第55話:安い購い物と彼女は云う
潦家の居間には今、
二人の若い男女がいる。
かつては、数ヶ月前までは
老婆と少年が住んでいた。
数ヶ月前、
老婆が行方を眩ました。
少年はひとりきりに
なってしまったのを嘆き、
藻掻き悲しんだ。
少年は行き着いた、
その空いた穴の痛みを埋めるには、
物理的に別なもので
〝補う〟他ないのだという結論に。
故に少年は女に手を差し伸べ、
女を扶けた。
そうすれば、
利害の一致関係だと、
互いに必要とし合う関係だと
誤認させられたから。
それほどに
少年は孤独を怖がった。
穴を埋めたがったのだ……。
けれど。
そうまでして得たものは
あまりに脆く
壊れやすいものだった。
「うぁああああ…………」
雪さんの目を見た途端、
なぜだか喉元が苦しくって
奥が灼けそうなくらい熱くなった。
「ゆ、雪生くん!?
大丈夫ですか……?」
お姉さんは急に嗚咽を漏らした
僕の顔を覗き込む。
彼女は人が良すぎるくらい優しい。
それは僕に拾って貰った
恩義があるからだけじゃなく、
性根がそういう人なのだと
いうことを日々肌に感じている。
「ぅぁぁ……
ぁぁぁぁああああ…………!!」
僕がこうして泣きじゃくって、
しがみついても
嫌がる素振りすら見せない。
それどころか、
「…………雪生くん。もう大丈夫です。
全て吐露してしまってください。
それがどんなに優しくない現実でも、
全部受け止めて差し上げますから」
僕の汚い内情さえ見透かして
「いいよ」と笑ってくれる
お姉さんがあまりに寛容すぎて、
逆に怖くなってしまうよ。
喉奥で停滞していた熱が鼻に昇り、
鼻腔に気化したアルコール臭が
立ち籠めて……、涙が滲み出した。
「おね゛え゛ざん゛、」
あまりお姉さん自身のことで
怒ってくれない彼女が、
決まって困り顔を浮かべる。
それは、僕が彼女を
「お姉さん」と呼ぶときだ。
「その呼び方はいけませんと……」
そう言って、
少し戸惑ったように
困り眉になるのが嬉しかった。
「ごめん、ごめんね、ごめんなさい……」
「どうしてお謝りになるのですか。
雪生くんは何も悪いことを
していないではありませんか」
お姉さんは泣いたばかりの
子どもを慰めるような手付きで、
僕の頭を撫でた。
一撫で、一撫で心を込めているのか、
パンパンに張り詰めていた
理性がはち切れた。
「雪さん、
どうしたらいいと思いますか
……僕ね、ばぁちゃんの居場所、
突き止めたんです」
「そうなんですか!!?
良かったではありませんか!!」
彼女は僕を撫でていた手を頭から離し、
わっと手を合わせる。
滲み出る笑顔に
偽りは感じられない。
「うん、それは良かったんだ。
それは……すごく、
良かったんだけどね」
「……何か、思わしくない
状況にあるのですか?」
自分のこと以外には察しのいい彼女に、
苦笑いを禁じ得なかったが、
小さく頷いた。
「うん。とってもね、
思わしくない状況。
だってばぁちゃんが今いるのはさ、
杣山の家なんだから」
「っ……!??!」
それまで穏やかな
表情をしていた彼女も、
さすがにこの報せには目を剥き、
息を呑んでいた。
その続きを口にするのが
非道だと知りつつも、
一度切れたたがは
元に戻ることを知らず、
「どうやってそれを
知ったかって言うとね、
杣山の方から持ちかけてきたんです。
ばぁちゃんを返してやるから
雪を返せって」
言い切ってから、
僕は罪悪感に耐えきれず
顔を下に向けた。
両膝に乗せた拳が
バイブレーションのように
ブルブル震える。
たったそれだけを口にして、
その先を言わないなんて
卑怯で臆病なのに。
たった一言が継げなかった。
(あぁ、なんて僕は最低なんだ)
けれど、そんな苛みさえ掻き消す
清流のせせらぎのような声が通る。
「――それで、
雪生くんの願いが叶えられるなら、
安い購い物ですよ」
あまりに美しすぎる回答に、
僕は覚えず顔を上げた。
そこにはいつものような、
我が子を見下ろすような眼はなく、
慈しみの心だけが
浮かび上がっていた。
(どうしてこのひとは
僕を好きじゃないんだろう)
(僕を好きになってくれないんだろう)
(僕を好きになってくれればいいのに)
そこで僕はようやく、
微睡みのような
夢から覚めて我に返った。
僕とお姉さんは家族になるという
契約を結んだだけの関係。
それ以上もそれ以下も禁忌。
彼女を女として好きな以上、
僕が望んだ「家族」にはなれない。
「……………………ありがとう、
雪さん」
僕はその言葉を選んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます