかってしもうてる。


 わしに育てられた子やったら、

 相手を騙して両方とも

 手に入れるくらいの気概がないとな」



 そう言って、ばぁちゃんは

 僕の目の前に手を差し伸べてきた。

 つまりはこういうことだろう。



「じゃあ、ばぁちゃん。

 雪さんを取り戻して

 油断しきってる杣山を一泡吹かせて、

 彼女を取り戻すの、

 手伝ってくれる?」


「ええ、ええ。

 それでこそ、わしの育てた子や」



 ばぁちゃんは

 僕の頭をガシガシと掻き撫でて、

 豪傑に笑った。

 その笑顔がひどく頼もしく見えるのは

 きっと気のせいなんかじゃない。


 昇りだした太陽は、

 僕らの企みさえ

 包み込んでくれるようだった。

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