第58話:「それは素晴らしい、雨の出逢いでした」
再会の余韻に浸る間もなく、
僕らは作戦会議のため、
場所を居間へと移していた。
まだ午前六時ともなっていない
朝は閑静なもので、
生活音のない異質な空間だった。
「でもさあ、ばぁちゃん。
杣山から奪い返すって言っても、
どうしようよ?」
ばぁちゃんは僕の元へ
戻ってきてくれたと言えど、
依然としてこちらの分が
かなり悪いままだ。
ばぁちゃんが言っていたように、
取引という互いの同意を得た形で
二人の交換が行われた以上、
杣山の元から雪さんを
取り返すことは
契約違反ということになる。
そうなれば、
杣山は取引そのものを反故にして、
ばぁちゃんさえ
奪い取ろうとするだろう。
……などと思案に明け暮れて
頭を掻き毟る僕を他所に、
ばぁちゃんは涼しい顔で
自分の淹れた緑茶を啜っていた。
「どうするもこうするも、
作戦立てて奪い返すしかなかね」
一人で考え込むのも馬鹿らしいと、
釣られて湯飲みに口をつける。
もわもわと湯気が立ち上る緑茶を啜ると、
口の中に茶の苦みと濁りが広がった。
そう、これだ。
ばぁちゃんが淹れたお茶はいつも濃くて、
寝起きや何か
考え事をするときに最適だった。
「そうは言ってもさー、
こっちは杣山に関する情報が殆ど無いし、
その点向こうはばぁちゃんを
監禁してたんだから
こっちの事情なんてほぼ筒抜けでしょ
……何この無理ゲー、ひどすぎ」
あちらは取引という手札の他に、
ばぁちゃんという僕の弱みを握り、
切り札には
「僕が雪さんを売ったから
会わせる顔がない」を持っている。
対してこちらは、
杣山が雪さんを行き倒れるまで
追い詰めた糞野郎だという
情報しか持ち合わせていない。
おまけに彼は周囲からの
信頼はピカイチらしい。
そんな奴相手に、
ポッと出の少年と老婆が
論説したところで
誰が聞く耳を貸すだろうか。
この手札では真っ正面から
争っても僕らに勝ち目はない。
「そうやなぁ……確かに、
こっちの情報は
ほとんど筒抜けやろうな。
あいつはわしのことも、
あの若い娘さんのことも、
あんたのことも識っとる」
ダメ押しの発言に、
僕はこたつ机に顔面を突っ伏した。
(詰んだ……やっぱり僕には
誰かを助けることなんて
無理だったんだ)
諦めかけた僕だったが、
ばぁちゃんはさらに続ける。
「――やけどな、
あいつが知っとるんは
あいつが見たわしらや。
わしらのことを
よお理解しとるわけやない」
要領を得ない物言いに、
僕は首を傾げる。
「だから?」「つまり?」
そう先を急かすと、
ばぁちゃんはしたり顔を浮かべた。
「あいつは情報として
認識してるんやって、
わしらを知っとるわけ
やないってことや。
あいつが握っとる情報なんか、
大したことない。
それにあいつを黙らせるくらいの
ネタやったらわしも持っとるさかい、
安心しい」
ばぁちゃんは暗に、
必要とあらば脅迫も
やぶさかではないことを告げていた。
犯罪行為に及んでまで
拉致監禁した相手に、
脅される程度のネタを
掴まれるなんて杣山も
案外抜けているところが
あるのかもしれない。
そう考えるのは安直だろうか?
「それならこっちにも
切り札があるってことだねー
首の皮一枚
繋がったってとこかな」
でも、それだけじゃあ足りない。
切り札があるだけじゃ、
取引(ゲーム)は成立しない。
「……そうやの。
あいつもわしがこっちにおる以上は、
下手なことは
できんはずやからなあ」
キッパリと断言する
ばぁちゃんに違和感を覚えた。
「なあ、ばぁちゃん」
「なんや」
正面に腰を下ろすばぁちゃんは
首さえこちらへ向けず、
湯飲みから顔を上げようとしない。
「帰ってきてから
ずっと思ってたんだけど……
なんでばぁちゃんは
杣山に監禁されてたの?
自分の意思で杣山の元に
いたわけじゃないよね?」
ばぁちゃんは答えない。
「始めは、僕のことを知って、
雪さんをおびき寄せるために
ばぁちゃんを連れ去ったのかな
って思ってたんだ」
僕のことを
杣山は知っているみたいだった。
僕が雪さんに好意を寄せていることも、
ばぁちゃんが大事なことも。
だから、そう考えた。
「でも違うよね。
それじゃあ辻褄が合わない。
ばぁちゃんがいなくなったのは、
一月だ。
雪さんと出逢ったのはついこの間、
六月のことだよ。
ってことはさ、
一月時点で杣山が取引のために
ばぁちゃんを監禁する必要なんて
ないはずなんだ。
なのに杣山はばぁちゃんを拉致して、
この数ヶ月間監禁し続けた。
被害者家族に一切の要求をせずに。
……これって、おかしいよね?」
僕には確信があった。
ばぁちゃんが何か大きな
隠し事をしているという確信。
それも、杣山に関わるものだ。
しかし、ばぁちゃんからは
素知らぬ振りで
隠し通そうという意思が感じられる。
どうして黙っているのか、
話せないような内容なのか。
そうやきもきしていると、
ばぁちゃんが突然口火を切った。
「…………そういやぁ、
解放される前にあの娘さんと
話したんやけどなぁ……」
おもむろに懐をまさぐると、
あるものを取りだして
僕の手に握らせた。
「これなぁ、あの娘さんが
大事に大事に持っとったんや。
わしにはよお分からんけど、
なんや、あんたに
渡してほしいって言っとったわ」
「あり、がとう……?」
それはどう見ても、
お菓子のゴミだった。
掌よりも二回りも小さく、
芸術的な柄が印刷された菓子の袋。
目を凝らすと、アルファベットで
CHOCOLATEと記されている。
どうやらチョコレートの包み紙らしい。
(これを渡してほしいなんて、
どういう意味だ?)
僕はまだ彼女の真意に気付けず、
ヒントを得ようと
ひたすらそれを掌で転がし続けた。
「あぁそれと……
こうも言っとったなぁ。
『三つ目のお願いは、
このチョコレートを買って、
三袋のうち二袋だけください。
でした。
あのときの約束、
まだ覚えてますか?』
って。あんた、なんか
あの娘さんと約束してたんか?」
(あぁ、そうだ。思い出した)
――僕はあのとき、あの夏、
しょうもない嘘を吐いた。
「都会のコンビニ限定で
珍しいチョコレートが今日発売なんだ。
数量限定だから、
今日絶対行かなきゃ」
その日は雛鶴さんに
下着泥棒の濡れ衣を着せられた日で、
散々な気分だった。
だから、閏から来ていた
手紙の住所だけを頼りに、
会いに行こうとしたのだ。
だけど家に帰る頃には豪雨になり始めて
……それでもどうしても、
会いに行かずにはいられなくて、
じっとしていられなくて。
そんな嘘を吐いたのだ。
ばぁちゃんは嘘と分かっていて、
許してくれた。
そうか、雪さんは
あのときのお姉さんだったのか。
道理で惹かれたわけだ。
僕はあのときのお姉さんに
恋をしてしまったのだから。
「お姉さんはまだ、覚えててくれたんだ。
あんな、子どもの約束……
僕だって、気付いてくれてたんだ」
胸の内で誤魔化し続けてきた気持ちが
一度に噴火しそうになった。
(お姉さんに会いたい、
会いたい、好きだ)
今になって正体を明かしたわけを、
三つ目の願いがあのときの
約束そのものだったわけを。
僕はまだ知らない。
知りたい、彼女の口から聞きたい。
堪えきれない恋しさと
焦がれる思いで嗚咽が漏れ出す。
「あぁそれとなあ、
代わりにあの娘さんには
あれをやったんだっけねえ」
ばぁちゃんはそれをどこ吹く風
と言わんばかりに、
懐からまた何かを取り出す。
「ばぁちゃんそれ……」
ゴトッとこたつの上に置かれたのは、
トランシーバーらしき黒い物体だった。
「あぁ。わしなぁ、ずっと前から
こういうのやってみたいって
思っとったんやわ。
そやから、こっそり集めとったんよ。
まさかホンマに使えるときが
来るとは思ってなかったけどなぁ」
ばぁちゃんはすっかり
興奮しきっているが、
杣山が盗聴器に
気付いていないとも限らない。
「それ、今聞ける?」
「もちろんや。えーと……」
ばぁちゃんが
盗聴器の受信機を操作すると、
砂嵐のようなノイズが入った後、
次第に人の声がはっきり
聞こえるようになってきた。
「――式は、8/3。
式場はハルニレウェディングだ。
花嫁らしく、綺麗にしておけよ」
「はい、分かりました……誠、一さん」
傲慢な口調の男の声と、
弱り切った女性の声。
名前も聞き取れた、間違いない。
それにハルニレウェディングは
前に式を挙げさせてもらった式場だ。
「ばぁちゃん、
この式場なら知り合いがいるんだ。
きっと協力して貰えるはずだよ」
ばぁちゃんは僕の腹を察してか、
悪戯にニヤァリと笑う。
さあ、反撃開始だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます