昔の、夢
あれから雪さんは
杣山から提示された条件の
詳細を尋ねてきた。
どういった経緯で、
いつが期限なのかを。
「――そうですか。明日、ですか」
彼女は噛み締めるように復唱した。
その顔には怒りも悲しみもなく、
突然自分の寿命を知らされた
患者のように諦念が浮かんでいた。
「はい……ずっと黙っていて、
すみません」
「いえ、謝らないでください。
わたしが決めたことですから、
雪生くんはどうか責任を感じないよう」
彼女はそっと僕の手を包み込んだ。
その優しさは
終焉を迎える者のそれだった。
己の死期を悟った人間が
ボランティアを始めるように、
最後の思い出を美しく飾ろうとする。
誰かの記憶に残る自分が
少しでも綺麗に思われるように、
いや、忘れられまいとして
最期の優しさを
刻み込もうとするのだろう。
「いえ、でもこんな
ギリギリになって言わなければ
……もっとすぐに伝えていたら、
雪さんはやりたいことを
できたかもしれないのに……!」
僕は今更になって、
大変なことをしてしまったと
頭を抱えた。
もう時間がない。
「そんな…………雪生くんは
わたしのために
黙ってくださっていたのでしょう?
そんなにご自分を責めないでください。
きちんと、
雪生くんの優しさは伝わってますから」
(違う、そうじゃない。
僕が傷付きたくなかっただけだ)
雪さんを差し出して
ばぁちゃんを取り戻そうとする
卑しい僕の心を知って、
雪さんに侮蔑の目を
向けられるのが怖かったから。
「そ、そうだ雪さん、
何かしてみたかったこと
とかありませんか?
ほら、一昨年くらいに
流行ってたじゃないですか、
〝死ぬまでにやりたいことリスト〟
ってやつ。
あんな感じで、何かないんですか??
僕にできることなら、
なんでもお手伝いしますよ!!!」
彼女は、急に捲し立て始めた
僕を怪訝な目を向けるが、
ほどなくして回答を出した。
「そうですねえ……
いくつかあるにはありますが――」
「じゃ、じゃあ、
それやりましょうよ!
なんですか?」
逸る気持ちを抑えきれず、
彼女の言葉を遮った。
――違う。
「できませんよ」
「えっ、どうしてですか???」
僕は彼女の発言の矛盾に
食ってかかるように聞き返した。
――嘘だ。
「それは、今すぐに
実現可能なことではありませんし
…………第一、どうして
そう急く必要があるのでしょう?
今や寿命は90歳、
いえ、100歳時代。
死ぬまでにやりたいことなんて、
それまでにやればいいのです。
何も無理をしてまで、
今すぐやることはないのですよ」
――彼女も解っている。
杣山の元へ戻ったら最後、
身の自由は一切なくなり、
したいことなんて
一つもできなくなる監獄のような
人生を送ることになると。
その証拠に、
雪さんは綺麗に笑った。
しかしその人形のように
美しすぎる笑みの端々からは、
使い古された人形が
ほつれ始めるように、
欺瞞という綻びが生じていた。
……罪悪感が頂点に達した。
「ごめっ、ごめんなざいぃぃぃぃ
…………僕がっ、
楽になりたくて、
あんなこと言ったんです。
少しでも、罪滅ぼし、したくて
……でも、明日には杣山の元へ
戻らなくちゃいけないのに、
そんな気にはなれませんよね……!!」
時計の短針が二度頂点を差す頃には、
彼女に自由は消失する。
考えなしに拾って、捨てる。
その事実に目眩がしそうだった。
僕の無防備に晒した本性の素顔に、
彼女は呆気に取られたように
作り笑顔を止める。
「そうですね、本当に。
わたしに残された
自由な時間は本当に僅かなのでしょう。
――それでもまだ、
猶予があるなら…………」
静々と粛々と口上し、
彼女が彼氏に初めてのキスを
ねだるような初心さな可憐さで、
「わたしが雪生くんに拾われた
あの日と同じように、
同じ布団で寝てくれませんか?」
と可愛い我が儘を口にした。
それが最初で最後の
我が儘になることを
予測していた僕は、快く頷いた。
あのとき二人で眠った部屋は
今や雪さんの部屋になっている。
ベッドも新しいものに買い換えられ、
あのときの余韻は何一つない。
それ故か、彼女は
僕の部屋で眠ることを望んだ。
自室には今も、
あのときのベッドが鎮座している。
そして――。
「やっぱり、
シングルだとかなり近いですね」
布団の中でそう囁く彼女はなぜか、
こちら側に顔を向けていた。
首筋にかかる吐息が
二人の距離感を知らせ、
緊張感が高まっていく。
「そ、そうですね……」
「なんだかこうしてると、
お泊まり会をしてるみたいで
楽しいです」
背中越しににこついているのが
分かるくらい、彼女は朗らかだ。
(このひと、
本当に警戒心がないのか……?
それとも……)
至ってはいけない思考に行き着き、
速度を上げる鼓動に反して
テンションはだだ下がっていく。
彼女はときどき、
自覚的に男性の本能的なところを
ついてくるから
これもそうかと勘繰ってしまう。
そうそう都合のいい展開に
ばかりいくわけもないというのに。
「雪生くん?
あれ、もう眠ってしまわれましたか」
いくら杣山のことで
負い目があるとは言え、
好意を寄せる異性が
至近距離にいて
触れたくないわけがない。
なけなしの自制心を保つために
黙り込んでいたことで
誤解が生じたらしく、
彼女は僕の肩に触れてきた。
(んっ!!?)
「…………寝てませんよ」
不機嫌そうに
返事をするのが精一杯で、
つまらなかったのか、
不満だったのか、
彼女は
「少し、昔話でも
してみましょうか」と
別の話題を切り出した。
「結婚式で、花嫁を奪いに来るの、
ありますよね。
実は昔、あれに憧れていて
……今はもう、
非現実的だということも、
期待しても意味はないということも
分かりましたけどね」
トン、と背中に触れる指先が
虚しそうに円を描いた。
その後も彼女が
語り続けるのを黙って聞いて、
そうして語りが
途切れる頃に眠りに就いていた。
翌朝。
雪さんと最後の朝食を摂った。
彼女はいつにも増して
早起きをして、
おかずの作り置きを
してくれていた。
その消費期限や有効活用法など、
いちいち説明してくれてはいたが、
ほぼ全て耳から
垂れ流しになっていただろう。
そして、家政婦としての
役目を終えたと言わんばかりに、
雪さんは
ボストンバック一つを肩に提げて、
「さよなら」
ぺこりと丁寧な辞儀をして、
彼女はこの家を後にした。
一つも振り返らず。
ただ、大きく開け放たれた玄関扉が
軋みながら閉じていくのを、
僕はじっと見つめていた。
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