第18章 花
鎌田はどこにいるのだろうか。鎌田は元々あの家に住んでいたのだから、今晩はあの家に泊まるのではないだろうか。そもそも鎌田は昨晩なぜ急に現れたのだろう。鎌田は昨晩、森玲子に電話をしたと言っていた。その時に、誰か不審者がいるのではないかと気がついたのではないか。
時間は夜10時を回ったところだ。孝太郎は、あれほど森玲子から安静にしないさいと言われていたが、布団から抜け出して鎌田の家に行ってみようと決めた。
客間は庭に面していたので、慎重に音がしないように窓を開けた。縁側に置いてあったサンダルを履いた。シェパードのマックスは、夜は家の中にいるようだ。それでも、足音をなるべくたてないように、ゆっくりと鎌田の家に向かった。今度は忍びこむのではなく、玄関の前に立ち、扉をノックした。
「鎌田さん、西村です」
何も反応がなかった。もう一回、今度はやや強めにノックした。
「鎌田さん」
声も前より大きめにした。ごそごそと音がした。やはり、鎌田は今晩ここに泊っているようだ。しばらくして、玄関の中の灯りがついた。
「誰かね」
「鎌田さん、西村です」
玄関が開けられた。
「西村君かね。何だね」
「鎌田さん、夜遅くにすみません。どうしてもお伺いしたいことがあって来ました」
「ま、上がりなさい。ここでは何だ。玲子ちゃんに変に思われる」
鎌田はあくまでも森玲子を中心にものごとを考えているようだ。孝太郎は言われるままに家に入った。鎌田は応接室に孝太郎を案内した。
「で、聞きたいこととは何だね」
「それは、『睡蓮の花』のことです」
「だから、あれはなかったことになっていると言っただろう」
「実は森さんから何を探していたかを厳しく聞かれたので、失われた映画を探していたと言ったのです」
「まさか、君、それがあったと言ったのではないだろうね」
「いえ、その点は大丈夫です。鎌田さんから言わないようにと注意を受けていましたのでしゃべってはいません」
「それはよかった。君、その件は玲子ちゃんには内緒だよ」
「ただ、森さんの方で、探しているのは『睡蓮の花』でしょうとは言われました」
「そうか。それは構わない」
「鎌田さん、ボクが聞きたいのは、『睡蓮の花』のカメラマン、小川雅夫さんのことです」
「え、何だと。なぜ、君が小川君のことを聞くのだ」
鎌田は、小川さんの名前に強く反応した。
「ボクは今回、森さんの撮影に来る前に、森さんに関する資料を読んで、映画を見て来ました。あらためて資料を見て、小川さんのことが気にかかったのです」
「彼は、あの当時の日本映画界期待のカメラマンだったからね」
「はい、森さんを調べていて、小川さんが撮影した作品を見ましたが、正直、驚きました。アメリカ映画のようにスピード感があり、そして、フランス映画のように深い陰影が画面に出ていて、惹きつけられたんです」
鎌田は我が意を得たり、とばかりに深く頷いた。
「小川君はアメリカ・ハリウッドに行き、そこで2年ほど映画を学んでから帰国したばかりだった。映画会社の社長に、玲子ちゃんのデビュー作のカメラマンとして、小川君を推薦したのは私なんだ。玲子ちゃんを、しっかり撮ってくれるだろうと期待した」
「それまでに女優の映画で話題になったものはありましたよね」
「あー、それなんだがね。それまでの女優は主役である男役の引き立て役でね。まるでお人形さんのように画面の中に置かれていることが多かった」
「でも、観客はそれでも満足していたのですよね」
「いや、確かに人気があり、画面に映っているだけで満足させる女優は何人かいた。だからこそ玲子ちゃんを、デビューさせるには何か新しいことが必要だと考えていた。そうしないと、映画界で確かな地位は築けない」
鎌田は戦前から戦後にかけて映画のプロデュースをしているだけあって、俳優の進むべき道というものが見渡せたようだ。
「そこに小川さんがハリウッドから帰国したんですね」
「そう、まさに玲子ちゃんが映画界に入っていけるかどうかの時に、カメラマンを担当してもらったんだよ」
「小川さんのカメラワークはどこが違ったのですか」
「小川君のクローズアップの映像は切れ味がよかった。特に映画館で見ると女優の顔の線がくっきりと浮かび上がっているんだな。照明もそれまでの日本映画と違って陰影に富んだ画面を作って、女優を一層引き立てた。それと、もう一つ大事なことは、小川君が化粧法をがらりと変えたことだ。それまでは歌舞伎から由来していた厚く白塗りに顔を作る化粧法が主流だったのだが、アメリカから輸入した化粧品を使って、薄めで茶褐色の顔に作り変えた。それまでと違ってモダンな女優の顔を生み出したんだ」
「それが『睡蓮の花』なんですね」
「そう、その通り。小川君のカメラは玲子ちゃんをまさに引き立てた。映画の中で玲子ちゃんの存在がしっかりと画面に焼き付いていた。私はこれで玲子ちゃんは映画界でやっていけると安心したものだ」
「そんな記念すべき映画なら、なぜ発見されたフィルムを森さんに見せて上げないのですか」
「西村君。君も資料を見ているなら小川君がその後しばらくして映画を撮れなかったことを知っているよね」
「ええ、『睡蓮の花』の後、何本か撮った後、小川さんが担当した作品がぱったりとなくなりますね。小川さんは映画界から離れたのでしょうか」
「君は小川君のその後を知らんのかね」
「はい、探した資料には監督のものはあったのですが、映画カメラマンのものはあまりなくて」
鎌田は一呼吸置いた。
「あれは、映画会社の社長が、小川君に次回作はカメラマンでなく監督を任せることを決めていた時だ。その矢先に召集令状が来たんだよ、小川君に」
「え、だから、小川さん撮影の映画が途切れるんですか」
「そうだ」
「小川さんはどこに行かれたのですか」
「中国戦線に送られてしまった。大陸での戦闘がすでに
「森さんの映画出演はその後も続きますよね」
「そうだよ。玲子ちゃんはすっかり人気女優になっていたからね。でも、玲子ちゃんは小川君のカメラで再び撮ってもらうことをずっと願っていた」
「実は、森さんから小川さんへの思いを先ほど聞いたのですが、森さんと小川さんは恋愛関係にあったということですか」
「なんだ、玲子ちゃんは君にそんなことまで話したのかね」
「いえ、ボクがしつこく聞いたからで、森さんは、あくまで仕事上でのつきあいだったと言われていました」
「そうか、仕事上ね。当時はね、男女の恋愛といっても清らかなものだったんだ。小川君も真面目な男でね、二人は確かに好き同士だったかしれないが、映画を作るということで二人の心が近かったという面の方が強かったな」
「森さんの本を読みましたが、恋愛の話がほとんどありません。小川さんとの仲は噂になったのでしょうか」
「西村君、私は玲子ちゃんを映画界に引き入れた人間だからね、玲子ちゃんに対して責任がある。その手の話は全部、私がコントロールしていた。当然、小川君とのことは公になっていないよ」
鎌田は自信たっぷりに話した。森玲子の女優像を作ったのは自分だという自負が現れていた。そうであったとしても、人の心に壁は立てられまい。森玲子は小川が撮った映画を、追い求めているのではないだろうか。
「しかし、鎌田さん。現にあなたは『睡蓮の花』を発見されたのですよね」
「君は、フィルム缶を見たと言ったね」
「ええ、森さんには、缶の中は違う作品が入っていたと言われたそうですが、ボクにはそうは思えません」
「なぜかね」
「仮に違う作品なら、わざわざ鎌田さんの家で保管しないでしょう」
「ふむ」
「鎌田さん。やはり森さんに知らせるべきではないですか。少なくとも森さんには知る権利があるのではないですか」
「君は、小川君が中国戦線に送り込まれた後のことを知らんからそう言うんだよ」
「ええ、知りません」
「小川君は中国戦線で敵の銃弾を受け負傷し、野戦病院で病死した」
「え、お亡くなりになったんですか。それで小川さん撮影の映画はその後(ご)ないんですね」
孝太郎はこれまで、小川撮影のデビュー作を、森玲子に見せるべきだと言い募っていたが、小川が亡くなっていたとは。
となると、残された者への配慮が必要になる。自分の考えが浅いものであったと、ようやく気がついた。
「玲子ちゃんには、小川君のことを思い出させたくないんだよ」
孝太郎はしばらく黙ってから答えた。
「わかりました。ただ、森さんにとって大事な作品ですよね」
「そうだよ。しかし玲子ちゃんの気持ちを考えると、静かにしておいてあげたいんだ。しかもあの映画のオリジナルフィルムは、戦争で焼けてしまって、長年、失われてしまった映画とされていた。今さら玲子ちゃんに見せ、小川君を思い出させて何になるんだね」
「しかし、それは森さんが決めることではないでしょうか・・・」
「いや、これでいいんだよ」
確かに鎌田の言う通りかもしれない。森玲子の心の中に思いを馳せると、鎌田の方が正しいだろう。それに、これ以上、鎌田を説得することは無理のようだ。ここは潔く引き下がることにした。夜中に訪ねたことを鎌田に詫び、元の家に戻った。
布団に入り、「睡蓮の花」について考えた。森玲子にとって、好きだったカメラマンの作品を再び見ると、どうしてもそのカメラマンの死を思い出してしまう。鎌田が言うように、ここはそっとしておいた方が彼女のためだろう。
孝太郎はスポーツ写真が専門で、その選手の最も輝いた一瞬を切り取りたいと願ってシャッターを押す。同じように小川は映画カメラマンとして、役者の演技や表情が最も深まった瞬間を捉えようとしたはずだ。
ましてや、小川にとって森玲子は好意をもって撮影した女優だ。小川の熱い思いがフィルムに焼き付いているはずだ。そのフィルムを再び見たならば彼女にとっては、 小川の戦死という辛い記憶だけが蘇ってくるに違いない。
やはり鎌田が言うように、森玲子にはこのまま黙っていた方がよいのだ。孝太郎は、やがて眠りに落ちた。
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