上見ぬ鷲


 雪さんの帰りを待つ時間は、

 息が詰まるような思いをして過ごした。


 彼女になんて説明しようか。

 これからの生活はどうしようか。

 それから、姉さんが雪さんに

 余計なことを言ってしまわないか。と。


 数時間後。

 買い物から帰ってきた雪さんは

 両手にレジ袋や

 紙袋を携えていた。


 肌にはりついた

 ブラウスと対照的に、

 ふっくらと膨らんだスカートが

 可憐で可愛いと、

 そんなくだらないことを

 考えていただろう。


 雪さんを目にした姉さんは

 ずかずかと歩み寄り、

 彼女の全身を舐めるように見回す。


「あんたがゆきの言ってた、

 同居人ってわけね。名前は?」


 不躾な姉さんの態度にも

 気分を悪くすることもなく、

「荷物だけいいですか?」と

 床へ荷物を下ろすと、

 手を前で組んで行儀良く姿勢を正した。



「初めまして、こちらで

 住まわせていただいております、

 鈴生雪と申します。

 失礼ですがそちら様は?」


「狭霧閏。ゆきの姉よ。

 知らないだろうけど」


「ええ。お話には

 うかがっておりましたが、

 お会いするのは初めてです」



 清潔感のある笑みを

 浮かべた彼女に、

 姉さんは些か不満そうに顔を歪める。


 もしかしたら、今のは

 マウンティングだったのかもしれない。

 それを証拠付けるように、

 姉さんは彼女を

 触発するような口調で続ける。


「まぁ、義務はないけど、

 一応あんたにも聞いておいてあげるわ。

 今日からあたし、

 ここで住むつもりだけどーー

 別に構わないでしょ?」


 その言葉は形式上質問ではあっても、

 実質拒否権すらないも同然だった。

 まるで小姑だ。



「はい! 雪生くんの

 ご家族なら大歓迎です」



 疑いすら抱く余地のない

 眩しい笑みに敵わないことを悟ったのか、


「居候は居候らしく、

 弟の言うことを聞いて、

 慎ましくしてなさいよ」と


 捨て台詞を吐いて、

 部屋を去って行った。



 その場に残された僕が

 何を言おうか戸惑っていると、

 お姉さんが足下のレジ袋や

 紙袋の山を見下ろして、ぽそりと呟く。


「アイス、融けちゃいましたね」


 彼女の言葉で追うように

 レジ袋の中を見遣ると、

 確かにカップアイスが二つある。

 よく見ると、

 袋の中で融け出した氷が結露して

 床に小さな水溜まりができており、

 それは誰かの涙を喩えているようだった。



「ごめん……」


「いえいえ。お気になさらず。

 雪生くんのせいでは

 ありませんから――って、

 こんな言い方をしたら、

 閏さんのせいということに

 してしまっていますね。


 わたしがすぐに冷凍庫へ

 入れなかったのが悪いのですから」



 床から引き上げられたレジ袋は

 ボタボタと大粒の雨を降らしながら、

 冷凍庫へと運ばれる。


 アイスを取り出されて

 用済みになったそれが

 生ゴミと共に捨て去られるのを見て、

 少し胸がざわついた。



「アイス……食後にでも

 と思っていましたが、

 お風呂上がりでもいつでも、

 おふたりのお好きなときに

 召し上がってください」



 パタン、と冷凍庫の扉を閉めた

 彼女の背中はどことなく弱々しく、

 不安げに見えた。



「ごめんなさい……」



 他に言うべきことが

 あったかもしれない。


 それでも僕にはこれ以外の

 言葉が見つからなかったのだ。


「どうして謝られるのですか?

 雪生くんは何も悪いことなんか、

 していませんでしょう。


 ……あぁ、閏さんのことなら

 ご心配なさらず。

 これまで以上に家事は丁寧に

 こなすようにしますし、

 ちゃんと閏さんに

 気に入っていただけるよう

 努力しますから……!」



 背中越しに彼女の

 健気な思いが伝熱するように

 伝わってきて、

 熱されすぎた胸は罪悪感で

 ジリジリと焦げ付きそうだった。


 違う。そんな意味じゃない。


 僕はこれほど真面目ないい人を

 裏切ってしまったのだ

 という思いに苛まれて、


「雪さ、」


 手を伸ばそうとした――、


「あ、そうです!」


 彼女が何かを思い出したように、

 パァンッと手を叩いた。


 触れようとして、

 僅か数センチの距離だった、

 その手が行き場を失って、

 ぶらりと宙に垂れ下がる。



「今日はご馳走を作るつもりで

 色々買い込んできたのでした。

 もう午後三時半を回っていますし、

 今から支度しないと夕食時には

 間に合いませんね!!」



 そう独り言を呟くようにして

 お姉さんは僕の隣を

 すり抜けていく。

 伏せられた視線は僕と

 目を合わせることを

 拒んでいるようだった。



「手伝いますよ」


「いえ、結構です」



 レジ袋の野菜に伸ばした

 手は振り払われ、

 掌から転げ落ちた玉葱は

 ごろごろと床を転がる。


 次の言葉を切り出しにくい

 空気が流れる中、

 彼女は矢継ぎ早に続けた。


「台所は女の聖域ですから」


 下ろされたままの長髪のせいで

 真横からも

 雪さんの表情は見えない。


 いつもよりも数段強い語気。

 けれどいつもと変わらぬ

 風鈴の鳴くような美しい声に、

 推し量ることができなかった。


 言外に「一人にしてくれ」

 と言われたのだ。

 僕にできることは何もない。



「分かりました。

 ご馳走、

 楽しみにしていますね」



 努めて明るい調子で

 そう返事をすると、

 彼女からも「勿論です」と

 頼もしい返答があった。


 けれど僕はついに、

 その背中の向こう側を

 目にすることが

 できないでいた。



 台所を後にした僕は

 真っ先に自室へと向かい、

 崩れるようにベッドへダイヴした。


 お姉さんに拒絶された。

 それは初めてのこと

 だったように思う。


 ――裏切りが

 バレてしまったのだろうか。



 姉さんの存在は暗に、

 雪さんがもう

 必要ないことを伝えている。


 ――でも、そうじゃない。

 それだけじゃないのに。


 しかしそれ以外のことを

 伝えてしまったら

 終わるこの関係に。


 伝えられない歯痒さと、

 姉さんに不純じゃないと

 言い返せなかった

 自分の弱さに苛立って、

 枕を噛んだ。

 歯と舌には塩水が

 腐ったような味が広がった。 



「あれ、でも、

 そういやなんで、」



 お姉さんはご馳走を

 作るための食材を

 買い込んでいたんだろうか。

 今日は特別な日でも

 なんでもないはずなのに……。


 けれどそれ以上考えても

 何も得られるものは

 ないような気がして、

 僕は意識を手放した。



 暑い西日がぐわりと差し込む

 頃合いになって

 ようやく目を覚ますと、

 暑さと湿度のためか、

 それとも寝過ぎのためか、

 身体がぐったりと重怠さを覚えた。


 もう七時だ。

 夏は日暮れが遅い。


 寝起きの身体にも

 食事のいい香りは

 しっかり感じられて、

 いそいそと食卓へと向かうと、

 姉さんが女王様のように振る舞い、

 雪さんを小間使いのように

 こき使っている

 場面に遭遇してしまう。



「だーかーら!

 あたしは牛肉が

 食べたいって言ってるの!!

 それに、こんなしょぼくさい

 食事をご馳走だなんて言って

 ……弟が可哀想よ。


 今すぐスーパーへ行って、

 食材から買い直しに行って、

 作り直しなさいよ!!

 いいわね?」



 姉さんはそう言って、

 食卓に並べられた料理に

 一切手もつけない。


 扉の磨りガラス越しに

 見えた料理は、


 デミグラスハンバーグに、

 ポタージュ、鶏の丸焼き、

 オムレツ、カプレーゼ


 と五品もあった。


 中学生男子と

 成人女性二人が食べるには

 十分すぎる量だし、

 全然しょぼくもない。



「閏さんのお口に合わないのは

 承知しましたが、

 今日はこれで

 お許しいただけないでしょうか。


 今から作り直したのでは、

 どう頑張っても

 八時を過ぎます。

 健康のためにも今日は

 こちらを召し上がってください」



 ひどく低姿勢な態度ながらも

 言うべきことはきっちりと言う

 雪さんが気に食わないのか、

 姉さんは眉間をキッと寄せ、

 怒号を上げる。



「ふざけるんじゃないわよ!

 どうしてこのあたしが

 こんなみすぼらしいもの

 食べなくちゃいけないの、

 雪生の姉なんだから

 もっと丁重に扱いなさいよ!!


 作り直せないなら、

 出前でもなんでも

 頼めばいいだけじゃない。

 もちろん、あんたの金でね」



「それはできません。

 わたしはただいま、

 お金を持ち合わせておりません。

 だからこそ、こうして

 潦家の家事を

 やらせていただいているのです」



 これで押し黙ると思いきや、

 姉さんは食い下がり、



「それなら、

 雪生の金で買えばいいじゃない。

 あの子たくさん持ってるんだから」



 一触即発の空気に耐えかねて、

 僕は食卓へと踏み込んだ。



「あーお腹空いた。

 あれ、何してるの二人とも?

 早く食べようよ」


「雪生、丁度良かった。

 この女、こんなしょぼい料理を

 ご馳走だって言ってあたしに

 食べさせようとするから~~」


「うん。これ全部、

 僕の好物ばっかりだもん。

 だから楽しみにしてください

 って言ってたんだね、

 雪さんありがとう!!」


「い、いえそれほどでは……」



 現主の決定に

 反論できないと踏んだのか、

「ゆ、雪生がそこまで言うなら……」

 と渋々ながらも席について、

 料理を食べ始めた。


 ひとまずは鎮静化できたけれど、

 このままで済むとは到底思えない。

 先が思いやられる。 


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