第17章 デビュー

 孝太郎はまた一人になった。リュックを開けて楢崎から渡されていた資料を出した。森玲子の経歴や出演映画の一覧表があった。改めてそのリストを眺めた。輝かしい映画歴がそのリストを埋めていた。日本の映画界で森玲子のデビューは衝撃的で、その日本人離れした美しさが多くの人を驚かせた。映画の評価も高かった。

 その輝かしい第1作が『睡蓮の花』だ。

 孝太郎はこれまで、森玲子の美しさが注目を集めた大きな原因だろうと考えていた。しかし、リストをよく見ると、日本映画に変革をもたらしたと言われる映画カメラマンが、彼女のデビュー作を撮影していた。そのカメラマンはその後、戦前の慌ただしい時期に4本の森玲子作品を撮っていた。

 監督の資料は読んでいたが、映画カメラマンまで目を通していなかった。出版社の参考資料をリュックに入れていたが、これまで時間が足らずに、そこまで読み込んでいなかった。いま、注意深く見るとカメラマンの存在が気になってきた。

 カメラマンの名は、小川雅夫。戦前のデビュー作品などで森玲子を撮っていた。それが、第二次世界大戦開戦を境にぴたりと名前が消えていた。

 そうだ、八重洲ブックセンターで買った本なら、映画カメラマンのことが出ているかもしれない。リュックの奥からその本を引っ張り出した。ページを捲っていくとあった。カメラマンについて少しだけ触れていた。

 小川雅夫。斬新なアングルと照明で日本映画に革新をもたらした、とある。森玲子のデビュー作には、その小川の力が発揮されているようだ。

 やがて、森玲子が部屋に来て、お風呂を勧められた。そういえば、昨日は具合が悪く、寝込んだまままで風呂に入ってない。では、お言葉に甘えて入りますと答え、教えられた風呂場まで行った。

 入ると広い風呂で、檜作りだ。1日振りの風呂で、髪を洗うのも気持ちよかった。体を洗い、顔を洗って、湯船につかると、犬に噛まれた傷が痛んだ。しかし、しばらくするとお湯で体がほぐされる気持ちよさが、痛みよりまさっていった。

 孝太郎は森玲子に、小川雅夫のことを直接聞くこともちらりと頭をかすめたが、さすがにやめた方がよいだろう。彼女の気持ちを傷つけてしまうかしれない。いや、それでもやはり、聞かなければ、わからないことではないだろうか。

 風呂から上がって、客間に戻ると、冷たい麦茶がテーブルに用意されていた。ありがたいことだ。おいしい麦茶を飲みながら、想像してみた。カメラマンと女優との関係は、撮るものと撮られるものの関係以上に何かあるものだろうか。

 やはり、このまま考えても森玲子と小川雅夫の関係はわからない。かといって面と向かって聞くのも、はばかられる。どうしたものだろう。すると、森玲子が客間を軽くノックして入ってきた。

「西村さん、お風呂はいかでしたか」

「はい、ありがとうございます。広いお風呂でゆったりできました。もう帰らないといけないと思います。具合もよくなりました」

 孝太郎は森玲子と二人きりになっていいのか、心配した。でも自分が病気になってしまったのだから仕方ないだろう。

「森さん、ボクはもう大丈夫です。明日には帰りますから」

「それは、西村さんの回復次第ですわね」

「いえ、もう本当に大丈夫です」

 森玲子は、孝太郎の心を見透かすように言った。

「何か私にお聞きになりたいことがあるのでしょう」

「いえ、ボクは・・・」

「西村さん、はっきり仰ってください」

「いえ・・・、その・・・」

 口ごもってしまった。

「言いたいことは、はっきりお話しなさい」

 森玲子から命令されて、それを拒める人がいるのだろうか。そのきっぱりした口調に観念するかのように口を開いた。

「実は、お聞きしたいことがありまして、映画カメラマン、小川雅夫さんのことです」

 森玲子は一瞬、少しだけ目を大きく開き、そしてすぐに元の表情に戻した。

「西村さんは映画カメラマンにも興味をお持ちになったのですね」

「はい。いろいろ考えたんですけど、小川さんが撮影したデビュー映画に森さんの転機があるような気がして、それを見つけたいと思っています」

 森玲子は目を閉じて深く溜め息をついた。そして、目をゆっくりと開け話し始めた。

「あの映画は、私にとってデビュー作であると同時に映画界で生きていこうと決めた忘れられない作品なのです」

 記憶をさかのぼっているのか、しばらく間があった。

「カメラマンは小川さん、小川雅夫さんでしたわ」

 森玲子の目を見た。その目は遠くを見るかのようだった。

「そう、小川さんは映画出演が初めての私を緊張から解きほぐすように撮影されたのです。監督は厳しい方で、慣れない私は何度も撮り直しになって、それこそ、もう泣き出しそうになった。その度に小川さんが、『大丈夫だよ、きっとうまくいくよ』と励ましてくれたのです。また、私が失敗して他の偉い役者の方々から愛想をつかされた時にも、皆さんに協力を呼びかけて何とか同じシーンの撮影を続けるようにしてくれた。もう、辛い撮影でしたけど、小川さんの言葉に救われたのです」

 孝太郎は少女時代に映画界に入った森玲子は、初めから順調に映画の道を進んだのだろうと勝手に想像していたが、森玲子にしても苦労があったようだ。

「デビュー作の評判はとてもよかったんですよね」

「ええ、特に評論家の方に高く評価されました。監督のお力が一番ではあるのですけど、私にとっては、小川さんの撮影が斬新で、今までにない画面をお作りなったことが大きいと思っています」

「それが『睡蓮の花』なんですね。森さん、ボクは見てみたいです」

 森玲子は、薄っすらと微笑んだ。

「その後、撮影に入った2作品は別の監督でカメラマンも小川さんではありませんでした。まだまだ映画の世界に慣れていなくて、わからないことだらけでした。また、デビュー作では特別に主役をいただいたのですが、その後しばらくは主役の女優を支えるという役割だったのです。当時の主演女優はもうそれこそ撮影所の中心的存在で、私などは近づくことなど到底できなかった」

 孝太郎は森玲子の目を見て、じっと聞いていた。

「私は新人ということで、まったく相手にされませんでした。だから撮影で私が原因で撮り直しになると、もうかなり辛い言葉もいただきまして、日々耐えていたという次第でした」

「森さんにもそんな時があったなんて知りませんでした」

「それで、義兄が映画プロデューサーをしていましたので、義兄を通じて映画会社の方や監督に、次の作品でカメラマンは小川さんが担当されるようにお願いしていただいたのです。今から考えれば、随分生意気なことをお願いしていたものです」

「それで、再び小川さんの撮影で映画が作られたのですね」

「はい。私にとっては映画界でやっていけるかどうか、とても不安になっていた時でしたので、小川さんに撮っていただいたのが、本当に救いだったのです。優しい言葉をかけていただいて何とか映画のお仕事を続けていけると考え直したのです」

「だから、デビュー作の『睡蓮の花』は森さんにとって大切な映画なんですね」

「ええ、その通りです」

「そのフィルムが今は失われて見つからないんですね」

「それでいいと思っているのですよ」

 その言葉に、驚きを隠せなかった。

「なぜです。森さんのファンは、森さんが世に出た映画をぜひ見たいと願っています」

「でも、失われたものは、もう戻りませんから」

 森玲子がいかにも『睡蓮の花』に未練がなさそうなのがとても気にかかった。

「森さんは、『睡蓮の花』を見るのを避けているのではないですか」

「あら、西村さんはどうして、そうおっしゃるのかしら」

「失礼なことを申し上げことになるかもしれませんが、もしかしたら森さんは小川さんに好意を持たれていたのではないですか」

「なぜそのようにお思いになるの」

「森さんは希望して映画界に入ったのではありませんでしたよね」

「ええ、その通りですわ。家の事情がありまして」

 森玲子の家は、裕福な家庭であったが、玲子が高等女学校に入って2年目に、父の事業が傾き家計が苦しくなり、女学校も退学していた。その際、女学校の校長は森が成績優秀なのを惜しんで特待生として学校に残れるように薦めたが、森の方から断わり、当時親戚が勤めていた映画会社に入ることになったいきさつがあった。その親戚が、義兄の鎌田だ。

「その映画界に入ってみたら森さんにとっては必ずしも楽しい所ではなかった」

「楽しいか楽しくないかよりも、お仕事ですから」

「でも、同級生はそのまま女学校に通われていたわけですよね。森さんとしては寂しい思いをされたはずだ」

「そんなことはないですよ」

「辛いこともある映画の世界で森さんを大事にしてくれる小川さんと出会った」

「そうですね。小川さんの撮影には温かみがありました」

 少し間を置いて、再び聞いた。

「撮影中の小川さんの優しさは、森さんにとっては、なくてはならないものだったのではないですか」

 森玲子は、少しの間考え込むようにしていたが、やがて口を開いた。

「私のことを調べている方はいらっしゃいますが、小川さんのことに気が付かれたのは西村さんが初めてですわ。それにあなたは正直な方だからお話ししましょう」

 自分ごときが森玲子の大事な話を聞いてもいいのだろうか。だが、雰囲気に呑まれて黙って聞いた。

「西村さんが推測された通り、私は小川雅夫さんが好きでした。ただ、好きといっても戦争前の厳しい世の中ですから、取り立てて何かがあったというわけではありません。二人で撮影の休憩の時にほんの少し言葉をかわすとか、手紙を書くぐらいでした」

 孝太郎は、静かに頷いた。

「また、当時、私はヨーロッパに映画の宣伝も兼ねて渡航することもありまして、しばらくは会うこともないこともありました。小川さんとは、仕事の上でのおつきあいであり、女優と撮影カメラマンの関係でしかなかったのです」

「それでも、お二人は惹かれ合うところがあったのですね」

「ええ、小川さんは純粋に映画を愛していらっしゃって、撮影が終わってから、お時間を作っていただいて、映画の世界の広がり、映画が世界にできることや映画の未来などを教えていただいたのです」

「その小川さんが、初めて森さんを撮ったのが『睡蓮の花』ですよね。そして、そのフィルムがいまだに見つからない」

「義兄の鎌田も探したのですが、どうしても見つからなかったのです」

 孝太郎がさっき離れの地下室で見た映画フィルムの缶には、確かに「睡蓮の花」とあった。6缶あったはずだ。森玲子は結局なかったと言い、鎌田は森玲子にはこのことを口外しないように言っていた。

 なぜ、「睡蓮の花」を森玲子には隠さなければならないのだろう。鎌田は、デビュー映画の何を彼女に見せたくないのだろうか。

 いくら考えてもわからなかった。孝太郎は「睡蓮の花」の概要を文章でしか知らないのだから仕方がないのかもしれない。映画を見た人しか、そこに何があるかはわからないだろう。森玲子に聞くことができないとすると鎌田に聞くしかない。

「最後にもう一つ、お聞きしたいのですが、森さんは『睡蓮の花』を再びご覧になりたいですか」

「そうですね。私にとって大事な作品ですが、あえて見なくてもいいでしょう。私には大事な思い出ですから。それに、やはり失われたものは仕方ないでしょう」

 頷くしかなかったが自分の気持ちも伝えたかった。

「でも、森さんのファン、そして映画ファンとしては、どうしても見たい映画です」

「西村さん、そのことはお忘れになって下さい。それより、ゆっくりお休みになってよくなって下さいね」

 孝太郎は、森玲子の家に二晩も泊ることになり、これ以上、迷惑はかけられない。確かに、ここで体調を取り戻さないといけない。

「わかりました。では、休ませていただきます」

 森玲子はゆっくりと立ち上がり、「ではお休みなさい」と言い残して客間を後にした。

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