第3章 場所
孝太郎は、一度、仕事を受けると決めたからには、頭の中でスケジュールを組み立てておきたくなった。
「で、締め切りはいつですか」
「うん、いつもと違ってね、時間はあるんだ。夏休み用の企画ものだからね。3週間後でいいよ」
こんなに締め切りが遅いのは珍しかった。それでも、その女優について、ほとんど知らないことだらけなので、まず、森玲子を調べないといけない。だから、遅い締め切りはありがたい。
「楢崎さん、3週間いただけるなら、今手掛けている仕事を片付けてから、取り組んでもいいですか」
「いいよ。でも、それにどのくらいかかるの」
しばらく思案した。今の仕事を、それはそれとして大事にしたい。
「そうですね。3日ほどいただいてもいいですか。その後に、この仕事に取りかかります」
楢崎は、もっと長くかかるのかと予想していたのか、ほっとしたような顔をした。
「うん。それでいいよ」
気になっていたことを聞いた。
「それと、取材場所はどこですか」
「孝ちゃん、いい質問だね」
「というと」
楢崎は、さも楽しげに言った。
「実はね、それが、今はわからないんだ」
「え、わからないって、それじゃあ、どこに行ったらいいか困るじゃないですか」
楢崎は、体を孝太郎の方にさらに近づけた。
「孝ちゃん。手掛かりはあるんだ。さっき、ライバル誌が隠し撮りをしようとしたと言ったろ」
「はい」
「その時、彼女は鎌倉に住んでいた。ところが、マスコミの隠し撮りがあったもんだから、隠れるように引っ越しをしたんだ」
「どこに、ですか」
「それがわかれば苦労しないよ」
楢崎は当たり前だろ、みたいに答えた。
「いや、楢崎さん。それじゃあ、隠し撮りも何よりも、行先がわからないじゃないですか。それでは、こちらも、どうしようもないです」
せっかくこの撮影を引き受けようと決めたのに、これではやりようがない。
楢崎は、今度は、にじり寄ってきた。
「孝ちゃんさ、確か大学では歴史を学んでたよね」
いきなり、何なんだ。大学の勉強なんて関係ないだろう。
「はい。日本史をやっていましたけど。何か関係ありますか」
楢崎は、さらに嬉しそうな顔をして言葉を繋いだ。
「それが大ありなんだな」
孝太郎は、まったく訳がわからず、言葉も出ないままでいた。
「歴史をやっていたということは、文献や資料を読み解く力があるわけじゃない」
「そうとも言えるし、そうでないとも言えますよ」
そもそも、大学で歴史を学ぶのと、森玲子の住んでいるところを突き止めるのとは、あまりというか、ほとんど関係ないではないか。
「いや、ここはね、孝ちゃんの、埋もれた資料を発掘する力も借りたいんだ」
半ば呆れて、楢崎を見た。
「埋もれた資料と言われても・・・」
楢崎は、自分の脇に置いていた、先ほどの資料よりも、ずっと分厚いファイルの束、二つ分を孝太郎の前に、どんと置いた。
「これが、うちの資料室から借りた関連資料。一応、必要になりそうなものを選んでおいた」
さらに、本もテーブルに置いた。
「それと、これも資料室にあったんだけど、今回の案件に役立ちそうな本2冊ね」
見ようか見まいか、ためらったが、古い資料には、なぜか引き寄せられてしまう。思わず、古い紙の匂いが漂うファイルの方を開いた。
しばらく、無言のまま、新聞の切り抜きや、雑誌のインタビューのページなどを、丁寧にめくっていた。先ほどのスチール写真とは違う、戦後の映画の資料も多く入っていた。あらためて、森玲子が世間から注目を浴びていたことが、それこそ、手に取るように理解できた。
「孝ちゃん。この中の資料を読むとわかるけど、森玲子は、鎌倉からさほど離れていないところにいる気がする」
「どうしてですか」
「彼女の活動範囲というのかな。大体が出身の神奈川県の近くなんだ。だから、隠し撮りされたからといって、いきなり東北や九州に移り住むということはないんじゃないかな」
孝太郎は、楢崎の顔を
「楢崎さん。そこまで推測されているなら、ご自分で、あるいは編集部の誰かに調べさせたらいいじゃないですか」
珍しく、楢崎が不満そうな顔をした。
「孝ちゃん。この仕事はね、いまのところ内密なの。おおっぴらにできないわけ。だから、孝ちゃんに頼みたいんだ」
楢崎は、人に頼むのがうまい。だから、取材者の立場から社内でのポジションが上がって、中間管理職をしているのだろう。
取材の現場を離れ、本人の気持ちが、それで満たされているかどうかは、わからない。だけど、雑誌を作っていくためには、部下や外部スタッフも含めて、人を動かしていかなければならない。
孝太郎も会社勤めしていた時は、雑誌作りに携わっていたから、楢崎の立場は、それなりに理解できる。ライターやカメラマンの力、それにそれらを束ねる編集者の腕前が、その雑誌の活力を生み出していく。
でも、それにしても、取材場所が判明していない仕事とは、困ったものだ。ただ、ものを調べるという点は、心に何か引っかかった。
「では、楢崎さん、一度、居場所を調べてみます。だけど、わからなかった場合は、当然、この仕事はお受けできません。それでいいですか」
「もちろん。それでいいよ」
楢崎は、よかった、というような表情をしている。
この仕事は、だめもとで企画したアイデアなのだろうか。当たれば大きいが、外れれば、はい、それまで。
夏の企画の目玉になるのだろうが、それは、隠し撮りに成功した場合だけだ。失敗した場合のことを想定すると、外部の人間に仕事を依頼する方が、傷口は浅いか。
一つ、確認したかった。
「ところで、仮に、居場所がわかった場合ですけど、取材に行く時は、楢崎さんも一緒ですよね」
楢崎は、即座に答えた。
「いやー、孝ちゃん一人で頼むよ」
楢崎は隠し撮りが見つかった場合のことを考えているな、責任は孝太郎のことにして、出版社名が出ないようにしようとの腹積もりだろう。
それなら、それでいいか。
「見つかっても出版社名は出さないようにしますよ」
楢崎は、微かにほほ笑んだ。フリーカメラマンは編集者の立場も大事にしなくてはいけない。しようがないか。
「悪いね。じゃあ、そういうことで」
楢崎は、当面の経費として10万円を渡してくれた。交通費や宿泊代などの実費用ということだ。日頃は、事前に仮出金など用意しないのに、準備がよすぎる。この企画は、ずいぶん前から温めていたのではないかと勘ぐった。
「ありがとうございます。当面の費用にします」
「それと、写真の方は、成功報酬ということになるけど、いいかな」
「はい、それで結構です」
ま、仕方ないだろう。この点が、社員として雇われていた時と大きく違う待遇だ。
楢崎がさらに続けた。
「あ、それと、孝ちゃん、森玲子の映画もいくつか見ておいてね」
「はい」
「ただ、戦前の作品には、今はもうないものもあるからね」
「え、そうなんですか。それほど有名な女優なのに、ない作品もあるんですか」
「そうなんだよ」
戦前の作品とはいえ、映画自体がなくなっていることが信じられなかった。
「もったいないですね」
「彼女のファンの人たちは、失われたフィルムを今でも探しているらしいよ」
「そうなんですね」
孝太郎は楢崎との打ち合わせを終えて、初夏の街に出た。
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