第51話:知らぬが仏とは言えども


 三日後。

 その日は朝から

 全身を縛り付けるような

 倦怠感と疲弊感があった。


 意識は起きているのに、

 睡眠薬を盛られたみたいに

 目蓋が開こうとしない。

 意思一つでは

 どうにもできないほどの

 睡魔と寒気と眩みが

 雪生を襲っていた。



 朝起きたら

 体内に溜め込んだ水分を

 排出したくなるはずなのに、

 当たり前の生理現象である

 尿意も湧かない。

 それなのにひどく喉が渇いて、

 喉の奥に膜が

 張り付くような不快さがある。



「何か、飲み物……」


 微睡みに包まれた

 身体に鞭打って雪生は

 ベッドから這い出すが、

 地に着けた足はぐらりと傾き

 ――ドタンッと激しい

 音を立てて転倒した。


 立った体勢からの転倒。

 相当の激痛が

 身体を襲うはずなのに、

 雪生には痛みすら

 分からなかった。


 ただ感じられるのは、

 指先一つさえ

 動かせないほどの眠気だけ。

 雪生は喉の渇きさえ忘れて、

 意識を落とした。


 

 脇にひゃっとしたものが

 当たった衝撃で雪生は

 反射的に跳び起きた。


「冷たっ」


 その弾みで何かが

 脇から落ちたのは、

 掌サイズの保冷剤だった。


 布団を捲ろうとすると、

 何かに抑えつけられている

 気がして首を右に向けると、

 そこには雪生が

 落としたものとは

 別の保冷剤を手に

 停止している雪がいた。


「あれ、

 どうして雪さんが……?」


 雪生はぼやきながら、

 朝感じていたはずの異様な

 眠気が薄れていることに

 気が付いた。

 思えば寒気もない。

 代わりに火照りや

 疲弊感はあるが、

 それもぼんやりとする程度で

 大したものではなかった。



「もしかして雪さんが

 介抱してくれ――」


「っ……莫迦」



 感謝を告げようとするのを

 遮るように、

 彼女は雪生の口元に

 もう一つの保冷剤を張り当てた。



「いっつー……

 雪さん何して、」


「どうしてっ、

 どうしてそのように、

 ご自分の身を粗末に

 扱われるのですか……っ!??


 雪生くんは、雪生くんはっ……

 ご自分のことに無頓着過ぎです。

 あなたを心配する者も

 いるということに、

 いい加減お気付きください」



 彼女の目元は赤みを帯びて

 腫れぼったくなっている。

 付きっ切りでの

 看病故の寝不足だろうか、

 それとも、

 泣いていたのだろうか。


「ごめんなさい……」


 彼女の剣幕に

 圧倒されたのではない。


「謝られるくらいなら、

 今後は気を付けてください。

 それと、熱が下がるまでは

 安静にしていてくださいね。

 まだ38度ほどの熱があるのですから」


「それはできません」


 じっとりと濡れた瞳を横目に、

 雪生は広言を吐かなかった。

 彼女を不安にさせても、

 迷惑をかけても

 裏切るという種の発言。

 謝罪はこれのためであった。



「そんな……どうして!

 こんなことさえ、

 聞いていただけないのですか?」


「僕には肉を断ってでも、

 得たい骨があるからです。


 かけがえのないものを

 失うことに比べたら、

 体調を崩すのなんて

 わけないですからね」



 雪生の頭の中は

 貼り紙のことでいっぱいだった。


「ちょっと雪生くん何して……!」


 重い身体をゆらりと起こして

 手を伸ばすは枕元のスマホ。

 サイドボタンを

 カチリと鳴らして

 着信の通知がないかを

 確かめるが、

 それらしい通知は一つもない。


 あれから三日も経つというのに、

 ガセネタの一つすら

 やってこないとは。



 心の中で葉菊の求める気持ちが

 焦燥感と共に膨らんでいく。


「こう、しんじょ、に行く……」


 雪の腕も押しのけて、

 雪生はベッドを這い出す。

 スマホを片手に

 ドアノブへ手を伸ばそうとし、

 自身の足で躓いた身体は

 前方へと放り出され、

 扉へつんのめりに――。


 なることはなく、

 腹に巻き付けられた彼女の

 細腕で抱き留められていた。


「興信所行った後に、

 絶対に病院に

 連れて行きますからね」


 聞き分けの悪い我が子に

 言い聞かせるかのように

 念を押される。


 雪生は「うん」と頷くと、

 彼女の手を借りて、

 興信所に病院へと足を運んだ。




 しかし一週間が経てども

 葉菊の目撃情報は得られず、

 頼りにしていた興信所の方も

 お手上げとのことだった。


 せっかく現実に目を向けて

 重い腰を上げたのに、

 対峙するのは認めたくない現実。


 願えば願うほど遠く、

 思えば思うほど

 遠くへ行ってしまうようで。

 逸る気持ちが願いを欲望に、

 欲望を衝動に変えていき……、



「っぁあああああああああ

 あああああああああああ

 ああああああ!!!!!」



 手にしていたスマホさえも

 床へ投げつけた。



「ぅ、ぁあああぁぁぁあ…………

 ばぁちゃん、ばぁちゃん

 ばぁちゃんばぁちゃん……」



 葉菊を捜し出すことに

 縋るようになってからは、

 逸って、気を揉んで、

 藻掻いて、業を煮やした。


 そんなとき、

 雪生の頭にある案が浮かぶ。


「電話なんてじゃ駄目でも、

 今流行りのSNSなら

 見つかるかもしれない……!」 


 雪生の行動は速かった。

 スマホの写真フォルダ内に

 保存されていた

 葉菊の写真を添付し、


「この人が行方不明になって、 

 捜しています。目撃情報求む」


 という旨を呟き、

 ネットで拡散して情報を得る

 作戦に切り替えたのだ。


 背に腹は代えられないと言うが、

 雪生が代えているのは

 本当に背なのか。 



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