第9章 現場

 依頼を受けて12日目。

 心ははやり、熱海にすぐにでも行きたかった。だが、あまり早く着くと、怪しまれる可能性が高い。ここは、ぐっと抑えて、1日の時間が、何となく緩む午後がいいだろう。そう考えて、昼過ぎに現地に着くように予定を立てた。


 午前中、熱海に行く前に、楢崎に電話した。

「楢崎さん。西村です」

「あ、孝ちゃん。どう。はかどってる?」

「写真撮影はまだですが、森玲子の引っ越し先の候補を、1か所見つけました」

「そうなの。それはすごいね。それで、どこなの」

「まだ、確定ではないですよ。だから、外れるかもしれません」

「うん。外れた場合は、それはそれでいいよ。また、探せばいい。で、どこ」

 なかなか、おおらかな応対だ。やはり楢崎は、この企画をだめもとで考ええている。

「熱海ではないかと」

 一瞬、間があった。

「そうか。熱海か。そうだな、熱海、熱海。そうだな、あそこならいるかもしれない」

 孝太郎がいぶかしがっていると楢崎が言葉を続けた。

「孝ちゃんも見たでしょ。森玲子出演の映画で代表作」

「はい。ボクも見ましたよ」

「あの映画でさ、熱海でのロケ・シーンがあるんだよ」

「そうでした。ありました」

「だからさ、今、孝ちゃんから熱海と聞いて、なにか、ピーンと来たんだ」

 まったく、楢崎は調子がいい。そんなことで森玲子がいるところが確定するなら苦労はないだろう。映画のロケと引っ越し先とは関係ないのでは、と思ったが言わなかった。

 むしろ、熱海にいる確率は上がるかもしれないと、よい方に考えた。

「そうですね。かつて森玲子は熱海に撮影で来ているということですよね」

「そうだよ。だからさ、引っ越し先としては、馴染みがあるよな」

「そうですね。そうだったらいいんですけどね」

「なんだ、孝ちゃん。弱気だね」

「いや、まだ確信が持てなくて」

「大丈夫。孝ちゃんならできるよ」

 人をおだてるのは上手いんだよな。

「ま、当たってみます」

「砕けないでよ」

「わかりました」

 調子のいい、楢崎との電話を終え、いよいよ出発することにした。楢崎からは事前に必要経費としてお金を預かっている。新幹線で行くことにした。

 孝太郎の住む市川市は、東京駅まで近い。今回は、本八幡駅ではなくて、総武線快速が停車する市川駅を使った。市川駅から東京駅までは、わずか17分だ。東京駅で、新幹線に乗り継ぐ。東京から熱海までは新幹線のひかりだと、36分。電車に乗っているだけなら1時間を切る。孝太郎は、新幹線に乗り込み、車内では楢崎から渡された資料にもう一度目を通した。


 熱海には4、5回行っていたが、忘年会で温泉に入ることが目的であったり、美術館を見たりで、観光地以外はあまり知らなかった。

 熱海は何といっても温泉だろう。熱海に詳しい人に連れられて、海の近くでお湯が噴き出している、走り湯を見た。海岸の近くまで迫っている崖に、横穴式の洞窟があり、5メートルぐらい中に入っていく。入り口からは、蒸気がもうもうと吐き出されていて、足を一歩踏み入れると、熱いと感じる。これは自然のサウナだなと思いながら、先に進むと、洞窟の奥の方で、ごうごうと音を立てながら、熱そうな湯が勢いよく湧き出ていた。

 そこを見た時、この、湯の勢いこそが、熱海が人を惹きつける源なんだと、すとんと、納得した。

 それと、熱海の人気の高さには、交通の便のよさが、大きく貢献しているだろう。かつては東海道線が通ることになったことで熱海が注目された。さらに利便性が高まったのは新幹線が停まる駅になったことで、東からも、西からも観光客が来るのに極めて便利になった。勤めていた会社の忘年会の時も、東京駅まで行き、新幹線に乗れば、東京の郊外に行くより早く着いた。

 これなら新幹線で通勤すれば東京の会社に通えるね、などと同僚と話していた。そして、その後、本当に熱海に家を買って、新幹線通勤する年配の人がいることを知った。

 会社側もおおらかで、新幹線定期を認めていた。朝夕のラッシュと関係なく、都心の満員電車に揺られることもなく、ゆったりしたシートに座り、なんとも優雅な通勤をする人がいたのだ。

 熱海には、温泉があり、海を見渡せ、沖合には初島が、天気がよければ、遠くに伊豆大島も展望できる。都会や普段の生活に疲れた人々の心を和らげる魅力がある。

 そうだ。ゴルフ場も立派なものがあり、確か、一度プレーしたところは、山の上の方で、コースに出ると、雄大なる富士山が見えた。その絶景を背景にしてゴルフができるのだから、スコアが悪くても十分に楽しむことができた。


 孝太郎は、熱海のことから頭を切り替えて、再び、用意してきた地図を見た。鎌田の家は高台にあるようだ。頼まれた仕事が隠し撮りだから、周りの建物や施設などを頭にたたきこんでおこう。いざという時に、役立つかもしれない。

 資料を見ながら新幹線の中で森玲子をあらためて頭に思い浮かべていると、ほどなくして熱海に着いた。駅から出ると東京より気温が2、3度は暖かく感じた。木々の緑も若葉から夏に向けての濃い緑色に変わろうとしていた。

 熱海駅からはタクシーで鎌田の家の近くにある神社まで行った。孝太郎は神社の鳥居の前でタクシーを降り、コピーしてきた地図を元に神社の裏側の方に向かって歩いた。

 持ち物は中型のリュックサック一つにまとめてある。念のため1泊できる用意はしてきたが最小限のものしか持って来なかった。あまり大きい鞄だと近所の人に怪しまれてしまう。

 周りはとても静かな住宅街で、それぞれ、敷地は300坪を越えているだろう。そこには立派な屋敷が集まっていた。しばらく歩くと鎌田の家が見つかった。その辺りで一際広い敷地で、木造の大きな門があった。

 孝太郎はしばらく門構えの立派さを眺めていた。ここも、鎌倉の別荘と同じ造りの数寄屋門だ。その堅実な門構えの内側には人目を遮る植え込みがあった。その先に屋敷の玄関があるようだ。

 熱海に来る前に、鎌田について調べた。わかったのが、森玲子の姉夫婦は確かに、この熱海の家で暮らしていたのだが、今は、家を空けているということだ。鎌田夫婦には息子が一人いて、熱海で一緒に住んでいた。だが、その息子が、仕事の関係で名古屋市に異動になったらしい。鎌田夫婦は息子の子ども、つまり孫の面倒を見るために、今は名古屋の息子夫婦と同居していると資料には書かれていた。

 少しばかり不安になったのだが、森玲子が鎌倉から引っ越したのは、3年前なので、その時点では、姉夫婦は熱海の家に住んでいた。だから、彼女が引っ越し先として頼ったのは、やはり、ここ、熱海の家ではないだろうか。映画のパンフレットに載っていたインタビューでの発言を信じれば、やはりここにいる可能性が高い。

 鎌田夫婦は、今は、この家に住んでいないはずだが、門を見る限り、人が住んでいる気配があった。表札は、当然であるが、姉夫婦の姓である鎌田とだけ書かれていた。屋敷は通りの角にあり、門に向かって右側には、丘に上る細い道があった。まず、屋敷の周りを歩いてみた。

 門のある正面側の壁には大谷石を使っていた。下の方には薄く苔が生えていて年数を経ているのがわかった。大谷石の石垣が途切れ、敷地沿いの道を左に曲がると、塀は生垣になっていた。使っている植物は、紅かなめもちで、高さは約2メートルあたりで切り揃えられていた。通りから覗くことは難しかったが、この5月下旬は紅かなめもちの若葉が出揃う頃で、注意深く探すと剪定せんてい前の葉と葉の間から、庭を少しだけ覗くことができた。

 孝太郎は、人通りがないことを確認して、生け垣の隙間からほんの少しだけ見える敷地の中を見た。広い庭だ。芝生が張られていて、きれいに手入れされていた。さらに歩いて、そのまま通り過ぎるような素振りをしながら、もし森玲子がいた場合、写真を撮るとしたら、どこがいいだろうかとポイントを探った。

 時々、歩みを止めて注意深く見分けていくと、カメラを構えて、中の庭を何とか見ることができるところが、2か所あった。いったん生け垣の道を通り過ぎてから、くるりと向きを変え、いま来た道を戻った。先ほど、あたりをつけた写真を撮るのによさそうなポイントのうち、門に近い方にしようと、撮影場所を決めた。

 森玲子が、この家にいるかどうかわからない。それに、仮にいたとしても、なかなか外には出てこないだろう。ここは、長期戦になることも覚悟しよう。

 まだ、締め切りまでは時間がある。もし今日がだめなら、1泊して明日、再び挑戦しよう。そうだ、ここは温泉地だし、宿はまだ取っていないけど、適当なところを見つければ、お湯につかり、ゆったりできる。

 そう、のんびりしたことを考えながら、赤い葉と葉の間から庭を再びのぞいた。すると、予想に反して年配の女性がちょうど、縁側から出て来るところだった。遠いから顔は、はっきりと分からない。

 孝太郎はあわててリュックを道路脇に置き、中からカメラを引っ張り出し、300ミリの望遠レンズをつけた。リュックを担ぎ直した後、ファインダーを覗いて顔を確認すると、映画で見た、あの顔立ちだ。

 やった。

 おそらく、あの人に違いない。調べた通り、やはりここに住んでいた。自分の推測が当たった喜びに浸る間もなく、観察を続けた。

 森玲子と思われる人は、庭の手入れを自分でしているのだろうか、広々とした芝生にホースでゆっくりと水を撒き始めた。その日は、陽の光が柔らかく、薄いピンクのシャツに、白地のデニムを穿いた女優が、緑の芝生の舞台に照明を浴びて現れたかのようだ。夢中でシャッターを押した。

 ファインダー越しに再度確認したが、やはり、あの人だ。

 1枚、2枚、3枚。落ち着いた、気持ちのよさそうな表情のショットを、次々と撮ることができた。長く待つことを覚悟していただけに拍子抜けした気分だ。

 青空の下、太陽光を浴びながら水しぶきを上げ、青々とした芝生に水を撒く森玲子。その姿は、まるで映画のワンシーンのようだった。

 撮影しながら、シャッター音に気付かれないだろうかと心配した。連射のショットも入れて、50カットは撮れた。雑誌で使うのは1枚、多くても3枚だろう。もうこれで十分だと判断した。

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