第7章 資料

 楢崎から依頼を受けて7日目。

 1週間が早くも経った。最初の予定では、この1週間で森玲子の居場所を判明させるつもりだった。そして、2週目からは、資料を読み解くことにしていた。

 引き続き、資料を読みこなしていたが、まだまだ、読み込むべき資料が少ないと感じる。しかも、肝心の居場所に繋がる手掛かりをまだつかんでいない。

 楢崎から資料を渡された時は、こんなにも数があるのかと驚いていたのだが、ここにきて情報が足りないのではと感じる。ここは、集める資料の範囲を広げてみよう。明日は、気になる資料を集めることに時間を使おう。


 依頼を受けて8日目。

 孝太郎が住む千葉県市川市の中央図書館に出向いた。広々とした図書館で、開架式の書棚は、1階フロアだけを使って書籍類を収容していた。多くの図書館が、開架書棚は2階、3階と複数階を使って収容しているのに、敷地を広く取った図書館のため解放感がある空間となっている。

 コンピュータの検索システムを使って、森玲子の文献をピックアップしていく。10冊を超える書籍が見つかったが、そのうち、今回の取材に役立ちそうなもの5冊を選んで貸し出した。


 楢崎からも言われていた森玲子の映画については、まず出演映画の資料を文献で探してから、現在、見ることが出来るDⅤD作品を探した。

 調べてわかったことだが、彼女の出演映画は、100本あまりあるのだが、楢崎から聞いていたように、戦前の映画のうち、フィルムが失われているものが10本以上もある。そのことにあらためて驚いた。

 森玲子ほど有名な女優が出ている作品なのに、なぜこの世から消えるという事態になるのだろう。そのことを調べてみると、当時の映画フィルムの保存性が大きく関わっているようだ。

 初期の映画フィルムは、ニトロセルロースという材質が用いられていたのだが、ニトロセルロースは、火に弱く、肝心の保管庫で火災も起きている。

 ニトロセルロースに代わる素材として、アセテート系プラスチックがフィルム素材として使われたのだが、この材質には別の問題があった。劣化すると酢酸を発散し、フィルムが収縮してしまう問題をはらんでいた。この現象はビネガー・シンドロームと呼ばれるのだが、フィルムの素材から酢が出てきてしまい保存の脅威となる。

 さらに、当時は、時代背景として映画フィルムを保存するという意識というか概念があまりなかったようだ。映画会社によっては、技術改良で音声付きの映画、トーキー映画が主流になると、サイレント映画にはもう商業的価値がないと、フィルムを廃棄したところもあった。

 さらに、映画会社が倒産することも多々あって、その場合、経営母体がなくなることによって制作したフィルムが散逸することもあった。

 科学の進歩では、一歩進んだかと思うと、実は二歩後退していることもある。大事なことは、後退したことにへこたれることなく、トライしていくことではあるが、現代から見ると文化財である初期映画の多くが失われている。その映画を見た人の記憶は残るが、失われた作品自体は、永遠に戻ってこない。

 森玲子の映画で、多くのファンが惜しんでいるのが、鮮烈だったと言われるデビュー作品だ。孝太郎が目を奪われたスチール写真の映画だ。

 タイトルは「睡蓮の花」。

 戦前の作品で、やはりフィルムが見つかっていない。いまだに探している人がいるらしいことが、雑誌の記事で紹介されていた。孝太郎は、失われた作品を、見てみたいという希望もあるが、当面は、この撮影の仕事こなすための基礎知識として、現在、世の中で流通している作品を見ておくことが大事だと、考えていた。

 だが、レンタルできるDVDは、地元の市川では数に限りがある。そこで、品揃えが豊富な、渋谷のツタヤに行くことにした。渋谷のツタヤは、やはり映画の種類がバラエティーに富んでいた。文献から調べた、森玲子出演の映画のリストをもとに、店内をじっくりと探して、まだ見ていないものを8本ほど、まとめて借りた。

 渋谷からの帰りには、東京駅近くの八重洲ブックセンターに寄って、図書館にはなかった関連の本を探して、3冊購入した。

 その日は、資料集めで日中を使い切った。家に帰り着いた時は、もう夜になっていた。それでも、まず、購入した本をぱらぱらとめくった。図書館で借りた本もページをざっと流して、書いてあるおおまかな内容を見た。

 風呂に入った後、帰り道で買ってきた弁当で夕食を済ませてから、レンタルしたDVDで映画を見た。

 映画の中の森玲子は、さらにその美しさが輝いていた。映画としての物語が、今の目から見れば古く感じるものでも、彼女が登場している場面だけは活き活きとしていた。これまでに見た戦前の映画では女優が置物のように画面に配置されているものが多かったが、森玲子は、映画の中で躍動している。

 特に、現在でも名作と評価が高い作品は、映画の質と森玲子の存在が合わさって、鉱山の中から輝く石が産まれ出てきたような映画となっていた。


 依頼を受けて9日目。

 前日にき集めた資料群に取り組んだ。文献類は、時間が限られているので、熟読ではなく、目を通す要領で内容を把握していった。映画の資料なので、写真も多用されていて、読むのも楽しかった。特に森玲子のインタビューは、彼女の人柄をコメントの隙間から読み取れるような気がして興味深く読んでいった。

 この人は、さっぱりしている人だ。細かいことには、あまりこだわらない。引退の判断も、一度決めたら、ぶれることはなかったのだろう。

 夜は、さらに楽しい。美しき森玲子の映画を、仕事を兼ねてみることができるのだ。ある意味、至福の時だ。ただ、仕事の締め切りがなければの話ではあるが。


 依頼を受けて10日目。

 この日も同じように資料を読みこなし、夜は映画を見ることに時間を使った。

 新たに入手した本の中に、評伝にあたる部分があった。その著者によると、森玲子のマネジメントにあたる役割を担っていたのが、義兄である鎌田であると特定していた。しかも、彼女は、鎌田の映画に対する姿勢を高く評価していて、尊敬もしていたようだ。

 そもそも、森家が経済的な危機的状況にあった時に、森玲子を映画界に導いたのが鎌田だった。彼女にとって、鎌田は恩人という位置づけなのだろうか。

 それと、関連の本を読んで感じたのは、本の書き手が、森玲子に囚われているような筆致になっていることだ。それぞれの筆者が、その美しさに出会った時の衝撃について驚きをもって語り、その美しさを誉め称え、さらに、その人柄にも魅せられている。どうも、森玲子には人を虜にする何かがあるようだ。


 10日目にして、一通り、集めた資料には目を通した。映画はあと2本ばかり、まだ見ていなかったが、それは明日以降にしよう。

 孝太郎は、これだけ文献や映画を見てきたが、まだ、引っ越し先に繋がる情報を見つけていない。ここは、さらに詳しい情報が必要ではないか。

 それで思いついたのが、映画と演劇の資料を専門的に収集している民間図書館だ。たしか、東銀座にあるはずだ。調べると、地下鉄の東銀座駅から歩いて行けるところにある。開館は平日のみだ。よし。明日は、この専門図書館を訪ねてみよう。

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