第11章 屋敷
ここはどこだろう。
確か取材のために出かけていたはずだ。なんだか広い部屋にいる。
そうだ、元映画女優の森玲子を写真に撮ろうとしていたのだ。それから犬に追い駆けられ、足を噛まれた。その後、促されるままに、彼女がいる家で、犬に噛まれた傷の治療を受けていた。
そこまでは思い出したがその後の記憶がない。
孝太郎は目を閉じて、とにかく、ここはどこだろうと考えた。森玲子から傷の手当てを受けていた時に、目の前が白くなった。
そうか、俺としたことが、気を失ってしまったのだろうか。自分では意識しなかったが、思いのほか傷口から血が流れ出ていたのか。それで貧血にでもなったのか。
そうだ、足が腫れていた。右足に触れてみたが、まだ、ぱんぱんだ。ただ悪寒は収まっていた。前の晩にあまり眠れなかったことが影響したのか。森玲子の資料を読んでいると引き込まれて、つい寝る時間が遅くなった。睡眠不足もあったかもしれない。
とすると、ここはどこだろう。まさか、森玲子が隠れ住む家だろうか。暗闇に目が慣れて、あらためて部屋を見回すと、手当てを受けていた縁側の奥の座敷のようだ。もっともあの時は、縁側に座っていたので、部屋の様子ははっきりと覚えていなかった。
何時だろう。時計はあるだろうか。枕の上を見たがない。部屋のどこかに時計はないだろうか。しかし暗闇に慣れたとはいえ、まったく知らない部屋だ。時計があるかどうかもわからない。
枕元に何かないかなと、布団から手を出してみると、自分の左腕に腕時計をしたままだった。かすかに蛍光塗料の針が見えた。午前2時だ。何時から眠っていたのだろうか。この家で足の手当てを受けたのが午後3時ごろだからかれこれ11時間も眠っていたのか。
今、起きると森玲子を起こすことになる。朝がくるまでこのまま寝床にいよう。それから、なんとか眠ろうとしたが、たっぷり眠ったので再び眠ることはできなった。
孝太郎は、体を起こして部屋の照明がないか周りを見まわすと、床の間の近くに行灯型の照明があった。布団から出て、這うようにして床の間まで行った。スイッチを探り、黒く細長いボタンを見つけて押した。枕元用の灯りなので部屋を少し照らす程度だが、12畳ぐらいの広い部屋の中の様子がわかった。床の間には水墨画が掛けられていた。その手前には生け花が飾られている。
布団に戻ろうとしたが、忘れていた尿意が催されてきた。さて、トイレはどこだろう。枕元を見ると、メモが置いてあった。お手洗いは部屋を出て突きあたりです、とある。森玲子は、孝太郎が眠っているので起こさないようにしてくれたようだ。
膝を立てて何とか立ち上がった。犬に噛まれた足は腫れていたが、メモに従って足を引き摺りながら手洗いに行った。その後は、勝手がわからない家なので、寝ていた部屋にまた戻った。見ず知らずの自分をよく泊めてくれたものだ。意識がないまま倒れたので、そのまま寝かせてくれたのだろうか。
部屋の中を見回すと、床の間の横に本棚があり、美術や陶芸の全集本などが並べられていた。本棚の下の方に映画の資料ファイルが数冊あった。その中の1冊が気になった。
背表紙にフィルム一覧とある。勝手に見てはいけないと思いながらも、眠れなくて時間を持て余していたので、気になったファイルを手にとった。そこには森玲子が出演した映画の資料があった。第二次世界大戦前の映画から、急に引退したため最後の出演作となった映画までがきれいに整理されていた。彼女が自分でファイルしたのだろうか。よく見るとファイルの最後に、寄贈とあったので、だれか別の人がファイルを作ったようだ。
ファイルを
どうも、丸印はその映画のフィルムが現存しているかどうかを表しているようだ。今回の取材の前に、資料を読んでいて、もったいないと感じたのが、森玲子のデビュー作品も含めて戦前の作品のいくつかが、いまだに発見されていないことだ。
とりわけデビュー作品の「睡蓮の花」は貴重とされていて、戦前にその作品を見た人たちが、森玲子の鮮烈なデビューを、まるで昨日、見た映画のように語る様子が繰り返し、本や雑誌に出ていた。デビュー作品について語られれば語られるほど、神秘性を増していた。
そもそも戦前の映画フィルムは、映画会社に保存するという考えがなかったり、空襲により焼失したりして、行方が分からなくなったものがあった。
森玲子の映画は、ごくたまに失われていたフィルムが発見されたことがニュースになることがあったが、ファンや映画関係者が切望しているデビュー作品は、ついぞ世の中に現れることはないままだった。
ところが、今、手にしている森玲子の出演映画をまとめたファイルの、デビュー作品のページには、フィルムが有る方を示すと推測される丸印がつけられている。
ということは、どこかにデビュー作品があるということなのか。それともこの印は別の意味なのだろうか。
そんなことがあるだろうか。ファイルのページをさらに捲った。ファイルはよくまとめられていた。森玲子の戦後の作品は資料も豊富にあったのだろう、雑誌など関連資料も記録されていた。
孝太郎は布団から出たまま、本棚の前に座り込み、映画ファイルを読み耽っていた。外が白み始め、さすがに眠気がやって来て、ファイルを本棚に戻し、布団の中に戻った。やはり疲れていたのか再び眠りに落ちていった。
2時間ぐらい眠っただろうか、鳥の囀りが聞こえてきて目を覚ました。腕時計を見ると午前7時半だ。布団から起き出してカーテンを開けると朝の光が眩しかった。
昨日、森玲子が水を撒いていた芝生が広がっていた。庭の奥には別棟の大きな家があった。あれが、映画パンフレットで彼女が、「将来は、近くで暮らす」と述べていた姉夫婦の家だろうか。
再びトイレに行きたくなった。客間の引き戸を開けると夜とは勝手が違って、廊下の広さに気がついた。屋敷の奥の方で音がしたが、そちらの方が居間なのだろうか。
まずは、朝のあいさつをした方がよいだろう。廊下に出ると右と左に行けるようになっていたが、音がするのは左の方だ。扉があったのでノックした。
「はい」
森玲子の声がした。
「どうぞ、お入りください」
孝太郎は滑りのよい引き戸を横に引いた。
「おはようございます」
「おはようございます。お目覚めになられたの」
「はい、泊めていただいたようで、すみません」
「それより、具合はいかがかしら」
「はい、よく眠ったおかげで、大丈夫です」
「それはよかったわ」。
「あの、すみません。お手洗いをお借りします」
「あ、この反対の突きあたりの左側よ」
「はい、昨晩はメモをありがとうございます」
「あのメモでわかりましたか」
「ええ、
「では、場所はわかりますね。洗面所にタオルを置いておきましたからお顔もお洗いになって。後でこちらにいらっしゃい」
「はい」
扉を閉めてトイレに向かった。トイレの後、洗面所を見ると、旅行者用の歯ブラシと、髭剃り、それと新しいタオルが洗面台の横に用意されていた。
孝太郎は申し訳ないと恐縮しつつ、ビニールの袋を開けて歯ブラシを出し、歯磨き粉をつけて歯を磨いた。鏡に映った顔は気を失った後だけに、さすがに顔色はよくなかった。口の中をゆすいだ後、髭を剃った。それから顔を洗い、真新しいタオルで顔を拭いた。
その後、さてどうしたものかと考えたが、やはり先ほどの居間に行くしかない。廊下をまっすぐ戻り、再びノックした。
「どうぞ」
顔を覗かせると森玲子は朝食の用意をしている。これは自分のためなのか、それとも彼女自身のためのものかと
「さ、お入りなさい。いま朝ご飯の用意をしますからね」
「あのー、ボクはもうよくなったようですので、失礼申し上げようと思うのですが」
「あら、まだ傷の具合が心配ですわ。昨晩は何もお食べにならなかったでしょ。朝ご飯をお食べなさい」
「でも、昨日は、ちょっと貧血になっただけのようですから、大丈夫です。それに、傷の手当てもしていただき、申し訳ありません。そもそもボクがいけなかったんです」
「でも、西村さんはちゃんとカードを出していただいたのだから、そのお礼でもありますのよ」
孝太郎は、昨日は眠りこんでしまったので夕食を食べてない。そう言えばお腹が空いていた。それに、せっかく用意してもらった朝食を断るのもよくないと考え直して部屋に入った。
そこはゆったりとした居間で、落ち着いた和風の部屋になっていた。濃い茶色の大きなテーブルがあり椅子もテーブルと同じ色で、重厚な造りだ。
「そちらにお掛け下さい」
孝太郎は外が見える方に座った。すでに箸や茶碗、焼き鮭、海苔、ほうれん草のおひたしが用意されていた。
すぐに、味噌汁も出された。森玲子は孝太郎の向かい側に座るようで、その席にも同じように料理が並んでいた。彼女は自分の味噌汁を置いてから椅子に座った。
「さ、お食べ下さい」
こうなったら、いただこう。
「いただきます」
ほうれん草は、ほどよい柔らかさに湯がかれていて甘い味がして、おいしかった。味噌汁は白味噌の薄味で、鰹節でしっかりと
「お口に合うかしら」
「とてもおいしいです」
「昨日はすみませんでした」
「私は、もう何十年も映画から離れていますからね」
「でも、だからこそ、ファンの人は今の森さんを知りたいのではないでしょうか」
「これまでも何度か隠し撮りをされそうになったのですよ」
「あのー、ボクも同じなんですけど」
「あら、でもあなたはSDカードをお出しになったわ」
「正直に言いますと、犬に噛まれて捕まったからです」
「そう、うちのマックスがご迷惑をおかけしました」
「あのシェパードはマックスというんですね」
「普段はおとなしいのですけどね。昨日は生垣を超えたのですね。びっくりなさったでしょう」
「体が凍りついて、一瞬動けませんでした」
「生垣をもっと高くしないといけないわね」
孝太郎は森玲子の声を聞いているだけで、夢を見ているような気持ちになった。まるで、映画から飛び出して立体的になり目の前に現れてきたような感覚だ。
それと、楢崎から彼女の写真を見せられた時に、思い出した母の像が、本人を前にして、再び蘇って来た。森玲子には美しさだけでなく、母性を感じさせる何かがある。
焼き鮭を食べた。ふくよかな厚さで身も柔らかい。母親ってこうだったな、としばし感慨に耽った。そうだ、これは仕事だと気を取り直し、聞いた。
「あのー、泊めていただいた部屋の窓から見えたんですが、庭の奥にもう1軒、家がありますね」
「あー、あの家ですね。あそこが私の姉夫婦の家なんですよ。1年前に姉夫婦の息子が転勤となりましてね。姉夫婦は息子の孫の世話のために、一時的に引っ越しているのです」
「では、森さんは今、お一人でお住まいなんですか」
「そうですよ」
「それなら、管理が大変ではないですか」
「いえ、時々、
「そうですか。それなら家も傷みませんね」
どちらの家も立派な屋敷で、管理が大変だろう。でも、義兄が時折来るなら、こちらの家の方にも手助けがあるのだろうか。
朝食を食べ終わり、編集部の楢崎への連絡をどうしようかと考えた。依頼を受けて13日目になる。撮影は失敗したと報告するしかない。でも、楢崎が心配していた出版社名を森玲子には明かしていないので、楢崎に迷惑をかけることはない。しかし今回の撮影料はないな。
さあ、いよいよこの家を去らないといけない。
立ち上がろうとした。すると、急に体がぞくぞくと寒くなってきた。どうしたのだろうと怪しんでいると、今度は体が震えてきた。これは明らかにおかしい。
孝太郎は朝食のお礼を言った後、すみませんがもう一度休ませて下さい、と断り、昨晩眠っていた部屋まで何とか辿り着いた。そして、布団の上にどっと倒れ込み、そのまま意識を失った。
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