そして
第24話 一週間後(前編)
「大友さんと一緒に、彼の実家に行くことにした」
突然の実智の宣言に、一同は驚愕のあまり顎を落すばかりで声も出ない。目をまん丸くして口をパクパクさせている彼らを見渡し、実智は「無理もないか」といった表情で苦笑いを浮かべる。
「って言っても、長らく空き家になってる実家の査定をする付き添いと、失われた記憶の発掘・検証を兼ねてね」
☆☆☆☆☆★
病院から実智に連絡があったのは、一週間前。日付をまたいだばかりの、日曜深夜のことだった。路地裏で倒れていた大友が病院に運ばれたが、幸い外傷も無く健康体で、すぐに家に帰れるはずだった。だが、挙動が不確かだったために、大友は引き留められていた。
運ばれる最中、意識が無かったために救急隊員が所持品のチェックをした際、スマホの最新の通話履歴に実智の名前があった。搬送先は実智の祖母が入院している病院で、病院スタッフは当然実智を知っていたから、意識を取り戻した大友にそれを話した……だが彼は、実智を知らないと言う。連絡先一覧や通話履歴を見せても、朦朧とした様子でわからないと繰り返すばかり。それで、実智当人に電話がかかってきたというわけだ。
急ぎ駆けつけた実智と対面した大友は、なんとも言えない表情をしていたと言う。恐れと不安。だがその目の奥に、仄かな安堵感と躊躇いが見えたのだと。
「あんな顔されたら、放っておけない」とは実智の談。
その言葉通り実智は、大友を彼のアパートへ送り届けた。彼女が勤める不動産屋で紹介したその部屋は、彼の要望通り、静かで簡素。平凡な作りの部屋だった。だがその室内はというと、平凡とは到底言えなかった。部屋の片隅に押し付けるように敷かれた布団の他には、パソコンとプリンターだけ。そして、大量の資料の束が散乱していたという。それらは全て、「アドラメレクと呼ばれる悪魔の都市伝説」と「武田猛」についての物だった。
ふたりはこの一週間、その資料を調べ上げながら記憶を整理し、大友の身に何が起きたのかを推測していた。
何故、路地裏なんかに倒れていたのか。
何故、実智についてだけ記憶が曖昧なのか。
そして何故、武田猛を追い続け、アドラメレクとの対決に至ったのか………
☆☆☆☆☆★
病院で対面した時、大友は実智に対し、「見たことある気がするけど思い出せない。でも何故か懐かしく、信頼出来る」と感じたのだそうだ。
その後も何くれとなく親身になって協力してくれる実智への信頼が増していく一方で、日々顕になる実智に関する記憶の欠損に狼狽えていた。
大友の中に、実智が不動産屋で最初に応対してくれた日の記憶は有ったが、それは非常に朧げだった。それ以降、古本屋での会話やアパート前で出会ったことは記憶していない。もやもやとした残像や、あやふやな空気感みたいなものが浮かび上がるだけだった。
また武田猛捕獲作戦について思い出せるのは、武田の捕獲と更生及びアドラメレクを倒すという使命感だけで、その原因についてはわからない。作戦当日には自分が自主的にそこを訪れたと記憶しており、あの事務室の中で実智の存在だけがすっぽりと抜けているという始末だったのだ。
例えばそれが大きなパズルであれば、幾つかのピースが抜け落ちたとしても大体の全体像を把握できるだろう。だが、その空白が自分の記憶となれば。隙間だらけのぐらつく土台の上に立っている様なもので、非常に不安定で、心の有り様を不確かにさせる。
なのに、実智に対する謎の信頼感だけは、自分の中に揺るぎなく存在する。そしてその信頼感の裏には何故か、少なからぬ後ろめたさがこびり付いていてる。その理由を知るのが恐ろしいのだと、大友は言った。
「後ろめたさの理由が何であれ、その理由とやらを放っておいては駄目。自分の中にあるものは、見たくないものこそしっかりと見なきゃならない。逃げればそのツケは、必ず自分に返ってくる。大きくなって返ってきて、長く苦しめられる」
実智はそう言って、資料を握った大友の手を取った。なにしろ罪悪感と後悔については一家言持つ身だ。
「私は、あなたの傍に居ます。離れないで、隣に居ます。あなたの為じゃない、私にとっても必要なことだから」
大友は尻込みした様子で、取られた手を引っ込めようとした。
曰く、
「貴女のように若く未来ある美しい女性が、自分のような者に関わってはいけない」
「理由は思い出せないが、私の中にはおそらく深い闇があり、それに伴う罪がある。自分の心の中に、消すことの出来ない穢れを感じる。私は貴女に能う人間ではない」
「大体これらの資料を読む限り、私はこれからどうなるとも分からない身の上だ」と。
実智は大友の手を離すと一歩、詰め寄った。
「グダグダと煩いわね。私にとって必要だって言ったでしょう? 聞こえなかった?」
怯む大友をまっすぐ睨みつけ、低く落ち着いた声で彼の反対を封じる。
「深い闇? 上等じゃない。自慢じゃないけど私、本当は相当な底なし沼の持ち主なの。あなたの闇とやらにどん底まで付き合うから、一緒に脱出しません?」
ジリジリと後退る大友の胸に人差し指を突きつけ、言葉と一緒にグリグリと捻じ込む。
「 深い沼だって這い上がればいいし、闇なんて照らせばいい。紛い物の光だって、少しは役に立つでしょう?」
ついには壁際に追い詰め、10も歳下の小娘が醸し出す迫力にすっかり飲まれている大友の、胸ぐらを掴んだ。
「記憶の穴なら、私が塞いであげる。これだけ資料があるんですもの、数え切れないくらいの可能性を、ストーリーを、私はあなたに提示出来る。楽しいお話、悲しいお話、美しいお話、感動するお話、それとも、耳を塞ぎたくなるような、凄惨なお話? なんだって、お望みのままに。その中から好きなのを選べばいい」
実智は拳を引き寄せ、大友を押し付けていた壁から離す。そして手を離し、指先で胸元を擦って掴んでいた部分のシワを伸ばした。ついでに襟をしゃんと整えてやる。
「私、お話作るの、わりと得意なんです。いつか真実を思い出すかもしれないし? それまでは私の作った物語を代わりに詰め込んでおくのも、悪くないんじゃないかしら。突っかい棒ぐらいにはなるでしょう?」
極め付けに実智は、取ってつけたようににっこりと笑って見せた。
「言っておきますけど。私と一緒にいると、すっごおおおおく、楽しいですよ?」
大友の手から紙の束が落ちて、床に散らばった。空いた両手で大友は前髪を搔き上げて撫でつけ、「参ったな」と力なく笑った。
「確かに、実智さん。貴女と居ると、退屈はしなさそうだ」
大友はその場にゆっくりと正座すると、両手を膝頭に揃えて言った。
「正直に言いますが、いま貴女の仰ったこと。その全てを直ちに理解することは、私には出来ませんでした。でも、少なくとも貴女の眼には、嘘も誤魔化しも見えない。そして、情けないことですが……私には、貴女の助けが必要に思います。ご迷惑をおかけしますが、しばらくの間、宜しくお願いします」
床に手をつき、深々と頭を下げた。
☆☆☆☆☆★
大きなため息と共に最初に口を開いたのは、花奈だった。
「はあああ、びっくりした。みのりちゃん、電撃結婚宣言かと」
「ね。実家訪問とか、そう思うよね」
「そんなわけ無いでしょ。最近は私のことも徐々に思い出し始めてきたけど、他に記憶の穴が無いか、昔に立ち戻って確かめようってことになってね。ついでに、長らく空き家のままの実家を売るか貸すか決めようってことで、うちの不動産屋を指名してくれたわけ」
「んじゃ、不動産屋的にはお手柄か?」
「まあね。とりあえず査定は出張扱い、さらに特別休暇貰っちゃった」
ハルがわざとらしく両手で口元を覆った。
「やだー、特別休暇中に既成事実作成とか、やらしー。破廉恥でござるぅ」
「黙れオサムちゃん。違うから」
「まさかの実力行使か」
「それもアリだよ、みのりちゃん」
「透くんも見習ったら」
実智が足を踏み鳴らす。
「あーーーもう! そういうんじゃないったら! ハルと一緒にしないで!」
「失敬な。それがし、本命に対しては一途でござる。それはそうと実智殿、思い出し赤面しておられるようだが」
ハルの言葉通り、実智にしては珍しく、頬が紅潮していた。昨日の大友との会話を、つい思い出してしまったのだ。
何故あんな風に、強気に詰め寄ってしまったのか。仮にも好意を持つ相手の胸倉を掴み上げるとか、あり得ない。しかも恫喝にもならないような、訳の分からない言葉を並べ立てて。挙句最後には、ハル顔負けに自信満々の、謎の自己アピールまで……
☆☆☆☆☆★
あの短い遣り取りの中で何かを察したのか、実智に頭を下げたその直後、一転して大友は、実智の抱える葛藤を晒け出させる立場に回った。
さすがベテラン教師というべきだろうか。実智が身につけた堅く脆い鎧に気づき、正しくあらんと張り詰めた背筋を緩め、気高くあらんと掲げていた頭をそれとなく肩に凭れさせてくれた。
気付けば実智は、過去の後悔を打ち明けはらはらと静かに落涙していたのだった。
大友が抱いている欠落感や不安、葛藤。それを思えば、こんな時に自分のことを話すべきでないことも、よくわかっている。それでも実智は、自分の気持ちを押し隠すことが出来なかった。心の中にあるものを、包み隠さずまっすぐに、手渡さずには居られなかったのだ。
その告白は、長くは続かなかった。頭の中で何度も繰り返していたから、それは小説の裏表紙に記載されている数行のあらすじみたいに、簡潔にまとめられていた。
短い告白の後、実智は我に返ったように恥じ入った。
貴方の抱えるものに比べたら、私の後悔なんてきっとちっぽけなものなのに、と零れ落ちる涙を隠すように俯く実智を、大友は優しくたしなめた。何をどれだけ悔いるかは人それぞれ、罪の意識の大小など比べられないのだと。
ふたりはいつの間にか、それぞれを慰め労わり合う関係になっていた。
この関係を、人は何と呼ぶのだろう。
似た者同士? 共依存? それとも、恋愛関係? 或いは単に、傷の舐め合い?
名称は不明だが、ふたりは互いに必要とし合っていることだけは、確かだった。
「……泣くとブスになるから、見ないでください」
「泣いているあなたも、とても綺麗ですよ。でも気になるなら、私は少しの間、部屋を出ていましょう」
「でも、ここはあなたの部屋なのに」
「構いませんよ」
「私が構うんです。ここに居てください。私の、そばに……居てください」
☆☆☆☆☆★
続きまで詳細に思い出してしまい、実智は盛大に呻きながら頭を抱えて悶絶した。恥ずかしい。駄目だ恥ずかしすぎる。何故あの人の前では、鎧が綻びてしまうのか。感情がだだ漏れになってしまうのか。思いがぽろぽろと、こぼれ落ちてしまうのか。
どうやら私は、恋愛感情が絡むと自分をコントロール出来なくなるらしい………
あ、いま私、恋愛感情って。普通に恋愛感情、って。やっぱりそうなの? ああもう、長年そういう気持ちを遠ざけてきたから、何が何だかわからない。いや、わかってるような気はするけど……認めるのが怖い。あれだけ強気に出たくせに、これだから私は……
「あ、みのりちゃんまた何か反芻してる」
「自分に追い込まれてるね。リアルで地団駄踏んでる人、初めて見た」
「何だよ実智、気になるな。とっとと教えなさい」
「いや待て。面白いからしばらく見てようぜ」
呻きを通り越して叫び出したいのを必死に堪え振り払うと、実智は強く咳払いをした。
「ところで、武田猛の件だけど」
「あ、話逸らした」
「強引すぎ」
「さすがに無理あるよね」
再び強く咳払いをする。ちょっとクラッときたし、少し喉が痛い。
「えっと、彼のスマホ取り上げた時、私の番号とアドレス入れておいたじゃない? 今朝、メールが来た」
途端に4人の意識が集中する。
暢気に振舞ってはいたが、やはり気になっていたのだ。透が頷き、道行と花奈は一瞬目を見交わし、ハルは黙ったまま木刀を持ち替えた。
「結局警察沙汰には至らず、今はあの駐在さんを交え実家で親御さんと色々話し中。迷惑かけた方々に謝りたいみたい。とりあえず、落ち着いたらこっちへ挨拶に来るって」
「そうか」
「駐在さん、わざわざ行ってくれてるんだね」
「反省してくれてるなら、まあ」
「やっぱ俺を見習いたいって?」
「で、肝心の記憶の欠落については?」
「そうそう」「それだよ」
全員が見事にハルの発言をスルーするが、当のハルはいつも通り、それを一顧だにしない。
「彼にもよくわからないらしい。とにかく、欲しいものをバレずに何でも手に入れたいって悪魔に願ったら叶った、みたいな」
「悪魔とか、そんなもん、ほんとにあるのかね? 僕、なんか嫌だな」
道行が不満げに口を尖らせる。
「さあ、ね。でも彼によれば、願いが叶ってバレずに何でも盗めるようになった。で、バレないために、盗みの現場を見た人や彼を怪しんでいる人の記憶が消されたんじゃないか、って。そう考えると、大友さんの持ってた資料とも合致するのよ」
「……なるほど」
「もしそれがホントなら、納得……出来なくも、ない、か?」
「花奈だけが憶えてた理由にもなる」
「だな。花奈は泥棒を探してたんじゃなくて、単に道行のファンとして彼を見てたから、記憶が消されなかった」
「そう。でも道行のファンってだけじゃなくって、花奈はほら……困ってる人を見つけちゃうから」
「あー……それは、なんか納得」
まだ不満はあるけれどそれに関してだけは納得、という様子で道行は頷いた。
「花奈、すごい。犬猫鳥に続いて、ついに人間にまで……」
「なんか、ごめん……」
何故かシュンとした花奈の肩を、道行が優しく揺する。
「なんで謝るの? お手柄だよ、花奈」
「だっていつも迷惑かけちゃうし」
「迷惑じゃないって。そのおかげで、犯人捕まえられたんだからな」
「そうだぞ、花奈。みんなもよくやったよ。全員のお手柄だ」
透の労いに、それぞれが笑顔で応える。花奈も、はにかんだ様に控えめに微笑んだ。
「ところで実智、彼の名前は? 本名、思い出せたのか?」
一瞬の逡巡ののち、実智は頷いた。
「もちろん一応判明は、した。でも当人曰く、名前に関してはまだしっくり来ないって。子供の頃や、ご両親の記憶については徐々に戻ってきてるみたいね」
その悪魔は願いを叶える代わりに、その人の大切なものを奪う。盗みの才能を得る代わりに彼が奪われたのは、子供の頃の幸せな記憶と自分の名前だった。
少なくとも彼は、そう信じている。そして、大友が悪魔退治に成功したおかげで、彼の失われた記憶も徐々に戻りつつあるのだ、と。
「……悪魔退治、かぁ。ねえ、どうやって退治したんだろうね」
「呪文とかお札? 聖水かけたりとか?」
「それは私にも……大友さんがその辺りの記憶を取り戻さないことには、ね」
「あれ、ねえちょっと待って!」
突然、しゃがんでいた道行が飛び起きた。
「ってことは、僕らも手助けしたってことじゃない?」
「え、なんで」
「だってだってさ! 僕らが武田くんを捕まえて、大友さんがその武田くんからヒントを貰って、妖怪退治出来たわけじゃん?」
「妖怪じゃなくて、悪魔な」
「そう、それ!」
ハルの冷静な指摘に体ごと振り向き、強く頷く。
「南町ファイブ・連続窃盗犯捕まえちゃおう大作戦だと思ってたら、悪霊退散お祓い大作戦だったってこと!」
「悪霊じゃなくて、悪魔な」
「っていうか、作戦名そんなだったんだ」
「道行、いつの間にか悪魔を肯定しちゃってるし」
道行が憤然と喰ってかかる。
「そこじゃなくない? 突っ込むとこ、違くない? ねえみんな、悪魔退治だよ?」
「違うのは、みっちゃんだよ」
道行の興奮を一瞬で沈めたのは、珍しく確信に満ちた花奈の声だった。
「あたしが思うに、ここで指摘するべきなのはね、大友さんの記憶からみのりちゃんのことだけが消えてる、ってこと」
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