三章【心ここに在らざれば、視れども見えず】

人の疝気を頭痛に病む


「恋は人生を変える魔法だ」

 と誰かが言っていたけれど、

 恋は魔法ではない。


「恋はチョコレートみたいに甘い」

 と言う人もいるけれど、

 それも違う。



 チョコレートの原材料である

 カカオポッドから

 採れるカカオ豆は、

 ちっとも甘くなんかなくて、

 芳醇な香りに誘われて

 奥歯でかみ砕く度、

 舌が痺れるような

 苦みに嗚咽を漏らすのだ。

 気付いたときには既に

 手遅れのその苦みこそ、

 本当の「恋の味」だと。



 ――翌朝は、

 早朝から雨が降っていた。

 そのべとつくような

 湿気に身体がうなされる。


 例年に比べてかなり遅い

 梅雨入りのせいで、

 梅雨明けも遅れている。

 この調子では明日の七夕も

 雨天かもしれないな、

 とそんなことを

 ぼんやり考えて起床した。


 相変わらず壁時計も

 置き時計すらない自室で

 スマホで時刻を確認すると、

 午前五時すぎだという。


 いつもより1/4日くらい

 早いだろうか。


 全身に気怠さを覚えながらも、

 しかし早く起きすぎた

 とは思わなかった。 


 雪生にはやるべきことが

 あったから。



 机の上に置いておいた紙の束を

 手に台所と食卓前の廊下を

 突っ切ろうとすると、

 トントントンと

 包丁で食材を切る

 雪の後ろ姿が視界に入った。


「こんな時間でも

 起きてるんだな、雪さん……」


 健気でいじらしい

 そんな彼女の姿さえ

 雪生は歯牙にもかけず、

 背を向けて玄関へ足を向けた。


 玄関で靴を履きながら、

 そういえば雨が降っていたと

 雪生は傘立てに手を伸ばした。

 カシャン、と上手く

 掴みきれなかった傘が、

 音を立てて地面に落下する。


「あら、何の音でしょう?」


 包丁の音が止み、

 慌てて家を

 飛び出そうとするがもう遅い。


 台所と玄関は扉を開けて

 すぐの距離だった。

 玄関のドアノブを握る

 雪生の背から、

 彼女の声が降りかかる。


「雪生くんもう

 起きていらしたのですか

 ……あら、靴まで履かれて、

 どちらかお出掛けでしょうか。

 でもせめて、

 朝食をお召し上がりに 

 なってからの方が――」


 いつも通りの変わらぬ

 穏やかさと温もり。

 あまりにも献身的な態度には、

 特別な慈しみさえ感じられる。


 けれど雪生は

 そんな行為も好意も

 ――邪魔だと感じた。


「ほっておいてくれよっ!!」


 デジャヴで、

 手が伸ばされているのを察した

 雪生は後ろも振り返らず、

 ぴしゃりと

 雪の手を振り払った。


 反射的に漏れた彼女の息遣いは

 ひどく

 怯えていたように思われる。


 それでも雪生は

 彼女に目もくれず、

 雨降る町へと飛び出していった。



「待っててね、ばぁちゃん……今、見つけてあげるから…………」

 ぼやくようにして吐き出された息は、ガラス製の掲示版の窓に触れて、ガラスを曇らせた。 雪生は大事に抱えていた紙の束とセロテープを取り出すと、それらが濡れないようにと、掲示板に傘を引っかけて、作業しだした。

 田舎故なのか鍵さえつけられていなかった掲示板の窓を開けて、スペースに自作のポスターを貼っていく。


  【僕の家族の目撃情報を募集します】


 ポスターには雪生の育て親である葉菊の写真と行方を暗ました時期、雪生の携帯番号などが記されていた。

 このご時世に個人情報をばらまくことが危険だというのは雪生も承知のことだが、それで見舞われる危険に代えても、葉菊を探したかったのだ。

「ふふふ……これで掲示板はよしっ、と。次はー-」

 その後も人目に付きそうな電柱やガードレールなど、至る所に持ち合わせていたポスターを貼り尽くした。

 帰宅してからも、雪生は雪とは一切目を合わせず、口も利かなかった。一心不乱に、一意専心に、葉菊のことしか考えていなかったから。

 翌朝はポスター貼りだけでなく、雨に打たれるのも構わないほどポスター配りにも傾倒したが、結局無駄骨に終わる。

 雪生は傷心のあまり風呂に入らないどころか、濡れた身体を拭くことすらせず、床に伏した。 何度も「せめて身体を拭いてください」という雪の忠告も聞かず、「うるさい!!」と雪生は部屋に閉じ籠もり、意識を閉じた。

 それからいくらかした薄暗い部屋。ぼんやりと開きかける意識の中で、雪生は誰かに身体を触られていることに気付いた。けれどそれは人の手ではなく、湯で温められたタオルだった。 雪生を起こさないよう丁寧に身体を拭き上げているのはおそらく雪だろう。あれほど悪態を吐いたにも関わらず、これほど尽くしてくれる彼女に感謝よりも申し訳なさを感じて、雪生は眠っている振りを続けた。微動した目蓋からは生温い涙が溢れた。

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