第4章 下調べ

 孝太郎は仕事を引き受けると答えてから、3日をかけて他の仕事をてきぱきと片付けていった。時間の調整をしながら、成果はきちんと出す。

 フリーカメラマンという立場は、締め切りを守ることは、ある意味、鉄則である。だから、他の仕事が入ったからといって、締め切りを延ばすことなどは考えられない。粛々と仕事をこなしていく。

 時間がないからといって、生煮えの、いい加減な仕事をしてしまうと、次からの依頼が来なくなる。時間と仕事の質は、互いに相反することもあるのだが、孝太郎は、それぞれの仕事に区切りをつけて、依頼を受けた案件に集中する時間を確保し、クオリティーを上げるように心掛けていた。

 今、抱えている案件を処理したのも、楢崎から依頼された仕事は、時間がかることを予想したし、集中したいとの思いが強かったからだ。

 なんと言っても、あの写真だ。あのスチール写真。楢崎はデビューの時のものと言っていた。

 森玲子は美し過ぎる。

 あそこまで美しい人がいたのか。ギリシャ神話のアフロディーテだ。オリュンポス12神の中でも一際美しく、最高の美しさとされた女神。森玲子は、現代に現れた女神の光を放っている。

 なるほど、一昔前の世代の人たちが、崇め奉っていたはずだ。同世代あるいは、その次の世代の人たちを虜にしたのも頷ける。

 孝太郎は臨時の仕事であっても、依頼されたテーマについて、撮影の前にはできるだけ綿密に調べるように心がけていた。今回は、締め切りまで、3週間あるとはいえ、あまり調べる時間がない。とはいえ、できるだけのことはしておきたい。仕事として、ルールから逸脱している隠し撮りではあるが、テーマは、森玲子である。調べがいがある。

 まず、楢崎から指示を受けた撮影のスケジュールを大まかに立ててみた。3週間を有効に使わないと撮影にまで漕ぎ着けることができるか不安がある。

 初めの1週間は、といってもすでに他の仕事を終わらせるために3日ほど使ったので実質、4日しかない。その4日間は、何といっても居場所探しに専念しよう。それが見つからないと仕事にならない。

 次の1週間は、資料を頭に入れることに使おう。隠し撮りとなると、チャンスはほんの少ししかないと考えた方がよい。少ないチャンスを生かすためには、なんといっても事前準備が大切だ。

 残りの1週間を撮影に使う。隠し撮りだから、チャンスを待つ必要がある。1日だけでは撮影が終わらない可能性もある。

 場合によっては、3日、4日あるいは1週間ぐらいは、ずっと待機せざるをえないかもしれない。それでも、1週間みておけば何とかなるだろう。

 撮影がうまくいって時間が残れば、その期間を写真の確認や調整のために使おう。相手の了解を取らないで撮影にのぞむのだから、こちらの都合で段取りよく進むことはないだろう。

 それと、撮影に失敗することも織り込んでおこう。たとえ失敗しても、2度、3度と挑戦しよう。それだけの価値はある。


 楢崎から依頼を受けて4日目。

 さて、今どこにいるのだろう。ようやく森玲子探しに集中できる。

スタートの日は、彼女についての概要を頭の中に大まかに取り込むようにした。まずは、楢崎から預かった本に出ている略歴を追った。

 生まれは神奈川県。女学校も含めて、ずっと神奈川県内で過ごしている。実家は呉服商を営んでいたのだが、玲子が女学校に入って間もなく、不景気の影響を受けて家業が傾いた。

 玲子は六人兄弟姉妹の中で次女だったが、姉がすでに嫁いでおり、兄は病弱で仕事には就いていなかった。だから、玲子が苦しくなった森家の家計を支えなければならない立場になってしまう。

 玲子は、高等女学校の2年に上がった時に、とうとう女学校をやめて、働かざるをえなくなった。そこで親戚を頼って仕事を探した。たまたま姉の夫が映画界で仕事をしていて、その紹介で撮影所に入社することになる。玲子は撮影所の近くに住むため、住み慣れた神奈川県を出て、東京都に移る。

 その後、長く東京に住んでいたのだが、40歳で映画界を引退した後、映画出演などで得た収入で、すでに購入していた鎌倉の別荘で暮らすようになる。

 鎌倉での生活も長期になっていた。しかし、楢崎が教えてくれたように、マスコミによる隠し撮りがあり嫌気がさしたのだろうか、鎌倉の別荘を引き払い、どこか別のところに引っ越した。

 その日は、楢崎から預かった資料を読み解くことに使った。資料をざっと見て、これは手掛かりが少ないな、時間がかかるかもしれないと感じた。


 依頼を受けて5日目。

 問題は、どこに引っ越したかだ。ここは、地道に土地の登記から調べていこう。孝太郎はさっそく、そのために1日を使うことにした。

 森玲子の別荘であった住所をもとに調べることにした。鎌倉の土地登記を管轄しているのは、横浜地方法務局の湘南支局だ。法務局では、土地、家、建物、マンションなど不動産所有者の氏名・住所が、備えてある登記簿に記載され一般公開されているらしい。その登記簿を閲覧しよう。自分が住む地域の法務局でも調べられるようだが、やはり、地元に行こう。そして帰りには鎌倉に寄って住んでいたところを見てみよう。

 孝太郎は、法務局が開いている平日を選んで出かけた。横浜地方法務局湘南支局は、東海道線の辻堂駅東口から歩いて5分のところにあった。

 どっしりとした建物で、法務局のイメージに合ってはいる。孝太郎にとっては縁の薄いところである。市役所にいくのも面倒さを感じるのに、法務と聞いただけで、身構えてしまう。あまり足を踏み入れたくない。

 だが、これは仕事だ。登記簿の閲覧ができるコーナーにまず行き、メモに記入してきた別荘の住所をもとに調べようとしたが、登記簿とは、地番をもとに作られているようで、住所ではわからない。

 備え付けられた地図で検索もできるようだが、慣れないことなので、ここは詳しい人、つまり係の人に聞くことにし、窓口に向かった。

「すみません」

「はい、どういったご用件ですか」

「土地について調べたいのですが、用意してきた資料では、住所しかわからないんです」

「地番をお知りなりたいということでよろしいですか」

「そうです。その地番を教えてください」

 20代半ばの、受け応えがしっかりした女性に頼んだ。

 こういう役所に勤めている女性は、対応がしっかりしている。窓口の人だから正式な職員なのか、あるいは1年契約の派遣の人なのか、わからなかったが、一定水準以上の知識を持って仕事に臨んでいるのが、短い対応でも読み取れる。

 しばらく待っていると、係の女性がサクサクと調べて、教えてくれた。

「この住所に該当する、地番はここになります」

 優秀そうなその女性は、閲覧コーナーにあったのと同じ地図を開いて、見せてくれた。

 孝太郎は、さっそくメモを取った。それから、教えてもらった地番をたよりに、土地、建物の謄本を閲覧した。見慣れない資料であったが、なんとか探していた地番を見つけた。ようやく、別荘の土地登記簿を探り当てた。

 あれ、名前が違う。

 森玲子はすでに引っ越しているので、予想はしていたが、登記簿に記載されている人物の名前が違う。

どうしよう。

 名前が違うということは、鎌倉の別荘から引っ越した時に、その土地と建物を売却したのだろうか。法務局の中で思案していてもはじまらないので、とりあえず、この書類のコピーがほしい。調べるのは後だ。

 孝太郎は、書類申請のための案内文書を見つけて、書かれている事項に目を通した。どうやら、登記簿謄本交付申請書なるものに、必要事項を記入してから申請するようだ。

 これまた、不慣れな申請書ではあったが、記入例を見ながら書き込んで、申請書を窓口の係に提出した。

「では、しばらくお待ちください」

 そうだ。役所では、待たされるのだ。久々の公となる手続きをして、役所なるものの雰囲気を感じていた。

出版社での仕事は、かなり自由な環境だった。現在に至っては、フリーの立場だから、基本的に自分で自分をコントロールできる。とはいえ、仕事の内容によっては、さまざま制限があって、堅苦しさを感じることもあるが、今いる、役所、しかも法務局が醸し出している、いかつさとは違う。

仕事として、どちらがどうだとかは言えないだろうけど、会社組織から独立した孝太郎としては、役所よりも出版社の方が馴染む。

 やがて、窓口から呼ばれた。

「こちらが、申請された登記事項証明書です」

 さきほどの仕事ができそうな女性だ。

「ありがとうございます」

 なんと、申請した書類を、丁寧に法務局の封筒に入れてくれた。当たり前のことなのかもしれないけれど、お役所はお堅い、というイメージが強かったが、少しだけ緩んだ。


 孝太郎は、やはり解放されるような気分で、法務局の建物を出た。辻堂駅に着いて、次の上り電車の時間を見た。後、5分ほどある。大船駅で東海道線から横須賀線に乗り換えればよい。法務局での下調べが早く終わったので、鎌倉では少し時間がありそうだ。

 さてと、これから、かつて森玲子が住んでいた別荘を見に行こう。

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