第12章 散歩

 孝太郎が目を開けると、まだ、家にいた。腕時計を見ると朝の10時を回っている。横には往診だろうか医者と看護師が来ていた。森玲子は医者と話をしていたが、孝太郎に気がついて顔を覗きこんだ。

「あら、西村さん。お気づきになりましたか」

「あ、はい。すみません」

 医者が言った。

「これは、明日までは安静ですな」

 森玲子が答えた。

「わかりました」

「犬に噛まれたところから菌が入ったんですな」

 医者には診断がついたようだ。

「それで、先生、病名は何でございましょう」

「パスツレラ症です」

「どういう病気でしょうか」

「パスツレラというのは、犬の口の中にある菌の名前でしてね、ほとんどの犬がその菌を持っています。この感染症の特徴は症状が現れるのが早いんですよ」

「どんな症状が出るのでしょう」

「症状は、人によって違います。この方の場合は、まず足のれがありますね。それと急激な発熱ですな。あと、噛まれた足の近くのリンパ節の腫れにもこれから注意しなければいけません」

「大丈夫でしょうか」

「抗生物質を出しておきましたので、飲ませて上げてください」

「お薬だけでよろしいのでしょうか」

 森玲子は注射をするように、医者に催促しているのだろうか。注射は勘弁してほしいなとぼんやりと思っていた。

「薬で治ります。なーに、心配は入りません。よく効く薬を出しておきましたから」

「注意することはありますか」

「そうですね。安静が必要ですのであまり動かないようにして下さい」

「はい」

 医者が聞いた。

「ところで、この方はどなたですか」

「はい、姉の息子のお友達で、資料を取りに来たところを、うちの犬が噛んでしまいまして」

 森玲子は孝太郎のことを医者には明確には言わなかった。面倒な話になることを避けたのだろうか。

「そうでしたか。お宅の犬はシェパードでしたな。シェパードは忠実な犬だから、飼い主を守ろうとしたんですな」

「最近、うちのマックスは神経質になっているようですの」

「いや、森さんを狙っている輩はたくさんいますからな、これからもマックス君にはしっかりと守ってもらわないといけませんな」

「でも、今回のことはどうぞ、ご内密にお願いいたしますわ」

「いやー、何、大丈夫ですよ。傷もたいしたことはありません。薬さえちゃんと飲めば、治りますから」

「先生、本当にありがとうございます」

「いや、では、どうも。お大事に」

 医者は看護師と共に、大きな黒い鞄を提げて玄関とおぼしき方に向かった。森玲子も医者を見送るために部屋を出た。

 今の会話を聞いて、自分が安静にしないといけないらしいことは、わかった。しかし、そもそも自分は、彼女にとって不審な人物だ。しかも隠し撮りをしていた不逞の輩である。それなのに、ここに留まることは許されないことだ。

 森玲子が戻ってきた。

「森さん、すみません。急に具合が悪くなってしまいまして。朝起きた時は大丈夫だったんですが」

「構いませんのよ。どうぞ、ごゆっくりなさって下さい」

「いえ、これ以上ご迷惑をおかけできませんので、タクシーを呼んでいただけないでしょうか」

「あら、さっきお医者さまが言っていたでしょう。安静になさいって。このまま、お休みになって下さいな」

「いえ、そういう訳にはいきません」

「それより、お薬をお飲みなさい」

 厳しい口調で言われた。孝太郎は、促されるままに、用意された水とともに3種類の薬を飲んだ。すると、再び眠気がやってきて、図らずも再び眠りに入ってしまった。


 目が覚めた時には、もう陽が傾きかけていた。犬の鳴き声がして、薄っすらと目を開けると、ちょうど森玲子がシェパード犬のマックスと散歩に出かける所だった。どのくらい散歩に行っているのだろうとぼんやりと考えた。このまま、この家にいるのは気詰まりだ。

 いくら彼女が飼っている犬による傷が原因で寝込んでいるとはいえ、孝太郎には隠し撮りという負い目がある。出掛けている間に、この家から出ていこう。お世話になりながら黙って去るのは忍びないが、話し合うと朝のように言いくるめられてしまう。そう考えて起き上がろうとしたが、まだ頭がふらふらした。しかし、何とか掛け布団を体から払って、敷き布団の上にしゃがみ込んだ。調子はよくなかった。頭を少し左右に振った。起き上がれるだろうか。

 前を見ると、昨晩、夜中に目を覚ました時に見た本棚が目に入った。孝太郎は這いながら本棚に近づき、昨晩、開いた森玲子の出演映画のファイルを再び手に取った。あらためて見ると、彼女が出演した映画への深い愛情が込められている資料だ。注目したのは、デビュー作のページだ。

 よく読むと映画シーンの解説には脚本だけからは、わからない映画のシーンを詳しく分析した文章が綴られていた。この書き手は、何度も森玲子のデビュー映画を見たからここまで詳細に書けたのだろうか。

 そのデビュー映画は戦前であり、映画公開の期間も限られていたはずだ。このファイルは、戦後の作品も入っているので、作成されたのは戦前ではありえない。しかも、彼女が最後に出演した作品も、同じようなスタイルでまとめられているので、彼女が引退した後に、この書き手は資料を整理したようだ。とすると、疑問が生まれる。

 この書き手は、デビュー作をいつ見たのだろうか。よほど記憶がよくないと、この資料にあるように映画のシーンを分析できるだろうか。きっと、この資料を書くためにデビュー映画を見直したに違いない。とすると、失われたと言われているデビュー映画は、どこかにあるのではないだろうか。

 孝太郎は、さらにそのファイルの他のページを見ると、映画フィルムの有無を表す印の下に、THやSCなどの略記号があるのが目に止まった。この略記号は映画の製作会社と同じようなので、THは東宝を、SCは松竹を表すものと推測できた。専門図書館まで行った甲斐があった。あの時に映画の資料の見方をすこしだけ頭に入れておいた。記号がついている映画は、映画会社がオリジナルフィルムを今も保有していることを表しているようだ。

 中には、オリジナルフィルムが映画会社にも存在しないようで、NFCとあるものもあった。これは読み解ける。古い映画フィルムを収集している機関である、東京国立近代美術館フィルムセンターの略記号だろう。

 略記号の中で、どうしても分からないものがあった。AMだ。AMという映画会社はないはずだ。映画施設としても思い当たらない。略記号は、映画会社や施設などフィルムを保管している所を表しているのだろう。とすると、AMも場所を表しているのではないだろうか。そうであるなら、AMとは何を示しているのか。

 待てよ。AM、場所を示す。そうだ。たとえば空港の表示板には、各空港は略記号で表示される。成田空港ならNRTであり、サンフランシスコ空港ならSFOだ。とすると、AMは・・・。熱海、そのアルファベット、ATAMIから取ったのではないだろうか。

 AMと記された映画は1本だけ。もし地名を表すなら、それは熱海のこの敷地と考えてもいいのではないか。その時、庭からマックスの大きな吠える声が聞こえてきた。予想よりも早く帰って来たようだ。孝太郎は慌てて映画のファイルを本棚に戻し、布団の中に潜り込んだ。

 どうしよう。帰ろうか。それともこのまま、もう1日、この家にいようか。医者は、明日までは安静にしていなさい、と言っていたではないか。それに、確かに気分はすぐれない。今日の朝のように急に気を失うのは、自分でも何だか怖い。

 孝太郎には、もう一つ、気になり始めたことがある。それは、デビュー映画が、もしかしたらこの家の近くにあるかもしれないということだ。まだ、単なる推測だが、何か証拠になるものを見つけられないだろうか。

 森玲子は、犬を玄関近くの囲いに入れてきたようで、その後、縁側から客間を覗いた。

「西村さん。起きていらっしゃいますね」

「あ、はい」

「ぐっすり眠っていらっしゃったので犬の散歩に行ってきましたの。マックスは朝と夕方に1時間ずつ散歩しないと不機嫌になるの」

「散歩されるのは健康的ですね」

「そうですね。どう、具合はいかが」

「はい、朝よりだいぶいいです」

眩暈めまいはどうですか」

 どう答えたものかと迷ったが正直に言った。

「まだ少し頭がふらふらする感じがします」

「お医者さんが言われたように明日までゆっくりなさい」

「いえ、それはいけません。これで失礼します」

 立ち上がろうとしたが、体がふらついて布団の上に手をついてしまった。

「ほら、ごらんなさい。お体の調子はよくないようですわ。やはり、もう1日お休みなさい」

 孝太郎は、そろそろ体は大丈夫だろうと判断していたのだが、医者が言うように体に侵入した菌のせいだろうか、体全体がだるかった。朝の眩暈は体の調子が悪いことを示していたようだ。

「お腹がすいたでしょう。今、お昼ご飯を作りますからお待ち下さい」

「いえ、お構いなく。本当にもう帰りますから」

「あら、お医者さんの言うことを聞かないとだめですよ」

 孝太郎をまるで子どもを扱うようにたしなめた。確かに年齢的には、子どもどころか孫に当たる世代ではあるが、仕事をしている社会人であるし、軽く見られているようで不満だった。

 とはいえ、体調がよくないのは間違いなかったし、いまやデビュー映画のフィルムのことが気になって、素直に言うことを聞くことにした。

「では、お言葉に甘えて、しばらく休ませていただきます」

「お昼は何にしましょうか」

「いや、お構いなく」

「カレーライスはどうですか」

 孝太郎は続けて食事をするのは気が引けたが、確かに今、この家を出る元気はなかった。

「はい、ではいただきます。でも、その後で具合がよくなったら、失礼いたします」

「ええ、様子を見てからになさい。では少しお待ちになってね」

 森玲子は縁側から上がって、客間を出て台所の方に向かった。

布団の中で、映画ファイルのことをしばらく考えていると、森玲子がエプロンをつけたまま、お盆にカレーライスと水の入ったコップを載せて客間に戻って来た。お盆を客間にある木製の大きな和室用のテーブルの上に置いた。

「テーブルで食べられるかしら。起き上がれますか」

 身を起して答えた。

「はい、大丈夫です。テーブルで頂きます」

 孝太郎は布団から出ると、少し眩暈がしたが、テーブルまではほんの2、3歩なので、すぐに、背もたれが付いた座イスに座り込んで、なんとか席に着くことができた。

 森玲子もテーブルの左端に座った。

「いただきます」

 森玲子が作ったカレーライスを一口食べた。病人用ということでだろうか、甘口にしてくれていた。カレーのルーは日本製の家庭用カレーを使っているようだ。孝太郎は家庭用のカレーが大好きだった。その味は、亡くなった母を思い出させる。

「おいしいです」

「あら、よかった。お口に合いましたか」

「とってもおいしいです。森さんは料理がお得意なんですね」

「得意ということはないんですけどね。ただ、料理だとか、お掃除だとか家事は好きなのよ」

「でも、映画に出演されている時は、忙しくて家の用事などできなかったのではないですか」

「そうね、だからたまに時間ができると家事をするのが楽しかったですね。今でも料理をしていると楽しいわ」

「なんだか意外ですね」

「あら、そうかしら」

「ええ、森さんというと本をお読みになっているか、音楽を聞かれているかというイメージがあるのですけど」

「本も、音楽も好きですよ。でも家事はそれ以上に好き。昔、私、家族を支えないといけないことがありましたから」

 孝太郎は、森玲子が映画デビューしたきっかけを本で読んで知っていた。

「お父様の仕事の関係ですよね」

「あら、ご存知なの」

「はい。今回、ここに来る前に森さんの本や資料を読みました」

「若いのに、こんなお婆さんの本など読んでも楽しくないでしょうに」

「いえ、そんなことはありません。映画を見ても、本を読んでも、ぐいぐいと引き込まれてしまいます」

「まあ、お上手を言って」

「いえ、本当です。それで、映画のデビューはやはりご実家のためだったんですね」

「映画のお話はしたくありませんが、そういう面もありましたかね。いずれにしても昔のことですよ」

「森さんは誰かを助ける人なんですね」

「いやだわ、そんなことありませんわ」

「だって、映画界に入ったのは家族を助けるという面もあり、また映画に出演するということは、見る人のためと考えると、人のためですよね」

「それは、ご覧になられる方の自由ではないでしょうか」

「そうかな。森さんの映画を見た人は、感動して活力をもらっていますよ」

「それは、私にはわかりませんわ」

「それに、隠し撮りをしていたボクまで、看病して下さって、森さんは人を助ける方なんですよ」

「それより、カレーライスのお代りはいかがですか」

 森玲子は孝太郎に自分のことを聞かれるのは当然ながら避けたいようだ。

「あ、いえ、もうお腹一杯です」

 孝太郎の方は、森玲子と話していること自体が奇跡であり、こんな幸運が巡ってきていることに感謝していた。

 しかし、森玲子と一緒の空間にいるのだとあらためて思うと、本当は、緊張してカレーライスを味わうどころではなかった。映画ファイルのことを聞きたかったが、勝手にファイルを見たことがわかってしまうので、黙っていた。

「お薬をお飲みになってね」

「はい、飲みます」

 昨日、処方されたカプセル型の薬をケースから取り出して、用意してくれた水と共に飲み込んだ。まだ体調は回復していなかったので、眠気が再び襲ってきた。休ませていただきますと、一言断ってから、再び布団の中に入った。

 だんだん体調は回復してきているが、やはりまだ体がきつかった。高校時代にサッカー部で鍛えて体力に自身はあったのに、いままでにない症状に戸惑った。森玲子が言うように安静にするのがいいのだろう。ゆっくりと目を閉じた。

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