第10章 神社
これはいいぞ、と喜んだ時だ。
突然、大型犬が庭の奥から現れ、2メートルの生垣を飛び越え、孝太郎が隠れていた道に出て来た。
これは何かの間違いではないかと、
その大型犬はシェパードだ。孝太郎を
孝太郎はシェパードを見ながら、じりっじりっとさらに後ずさった。そして、体を
背後からは、犬の足音が迫ってくる。神社の境内までは100メートルはあった。途中、右に曲がり、それから左に曲がると神社の境内が見えてきた。神社に入り込めば、どこか隠れる所があるだろうと期待しながら全力疾走した。
神社の境内に入ったところは林になっていた。そこで、犬に追いつかれた。犬は追うものの急所を知っているのだろう。孝太郎の右足のふくらはぎの下に勢いよく噛みついた。
痛い。
孝太郎は落ち葉が折り重なった地面にどっと倒れ込んだ。手にしていたカメラが落ち葉の中に転がった。犬は噛みついた足を右に左に振り回していた。その度に犬の歯は肉に食い込み、
犬に拳で殴りかかってみたが、体が捩じれていて空を切った。その間も体の大きいシェパードは足を噛んだまま離そうとはしない。
「マックス、離せ」
息を弾ませながら、凛とした女性の声が突然、後ろから聞こえた。
「離せ」
マックスと呼ばれたシェパードはようやく孝太郎の足から突き立てていた歯を抜いた。
足からさらに血が滴ってきた。白いソックスが真っ赤に染まった。
「ごめんなさい。大丈夫ですか」
声の主が、話しかけてきたが、痛みで返事が遅れた。
「ええ、何とか」
その女性は、手にした綱のフックを凶暴なシェパードの首輪の金具に引っかけた。飼い主には従順のようで、綱をつけられる間、はあはあと荒く息をしながらも、おとなしく座っていた。
孝太郎は起き上がろうとした。噛まれた右足を引きずるように折り曲げ、次に左足を折りたたみ、左ひざを起点にして左腕の力で体を持ち上げた。噛まれなかった左足を使って何とか立ち上がろうとしたが、右足にやはり力が入らず、よろめくように倒れ込んでしまった。
「私の肩に
その声の主は孝太郎の左脇にしゃがみ込んで、左手を取った。犬は唸り声を上げていたが、飼い主に従った。
孝太郎があらためて女性を見ると、驚いたことに隠し撮りをしようと狙っていた森玲子だ。息を切らしていたが、しとやかな佇まいだ。緊張して身が縮まる思いがした。
「さ、遠慮なさらずに肩にお掴まりなさい」
「いえ、大丈夫です」
森玲子は、身長こそ日本の女性としては少し高めだが体は細かった。腕も細く、華奢で可憐な女性だ。
「どうぞ、お手を取って」
今度は、素直に森玲子の手を取った。それで何とか起き上がることができた。
「すみません。うちの犬がお怪我をさせてしまって」
「いえ、こちらの方こそすみません」
自分が隠し撮りをしていたことで気が引けてしまって、もう謝ってしまっていた。
「あら、あなたがお謝りになることはありませんわ。うちの犬が追い駆けて噛んだんですから」
なんと、森玲子は孝太郎が単に犬に噛まれたと思いこんでいる。
どうしよう、このまま黙っていようか。そして、このまま帰れば、隠し撮りは成功する。
しかし・・・。
しばらくして答えた。
「いや、ボクが写真を撮っていたのがいけないんです」
「あら、あなたカメラマンなの」
「そうです。ボクは西村と言います。森さんですよね」
「ええ」
「ボクはあなたを隠し撮りしていました」
「まあ、いけない方ね」
「はい、すみません」
「でも、お怪我なさっていらっしゃるのでお手当いたしますわ。歩けますか」
恥ずかしさのあまり、このまま消え入りたい。だが、言われるままに少しだけ足を動かしてみた。
「何とか、歩けそうです」
「それでは、ちょっと距離がありますが、家までいらっしゃい」
孝太郎は、転んだ際の土の汚れをはたきながら、林の中に飛ばされていたカメラを拾い上げた。そして、リュックを片方の肩から外し、ぐるりと正面まで持ってきて、その中に大切なカメラを入れた。
言われるがまま森玲子の後を、右足を引き摺りながら進んだ。神社の境内を出て、つい先ほど犬から逃げてきた道を再び戻っていた。
ようやく判明した森玲子がいる家に連れていかれている。足の痛みもさることながら、何だか、奇妙なことになってしまった。よくわからないが、隠し撮りをしていた自分が、隠し撮りをされていた人の家に行ってもいいものだろうか。
それに折角、チャンスをものにした写真がカメラの中にあるのに、このまま敵地に行くようなものではないか。いっそのこと、反対を向いて逃げてしまおうか。
しかし、森玲子には相手に有無を言わさないような圧倒的な存在感があり、孝太郎は初めからこうなることが分かっていたかのように、犬を連れている彼女の後を、足の痛みをこらえながらついて行った。
大きな門の右横にある通用口の扉を森玲子が開けて、犬に続いて家の敷地に入った。門から家までは少し距離があった。その間には敷石が敷かれていて、引き摺っている足を引っ掛けて転ばないようにゆっくりと歩いた。
「西村さんでしたわね。少しお待ち下さい」
森玲子はシェパード犬と共に玄関の左側に向かった。左側の奥には犬用の広めの囲いがあった。シェパードをその囲いに入れてから戻ってきた。
「お待たせしました」
孝太郎は、戻ってきた森玲子の後についていくと、手入れの行き届いた植木と芝生がある庭に出た。家には縁側があった。写真を撮ろうとした時、彼女は芝生の水撒きのために出てきたばかりだった。犬が急に飛び出したので、窓が開いたままになっている。
森玲子は縁側から家の中に入り、孝太郎に声をかけた。
「こちらにいらっしゃい」
「はい」
「そこに座ってください」
孝太郎が縁側に腰掛けると、森玲子は別の部屋に行き、しばらくして木製の救急箱を持って戻って来た。
足の出血は止まっているようだ。ただ、ジーンズを上げてみないと、よくはわからない。
「足をこちらに上げて」
縁側に座って外に投げ出していた足を、体を右に
「そのおズボンの裾は上がるかしら」
「あ、はい」
孝太郎は気恥ずかしかったがジーンズの右側を膝あたりまで捲り上げた。ふくらはぎにくっきりと犬の歯が食い込んだ跡が残っていた。そこからはまだ固まっていない血がにじんでいる。
森玲子は、救急箱を開けて、紙袋を取りだした。中から脱脂綿を出して、大きく千切った。それに消毒液をたっぷりと浸み込ませ、右足の傷の周りに付いた血を拭き取った。その綿を近くに持ってきていたごみ箱に捨て、それから再び脱脂綿を大きく切って消毒液を含ませた。
「ちょっと、染(し)みますよ」
そう言うと、今度は素早く傷口を脱脂綿で拭き、消毒した。孝太郎はずきっとした痛みを感じたが、伝説の森玲子に傷の手当てをしてもらっていることが信じられなくて、痛さより自分がいまここにいることの不思議さに心が奪われていた。
「痛くないですか」
「あ、はい、大丈夫です。痛くありません」
本当は、消毒液が傷口に浸み込んで、かなり痛かった。犬はその鋭い歯を、ふくらはぎの深くまで差し込んだようで、血を拭き取るとまた新たな血が
「かなり深い傷ね」
「いえ、このくらい、たいしたことありません。大丈夫です」
「私の犬が噛んだのですから、ちゃんとお手当いたします」
「いや、このままでいいです」
「でも傷が深いわ」
孝太郎はあらためて右足を見ると確かに大きな穴が2か所開いていた。森玲子は傷に付ける軟膏を救急箱から出して、人差し指にたっぷりとって、傷口に塗った。今度は特に痛いということはなかった。その上に傷口に合わせたガーゼを置いた。
それから包帯を出した。これは大げさなことになったぞと、気もそぞろとなったが、今は手当てを受けているので神妙にしていた。手際よく孝太郎の足に包帯が巻かれた。
「ありがとうございます」
「はい、これで何とか血は止まると思います」
「あの・・・、先ほど言った通りボクは、その・・・、写真を撮っていたのです」
「写真も取材もお断りしているのよ」
「はい、わかりました。撮影したカードをお渡しします」
孝太郎は、すっかり諦めて、リュックからカメラを取り出し、SDカードの挿入口を開けた。世の中の多くの映画ファンが求めている貴重な画像が入ったSDカードを抜き出して、森玲子にそのまま手渡した。
「ま、正直な方。でもこのカードはお預かりしておきますね」
「済みませんでした」
「もう私は映画からずっと離れているのですよ。撮影はもちろんお断りしています」
「はい、聞いています。でもだからこそ何とか写真を撮りたかったのです」
彼女の方から質問してきた。
「西村さん。どうして、私がここに居ることがわかったの」
しばらく思案してから答えた。
「自分は、フリーのカメラマンで、森さんの映画に興味をもち、それで、森さんのことを調べていたんです」
「それで」
「調べているうちに、森さんが3年前に鎌倉の別荘から引っ越しをされたことを知りました」
「そうね。もう3年になるかしら」
「ええ。そして、その後、森さんがどこにいらっしゃるのか、わからなくっている、ということも」
「そうよ。鎌倉にいた時に、やはり写真を撮ろうとした方がいましてね、そういうことが何度かあったものですから、引っ越したのです」
「ボクは、それでさらに資料を調べたのですが、もしかしたら、森さんのお姉さんの家に移られたのではないかと推測して、今日、初めて来たんです」
「そう、そうなの。でも、写真はお断り。だめよ」
森玲子の口調は厳しかった。
「はい。すみません」
「でも、うちの犬が足を噛んでしまって、ごめんなさいね」
孝太郎は、さらに謝りの言葉を言おうとした時に、噛まれた足に激痛が走った。足を見るとだんだん腫れあがってきていた。そして、体全体に悪寒がはしり、目の前が急に白くなった。
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