第22話 土曜・大友の復讐(前編)

 その男は、眼鏡さんが警官と電話で話し始めると俺の隣に素早く腰掛けた。黒服の女性は俺たちと眼鏡さんのちょうど中間あたりに立って、スマホを操作している。


「君はあの悪魔に、アドラメレクに会ったか?」


 ほとんど囁くようなその声に、僕は心臓を掴まれたような気がした。反射的に相手の顔を覗き込んだが、彼は視線を少し先の地面に固定したまま動かない。


「どうして、それを」

「どうやった? どうやったら会える?」


 囁きはさらに低くなり、感情を押し殺すような声になっている。逆にそれは、彼の逼迫した焦りを感じさせた。

 だが、追い詰められているのはこちらも一緒だ。


「それは言えない」

「頼む。教えてくれ。悪いようにはしない」

「でも」

「今後のことは気にしなくていい。私が奴を消す」


……えっ? この男は今、何を?


「私が、奴を、消す。かつて私は教師だった。教え子が奴のせいで命を落とした。私は彼らを救えなかった。だから私は、やらなきゃいけない。刺し違えてでも、必ず復讐を果たす」


 男は体をひねり、こちらに向き直った。その目は懇願するような、悲痛とも言える切実さを帯びている。


「そのために、君を探した。ネットの片隅から君の発信した言葉を見つけ出し、写真に映った痣を見て確信した。映像から位置情報を割り出し、君の発信を辿って追いかけ、やっとここまで来たんだ」



……奴が死んだら、僕のこの力は、そして僕自身は、どうなるのだろう。それに何より、あいつを殺すことなんて出来るのだろうか。だって、あいつは……



 強い力で左腕を掴まれた。指が、食い込むほどの力で。左の前腕に刻まれた痣が、彼の手のひらの下で疼く。


「時間が無いんだ。頼む」


 凄まじいまでの、男の執念を感じた。今の自分の状況への不安など、この男の前では取るに足りないものに思えてくる。この執念を一蹴するほどの価値が、僕の人生にあるだろうか。僕なんかの、未来に。そして少しだけ、これだけ執念をかけてもらえるその教え子とやらを、羨ましく思った。


……物を盗む力なんて、もう要らない。欲しいものなんて何も無い。自分の人生なんて、どうだっていい。もう、何もかも………どうでもいい。


 草を踏む音が聞こえた。男の様子を不審に思ったのか、黒服の女性がこちらへ踏み出したのだ。彼は時間が無いと言った。おそらく警察に引き渡される前に聞くべきことを聞いておきたいのだろう。



「願うんです。とても、強く」


 意味を掴めず、男は微かに眉をひそめた。

 彼に任せようと決めたら、少し心が軽くなった気がする。顔を寄せ、可能な限り声を潜め早口で耳打ちした。


「強く願う者の前に、あいつは現れます。ただひたすら、一つの願いを欲する者の前に」

「……強烈な欲求が、奴を引き寄せると? つまり、会いたいと願えば?」


 黒服の女性が背後に立ったのを感じ、僕は体を起こした。僕は今まで「アドラメレク」という単語そのものを発信したことは無かったし、例えば「都市伝説」や「悪魔」、「黒服の老人」といったキーワードになりそうな言葉すら書き込まなかった。それなのに僕に辿り着いたということは、この男はあいつの存在を知っている。それも、かなり詳しく。


 そう。ネット上などでは都市伝説と囁かれているが、アドラメレクは実在する。強い欲望の持ち主の元に現れ、それを手にする力を与える代わりに、相手の大切な何かを奪っていく……悪魔。あるいは、その手先。少なくとも、噂ではそう言われている。


「集中して、ただ一つのことだけを望むんです。とても、強く」


 男の目をしっかり見据え、小さく頷く。彼は腕から手を離すと、同じく頷いた。僕には彼が事を理解したのがわかったし、彼の方も僕がそれをわかった事を理解した。彼の目には、感謝の念が浮かんでいた。


 眼鏡さんが通話を終え、こちらへと戻ってきた。おそらくもうすぐ警官がやって来る。


「気をつけてください。もう知ってるだろうけど、願いには対価がある。僕の場合は………幸せな、記憶でした」


……そうだ。不思議なことだが、言葉に出した瞬間にそれを理解した。子供の頃の、数少ない幸せな記憶。それらを心の奥底で大切に思っていたなんて、自分でも意外だった。両親の仲が良かった頃の、小学校受験に失敗する前の、いじめなんてものを知る前の………それが確かにあったことは憶えているのに、どんなものだったかは思い出せない、幸せだった頃の記憶。

 僕は自分の名前を捨てたと思ってたけど、そうじゃない。あの頃の記憶と一緒に、あいつに奪われたんだ。



「心配は要らない。私には失って困るものなど、もう無いから」


 男はそう言うと、寂しげに笑った。その笑顔は、僕を少し悲しくさせた。だって、僕は知っているから。あいつと出会う前、僕自身もそう思っていたんだ。大切なものなど何も無い、と。でも、いざ失ってみると………だがそれを言っても、彼は復讐を止めないだろう。だから少しだけ、僕は悲しいのだ。




 ★☆☆☆☆☆★




 武田猛(仮)を迎えに来たのは、制服姿の若い警官と、私服の壮年の男だった。非番のベテラン警官をわざわざ呼び出してくれたらしい。


 私は警官に断ってから、自身の名前と連絡先を書いておいたメモを彼に渡すことが出来た。いつでも力になるから連絡するようにと言い添えると、彼は礼を言ってメモをポケットにしまった。

 墨谷実智が、取り上げていたスマホを彼に返した。


 彼女は、私と彼との会話の一部を聞いていたはずだったが、一切口を挟んでこなかった。もし聞き咎められて質問などされていたら、うまく話を聞き出せなかったかもしれない。何か聞きたそうな顔はしていたものの、口を噤んでいてくれたことは本当に有難かった。

 後に説明を求められるかもしれないが、それについては追い追い考えればいい。



 私たちは一団となって、交番へ向かった。電話で大まかには伝えてあったものの、とりあえず落ち着いて、詳しく話を聞くためだ。

 杉原透が先頭を行き、武田猛(仮)を挟む形で警官が二人。その後ろを私と墨谷実智が並んで歩く。端から見れば単に、パトロール中の警官と地域住民が連れ立って歩いている平和な光景に見えるはずだ。


 雑踏を避けるため、メインの通路から外れた、アーケード商店街と並行する裏道の方へ。神社を突抜けて道を渡り終えると、森井道行の歌声が遠くに聞こえてきた。これは……また、ずいぶん懐かしい歌だ。私がまだ学生だった頃の、たしか……


「今日の懐メロコーナーは、このバンド縛りか。道行、相当気合い入ってるな。声がよく出てる」


 それは、かなり昔に人気を博したバンドだった。当時も今も音楽には詳しくないが、おそらく彼らの両親世代の曲ではないだろうか。だが古いとはいえ、CMだかテレビドラマだかに使われたこともあり、今でも時折耳にする有名な曲だ。

 本来はもっとハードな曲調で、ボーカルは太くハスキーな声質だった様に思うが、森井道行は少しテンポを変え、ブライトな声質で伸びやかに、少しシャウト気味に歌っている。これだけ離れているとは思えないほど、とてもクリアに聞こえる。その声に聞き惚れる様に、我々の歩みは速度を緩めた。


 ライブ会場に近づくにつれ、よりはっきりと歌詞が聞き取れる。小さな体からは想像出来ないほどの声量も相まって、歌がビリビリと体を貫き染み込んでくる。



「ねえちょっと、これ……」

 墨谷実智が、不意に足を止めた。


「前の曲と、今やってる曲の歌詞。さっきからこれ、あなたに向けて歌ってる。ねえ……」


 墨谷実智は言葉を飲み込んだ。武田猛(仮)が、ボロボロと大粒の涙を流していたのだ。しゃくりあげる事もせず、ただ涙が胸元を濡らしてゆくに任せている。



「……なんというか、道行らしいな」

「そうね。どうせ、私たちがどこに居ても聞こえるようにって思ってるんだろうけど。こんな馬鹿デカイ声出して、きっと明日酷いことになるわよ」


「花奈に知らせてやれよ。ちゃんと聞こえてるって」



 武田猛(仮)は固く閉じた目から涙を溢れさせ、何度も頷きながらその曲を聴いていた。やがて彼は、自ら歩き出した。まっすぐに天へと突き抜けるような道行の歌声を、その背中に受けながら。





 我々はステージの裏の道を通って商店街を抜け、交番へと辿り着いた。交番の安っぽいパイプ椅子に座ってもなお、彼は涙を流し続けていた。


「……どうして。どうしてあの人は、僕なんかのために、歌ってくれるんでしょうか。いっぱい迷惑かけたのに。悪いことしたのに。どうして?」


 青年の問いに、墨谷実智と杉原透は顔を見交わし、苦笑いした。


「それは、まあ……」

「道行は道行だから、としか。ねえ」


「俺、捕まって良かった。あなた達に捕まえてもらって、良かったです。ありがとうございました」


 青年は涙を拭って立ち上がると、ふたりに向かって深々と頭を下げた。


「あと、あの人たち、えっと、道行さんと花奈さんと、三つ編みの魚屋さん……あの人たちにも伝えてください。もう二度と、盗んだりしません。本当にゴメンなさい、って」


「面倒だから、イヤ」


 墨谷実智が肩にかかった髪を払いながら、即座に却下した。一刀両断の勢いだ。隣では何故か杉原透が喉を詰まらせたように吹き出し、顔を背けて唇を噛み締め笑いを堪えている。


「そんなもん、自分で言いなさいよ。ちゃんと罪を償うなり反省するなりして、自分の口で。いつになっても構わないから」


 彼は一瞬目を見開いて固まったが、すぐに頷いた。そして、少しホッとした様に口元の強張りを緩めた。


「そうですね。そうします。あと……先生」


 急にくるりとこちらを向いたので、思わず身構えてしまう。同時に、「先生」と呼ばれたことに動揺していることを自覚したものの、なんとか平静を装った。


「大友先生……僕を見つけてくれて、追いかけてくれて、ありがとうございました」




 墨谷実智と杉原透が交番から引き上げていく背中を見送るまで、平静を保てていたかどうか、自分でもわからない。動揺しつつ、心の片隅で「名曲は時代を超えるんだなあ。それとも時代を超えて残ったものが、名曲と呼ばれる様になるのだろうか」などとぼんやり考えていたくらいだから、とんと自信がない。

 何せ自分の復讐を遂げるために彼を利用した身だ。まさか礼を言われるなどとは、思ってもみなかったのだ。


 だが、彼の身を心配していたこともまた、事実だった。だから、彼がふと外を眺めて呟いた時には、少なからず安心もした。



「空って、こんなに青かったっけ……」



 その言葉につられて、窓から外を仰ぎ見る。


 高く青い空に、うっすらと白い雲。様々な緑色を湛えた樹々。不意に風が吹いて、どこからともなく小鳥の群れが飛び立つ。樹々の影が揺れ、陽光がきらめく。そんな当たり前の春の光景の眩しさに、私は思わず目を細めた。私自身、風景を意識して見たのは久々な気がする。以前、絵を教えていた頃には、日常的に眺めていたものだったが。



 急に、さっき聞いた曲が脳裏に蘇ってきた。彼らがあの曲を選んで歌った意味を、私は遅ればせながら理解したように思う。

 彼らの歌は非常にストレートで、時に滑稽に思えるほどシンプルでわかりやすく、乾いた大地に水が染み込むように自然に心に溶け込むのだ。大地の持ち主によって、染み込むのにかかる時間はそれぞれではあるけれども。




 ★☆☆☆☆☆★




 武田猛(仮)の処遇についてだが、とりあえずその身を実家へ預けることとなった。もちろん私はそれに付き添うと申し出たが、申し出は礼儀正しく却下され、その役目は非番のベテラン警官が担うこととなった。考えてみれば当然だ。得体の知れない元高校教師より、現職の警察官の方がその役目には相応しい。


 別れ際、何かあったら遠慮せず電話するようにと再度伝えた時、彼の目に憐れむような影が過ぎった気がしたのは、私の見間違いだろうか。もしかしたら私は、ナーバスになっているのかもしれない。なにしろ、これから得体の知れないものと対峙し、それを打ち倒さんとしているのだから。




 交番を後にした私は、なるべくひと気のない路地を目指した。商店街周辺は、ライブの盛り上がりの名残で未だ浮き足立った人々が行き交っている。


 私も、気持ちを切り替えなければならない。目的に集中し、遅れてきた感動の余韻を払いのける。


 今まで私は、復讐を果たそうとする余り、気持ちが先走り過ぎていたのだろう。奴に会ったら言いたいこと、聞きたいこと、そしてどういう結末を見舞ってやろうかという思いが、絶えずぐるぐると渦巻いていた。それでは、駄目なのだ。ただ一つの願い、それだけを求めなければ。純粋に、熱狂的に。


 自ら命を絶った、私の生徒。溢れる才能とまっすぐで純粋な心を持った、私の愛弟子。

 彼の名は、大月 陽。彼のたった一つの願い、それは紛れもなく、絵を描くことに関するものだったろう。そして、その対価は……



……いけない。また、心が乱れている。自分の欲求に、集中するんだ。


 私はただ一つ、「アドラメレクと呼ばれる男に会いたい」とだけ念じながら、どこか裏寂れた趣のある路地裏をゆっくりと徘徊し続けた。






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