第23話 土曜・大友の復讐(後編)



 急に冷たい風が吹いた。気がつけば辺りは薄暮に包まれている。昼間の雑踏の気配は、名残の欠片もなく消え失せていた。土曜の夕方だというのに、子供のはしゃぐ声はおろか鳥の鳴き声一つ聞こえない。


 背後に、凄まじい違和感を感じた。邪悪な気配。怖気をふるう狂気。冷たい戦慄。


「会いに来たよ」


 嗄れた声が、胃の底をざらりとした感触で浚う。ゆっくり振り返ると、予想していた通りの風貌の老人が立っていた。黒い山高帽に黒いロングコート。銀細工をあしらった黒檀の杖。そして片目には、黒革の眼帯。


 私は男をただ睨みつけた。恐れは全く無かった。こいつか。こいつが大月を………


「私は強い欲求を持つ者に惹かれ、現れる。君からもそれを感じる。そこまで思うには、どんな願いが?」




「……大月 陽を、憶えているか」


 声が震えたのは、恐れによるものではない。それは、怒りによるものだ。


 老人は、ニヤリと黄ばんだ歯を見せた。


「もちろん、憶えているとも。あれは面白いサンプルだった」


……サンプル。そうか。

 心が、石のように冷たく、硬くなっていく。怒りで凝縮されていく。


「あの純粋な欲求。賞賛も金も名誉も含まれない。ただ、思う通りの絵を描きたいという、純度100%の欲求。あれは実に美しかった。なぜ諦めてしまったのか、残念でならないよ。あんなに上手く行っていたのに」


 老人はそらっ惚けた様子でそう言ったが、その口調はどうにも芝居じみていた。怒りが募るにつれ、頭の中は冷えていく。



「お前の手など借りなくても、彼は成功を収めた。それだけの才能を、彼は持っていた」


「似たようなことを喚いていた男が居たな。大月 陽から手を引けと。たしか彼も、わざわざ私に会うためだけにやって来た。木暮優馬と言ったかな」


……やはり、彼も。ネット上に書き込まれているアドラメレクのほとんどの情報は、彼が探偵に依頼した調査結果であるというのは、本当だったらしい。


「彼も滑稽だった。友人のため、犬のように歯を剥いて怒り狂っていたな。結局何も出来ぬまま、当の友人のせいで息絶えたのは如何にも皮肉だったね。大月 陽はそんな彼を助けようと、地べたに這いつくばって泣きながら私に懇願したよ。雨に打たれながら、額を地面に擦り付けて何度も何度も、『みんなを助けてください』と」


 目が眩むほどの怒りというのは、こういうことか。比喩なんかじゃない、目の前も頭の中にも白くギラついた光が明滅し、一瞬何も見えなくなった。その光が弾け飛び、ぐらりと卒倒しそうだった。が、歯を食いしばり足を踏みしめて、堪えた。今は、まだ。



「さて。それで、君は? 言ってみたまえ、君の欲望を。声に出して」


 男が顔を醜く歪めた。本人にしてみれば、それはきっと微笑みのつもりなのだろう。だが傍目には、おぞましいニヤケ面にしか見えなかった。



「その前に、確認させてくれ。声に出した欲求は、必ず叶えられる。そうだな?」


「ああ、全く嫌になる。世の中阿呆ばかりだ。阿呆どもが、誤った情報を蔓延させる。ただでさえ間違った情報に尾ひれがついて更に広まり、真実は薄れ消えていく。馬鹿と阿呆はおとなしく、口を閉じておるべきなのだ。まあ、そうしたら、口をきける人間はごく少数ということになってしまうがね」


 まずお前が口を閉じろと言ってやりたかったが、余計に話が長くなりそうなので黙っていた。何を勘違いしたのか、老人は満足気に頷き、先を続けた。



「いいかね、君。正確には、少し違う。願いを叶えてやるんじゃない。私は『欲求を叶えるための』を与えるだけだ」


 老人は「ちから」という言葉を強調して言った。


「そのがどう働くかは、人それぞれ。ちから、システム、魔法。呼び方はなんでもいい。好きに呼ぶがいい。ただ、そのチカラをどう行使するのかは、君自身だということだ。違いはわかるかな?」


「チカラがどう働こうと、結果がどうなろうと、その責任は私自身にある。それと、与えられたチカラに対し、対価を支払う必要も」


 ほう、と 老人は唸った。話が早いじゃないか、とでも言うように。


「逆に言えば、私が対価を払うことを約束した上で欲求を口にすれば、その契約は必ず成る。そうだな?」


 少し考えてから、老人は重々しく頷いた。

「まあ、そうなるな。特に問題は無い」



 それだけ聞けば、充分だった。私は進み出ると、彼を真正面から見下ろした。


「ならば私は、約束する。この私から、何でも持って行け。その代わりに望むのは……」



 老人は薄ら笑いを浮かべ、右手に持っていた杖を恭しく差し上げた。契約の儀式だろうか。


「私が望むのは、お前の、消滅だ」



 老人の手が、止まった。薄ら笑いはぎこちなく顔面に張り付いたままだ。


「私は声に出した。お前の存在の、消滅。それが私の求める、ただ一つのこと」



 コツ、と杖の先がアスファルトを打った。老人は今や、完全に手を下ろしていた。



「どうした。契約は」


「……契約は、契約だ。口に出されたそれは結ばれなければならないし、絶対に履行される。だが」


 彼の顔面は、安定を失っていた。様々な表情を形作ろうとしては失敗し、決まった形を取り損ねている。それはもぞもぞと蠢めくアメーバを連想させた。



「君は相応の対価を差し出し、私が消滅したとする。それで君に、何の利がある?」


「別に無い」 私は即答した。


 男は初めて、ギョッとした様子を見せた。出会いから通奏低音の様に、或いは、油彩で初めに施す陰影の色彩の様に一貫して存在していた、他人を嘲弄する様な雰囲気が消え失せている。


 彼には本当にわからないのだろう。大月 陽が自ら命を絶った理由を理解出来ないのなら、彼には永遠に、わかるはずがないのだ。



 優しく、純粋な男だった。皆に愛され、彼の周囲にもまた、自然と優しい人々が集う。そんな青年だった。だからこそ、結果的に大切な人達を巻き込んでしまったと知った彼の絶望は、計り知れぬほどに深かっただろう。それ故に、彼は命を絶った。


 彼は、描きたかったのだ。だが自分が絵を描き続ける限り、自分の愛するものは損なわれ続けるだろう。生きていれば、絵を描く欲望に飲み込まれてしまう。だから……愛するものを守るために、そうするしかなかったのだ。



「お前がこの世から消えれば、私はそれで満足だ」


「……馬鹿な。望み通り私が消えたとして、君自身に何が起きるかわからないのに?」

「ああ。承知の上だ」


 男は鼻から息を吐いた。長く、大きく、不満げな溜息だった。



「君はまあまあ話がわかる男かと思ったが、やはり馬鹿の一人だった。全く信じがたいほどの馬鹿だ。ひょっとして、仇討ちのつもりなのか」


「そう思いたいなら、それでいい。さあ、早く契約を」


 私は全くの無防備に、男の前に突っ立っていた。さらに、両手を広げ催促する。男は渋々といった様子で、再び杖を掲げた。


「私が消えても、同じことだ。この役割を果たす別の誰かが、また現れる。人間の欲望がある限り、私の様な存在は無くならない。姿や名前を変えて現れる。永遠に繰り返される其れを」


「黙れよ、爺さん。その臭い口を閉じて、さっさと契約を済ませろ」



 男が苦々しく顔をしかめた次の瞬間、突き出した杖の先から発射されたらしき見えない何かが体の中を通り抜けた。胸の真ん中が、チリチリと熱を持つ。



「刻印の場所は、大月 陽と一緒にしてやったよ。そこまで執念を燃やすほど、自分の全てを放り出してまで仇を取りたかったお前さんへ、最後の情けだ」


「情け、か。別に嬉しかないがね。ところで、あんたが消えたら、他の契約者はどうなる? 彼の、彼らの力は。支払うべき対価は?」


 老人は口を噤んだ。初めて静かになったのは喜ばしいが、この質問には是非、答えて欲しい。



「……わからんよ。なんせ、消滅するのは初めてだ」


……そりゃそうだ。まあ、仕方ない。なるようになるさ。少なくとも、大月に関わって不幸に見舞われた人々は、大月が命を絶ったことで(大きな悲しみを残しながらも)状況は快方へと向かった。契約相手が消えれば、もしかしたら武田猛も良い方へ向かうかもしれないという期待は、ある。




「私は……」


 老人の隻眼は、もうこちらを見てはいなかった。どこにも焦点を結ばず、虚ろに漂っている。


「人に力を与えるたび、自分の体の機能を犠牲にしてきた。つまりそれが、私の支払ってきた対価だ。最初に支払ったのは、この左目。そして片足、片腕、内臓の機能。もう、支払いに値するものはそれほど残っていない。どのみち私は、この役目を長く続けることは出来なかった」


「………」


「だが、私はもっと……知識を得たかった。見ていたかった。人間の、心の動きを。欲望を成就する過程の、魂のうねり。為し得た際の、昂まりを。そして欲に溺れる醜さや、栄光に縋り付かずにはおれない愚かさを」


「悪いが、あんたの自分語りには興味無いんだ。さっさと消えろ」


 今や哀れな老人となった男はふらふらと後ずさりし、両手を高く差し上げた。その手から、ステッキが落ちて転がる。


「かつて私は……精神世界を学ぶ者だった。その世界の先駆者として、研究にのめり込み……妻と子供を失った。彼女は一体………どうして……何を考えて………自らを」


 落ちたステッキを拾い上げ、膝で二つ折りにした。黒檀のステッキは重々しい輝きを放っていたが、すでに中はスカスカで、軽快な音を立てて折れると粉々になって消えた。


「私は、それが知りたかった……人の心の、動きを…………妻は、妻は……どうして」



「なあ、お取り込み中悪いけど」


 パンパンと手を叩き、手のひらに残った粉を落とす。老人がこちらに注意を向けた。



「あんたのやってきたことはな、ただの悪趣味な覗きだよ。奥さんは気の毒だったけど、亡くなったのはあんたのせいだ。あんたはそれに気付きたくなくて、目を背け続けていただけだ」

「ちがう……わたしは………」


 言葉が男に刺さったのがわかった。無事に契約が結ばれた今、私はひどく残忍な気持ちになっていた。楽に終わらせはしない。その時までに、出来るだけいたぶり手酷く傷つけてやろうと決めていた。物理的な攻撃が無駄なのはわかっている。


「皮肉なもんだ。他人の心を覗き見する前に、自分と、自分の妻の心をきちんと見ておくべきだったな。そうすればあんたも、こんな無様な化け物になって彷徨うこともなかったかもしれない」


「わたしは………妻を、愛して………」

「そうか。なら奥さんは、どんな人だった? 顔は? 声は? 口癖は?」


 男は苦しげに呻いて頭を抱えた。帽子が落ち、まだらに毛の抜けた頭部が露わになる。隻眼は忙しなく動き、唇が震えている。


「妻は……妻、は…………」

「思い出せないのか? 何が愛していただ、笑わせるね。最初に片目を失ったってのが象徴してるよ。お前は家族をほったらかして見殺しにした挙句、その罪悪感から目を背け続けて、愛した者の姿まで見えなくなった。その代わりに他人の不幸を覗き見て、ほくそ笑んでただけなんだよ。それがお前のしてきたことだ」



 おおおおおおおお、と男は叫んだ。だがその叫びは声にならず、嵐の前の風のような低く湿った音を立てただけだった。



「お前が消えても、私はお前を許さない。いいか、よく聞け。お前は、世界で一番の、阿呆だ。チンケな詐欺師だ。知識を得たかっただ? 綺麗事を言うな、変態野郎が」


 男は二つに折れて頭を抱え、かぶりを振った。後頭部にはほとんど毛髪が残っていなかった。


「自分で体を切り刻みながら賢いと勘違いして悦に入っている、みすぼらしい恥さらしの老耄。それが、お前だ」


 耳を塞ごうとした手が、手首からもげ落ちた。道路に転がった手首は、杖と同じように粉となって消えた。

 男は身を起こすと、残った腕を振りかざしよろめきながらこちらへ向かってきた。が、私に届く前に、その腕は先からボロボロと崩れた。頭も、体も、足も、灰色の粉になって消えた。跡には、黒く重たいコートだけが重たい音を立てて落ちた。



「跡形もなく、消えろ」


 そう呟いて、コートを思い切り蹴飛ばす。が、足は空を切り、何の感触も残らなかった。古びたコートも、風に溶けるように消えた。





 ようやく、終わった。復讐は為された、筈だった。

 だが、復讐を成し遂げたという達成感も満足感も、何も感じなかった。


 少なくとも、あの男によるさらなる犠牲者を生むことは、避けられたのだ。

 そう考えてみても、何の感慨も湧いてこない。体から力が抜け、冷たいアスファルトにへたり込み蹲った。


 在るのはただ、空っぽの心にへばり付いた、どす黒く醜い塊だけだった。


 明確な意志を持って故意に他者を傷つけて浴びた返り血が、固く冷たく凝縮した怒りに染み込み、赤黒く染まっている。一生消えることの無い赤黒いその穢れだけが、空っぽの心にべったりと、横たわっていた。


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