第2章 写真

 孝太郎は楢崎に促されて、部屋の奥にある狭い打ち合わせスペースに行った。四人が何とか座れる小さな応接セットが置いてあった。いつものことなので勝手に座った。

 楢崎は40歳を超えて、自らが取材することは減り、若手の部員やフリーの人間を使うことが多くなっていた。中間管理職の仕事に徐々に切り替わり、上からは成果を求められる立場のようだ。

 だから、アンテナを張って何か大きな企画がないか、常に探していた。酒を飲むことも多く、中年太りの典型のようにお腹がたっぷりと出ていた。声が大きく、編集室の中によく響く。

 楢崎は、孝太郎が先に座っていた安物のソファの向かい側に、重そうな体を窮屈そうに沈めた。

「孝ちゃん、最近はどうなの」

「相変わらずですよ。テニスの写真が中心ですけどね」

「忙しいの」

「今は一服っていうところですね」


 孝太郎は、フリーのカメラマンとしては、スポーツの取材からスタートした。それまでの経験でスポーツ写真の需要の多さを実感したことがまずあった。それと、自分がスポーツ好きであることも、すんなりとスポーツ写真の世界に入っていくきっかけとなった。

 スポーツの世界は広い。競技も多くの種類がある。舞台は日本だけではない。世界各地で注目すべきスポーツイベントが開かれている。

その中で、選んだのはテニスだ。時々、なぜテニスなんだろうと思うこともある。

高校、大学とサッカーをしていた。高校時代は、背が高いことをいかして学校のサッカー部でキーパーを務めていた。

 練習はきつかった。特に走り込みはたくさんさせられた。サッカーは野球と違って、試合中の運動量が格段に多い。選手の交代はあるが、基本的には試合時間中、ずっと機敏に動ける体力が必須だ。

 高校は、進学校だったこともあり、どの運動部も強くはなかった。サッカー部も市内大会で、ベスト8に入ればいい方で、1回戦で敗退することが多かった。

大学時代は、体育会は避けた。高校時代に、ある程度、運動部で時間を使ったからだろうか、もっと自分の時間がほしいと考えた。だから、サッカー同好会を選んだのだが、ワールドカップや、日本代表の試合などは、やはり気持ちが熱くなる。

 そんな自分がどうしてテニスなんだろう。おそらく、テニスは基本的に個人の戦いだからかもしれない。

 サッカーや野球は、団体競技であるが、テニスは、デビスカップのような国別対抗戦もあるにはあるが、基本的には個人戦だ。ダブルスにしても個人二人分だ。

 その個人と個人との戦いで見せる、選手の姿は、その一瞬が美しい。

 真剣さの度合いが、より深いと感じた。そこに魅せられている。カメラマンとして、彼ら、彼女らの卓越したプレーを、自分のカメラで捉える。こちらも真剣勝負だ。

 ただ、いつもスポーツ写真の依頼があるわけではない。フリーの仕事だと、どうしても仕事量の波がある。出版社で働いている時から、人脈はできていたが、まだまだ駆け出しである。依頼された仕事は断ってはならないと思い定めていた。

 テニスは世界的には、ウインブルドン、全米、全豪、全仏の4大大会を軸に動いている。孝太郎はウインブルドンを必ず取材していたが、楢崎から声をかけられた時期は、ちょうどスケジュールが空いていた。


「それならね、孝ちゃんに頼みたい撮影があるんだけど」

「え、何ですか」

 楢崎が持ちかけたのは企画ものだ。30年前に引退した映画女優の今をスクープ撮影するというものだ。

「うまくいけばね、引退後初の撮影になるの」

「本当ですか」


 ターゲットは森玲子。孝太郎はその女優の映画を何本か見ただけで、詳しくは知らなかった。楢崎によると、第二次世界大戦前に15歳でデビューし、日本人離れしたギリシャ彫刻のような美貌で注目を集め、一躍、人気女優になった。

 少女役として、いきなり主演女優に抜擢され人気が急上昇。その後も主演としての映画出演が続いて、日本映画界を代表する映画女優として活躍したとのことだ。

 ところが、40歳を過ぎた時に、突然、映画界を去り、その後は公の場に姿を現さないために、幻の女優と言われている。

 しかも結婚することなく、それどころかデビューから引退まで、恋愛関係の話はなく、清純なイメージだけを刻んで映画界からいなくなった。当時の映画ファンには強烈に偶像が焼き付いたままの存在らしい。


 孝太郎の興味を惹いたのは、引退してからの写真撮影は初めてとなるという点だ。しかし、自分はフリーのカメラマンで、主にテニス選手を撮影してきてスポーツが専門だ。それなのに、引退した女優とはいえ、芸能の仕事が回ってくるなんて、なぜだろうといぶかししがった。

「楢崎さん、なぜボクなんですか」

「孝ちゃん、足早かったよね」

「ええ、まあ、そこそこですけどね」

 孝太郎は高校時代サッカー部に入っていたが、陸上部の顧問から、市内の陸上大会に駆り出されて、100メートル走で8位に入賞したことがあった。決勝まで、いくにはいったのだが、8位というのはつまり決勝では最下位ということだ。

「そこなんだよ。その足をね、生かしてほしいわけ」

 楢崎はなぜ、足にこだわるのだろう。

「でも、もう、しばらく走っていませんよ」

「でもさ、いざという時にやっぱり早いでしょ」

「どうかな」

 楢崎は、声のトーンを下げて言った。

「今度の企画はさ、実は隠し撮りなんだよ」

 楢崎はいたずらをする時の子どものような表情をみせた。

「え、取材を申し込んでいるんじゃないんですか」

「それがさ、引退以来、一切の取材を拒否しているんだ」

「でも、楢崎さんのとこは大手なんだから、正面から申し込めば突破できるでしょ」

「それが、どうしても駄目だったのよ」

 楢崎の表情からすると、どうも本当のことらしい。

「でも隠し撮りというのは、ちょっと・・・。それにボクはやったことないですよ」

 仕事をなるべく断らないようにしているのだが、この依頼は通常の仕事とは違う。戸惑いを隠しきれなかった。

「孝ちゃんはテニスとかで望遠であんなに迫力のある写真を撮るんだからさ」

「まあ、被写体がそこで全力プレーしていますからね」

「それでね、今度の対象をさ、遠くでプレーするテニス選手と想像してくれればいいんだよ」

「相手は引退した元女優でしょ。逃げるわけでもないから、他の雑誌がもう撮影しているんじゃないですか」

「それがさ、元女優側もガードが固くて、これまで何誌もトライして、みんな失敗しているわけよ」

「しかし、元女優の撮影と足の速さとは、関係あるんですか」

 ここぞとばかりに、楢崎が身を乗り出した。

「それが、大ありってわけ」

「どうしてですか」

「実は、ライバル誌がさ、5年前にやはり隠し撮りをしたんだよ」

「え、じゃあ、やっぱり初めてじゃないじゃないですか」

 今回が初めてというので少し興味が湧いてきていたのに、先を越されているならやる必要がないではないか。

「まあ、聞けよ。撮るには撮ったんだけど、家の人に見つかってしまってさ。逃げようとしたけど、捕まったんだ」

「それで、どうなったんですか」

「それからね、隠し撮りを企画した出版社に、映画会社からも抗議が来て、その出版社は元女優のところはもちろん出入り禁止、その上に映画会社に誓約書まで書かされて大変なことになったんだ」

「楢崎さん。もし見つかった場合に、走って逃げ切れるように、ボクに頼むということですか」

「分かりやすく言うとだね、まあ、そういうこと」

まったく、あきれた内容だ。

「ひどいな。それじゃ、まるで見つかることを前提にしているじゃないですか」

「いや、万が一のためだよ。それに、孝ちゃんのためでもあるんだよ」

 そもそも隠し撮りということで気乗りしなかった。その大女優というのも孝太郎は代表作と言われる数本の主演映画を見たことはあるが、そこまで大騒ぎするほどの大スターだということが、いま一つぴんと来なかった。自分たちの世代では、もう過去の映画女優の一人という感じだ。

「楢崎さん、ボクのためとは」

「孝ちゃん、最近、テニスばかりでしょ。そろそろ、幅を広げた方がいいんじゃない」

 楢崎が本気でそう思っているか怪しかったが、孝太郎としても臨時の仕事はなるべくこなすようにしていた。

 それも、スポーツ以外の仕事は、楢崎が言うように仕事の枠を広げることに繋がる。それは確かにそうだ。そもそも依頼があれば、基本的に受けて立つ。それがフリーカメラマンの立場だと心得ていた。

「でも、隠し撮りは、ちょっと・・・」

 楢崎はおもむろに森玲子の資料をテーブルに広げた。映画用の宣伝写真もあれば、新聞や週刊誌、あるいは月刊誌のインタビュー記事などもある。出版社の資料室から主なものを集めていたようだ。ここは大手の出版社だから、しっかりした組織となっていて、資料部も優秀なスタッフがいるのだろう。

 孝太郎は、楢崎が示した資料の中で、1枚のスチール写真に目が吸い寄せられた。

 美しい。

 その写真は、若い時の写真のようで、可憐で、それでいて、りんとしている。高貴な雰囲気を漂わせている。

「楢崎さん、この写真は・・・」

「あ、それね。森玲子がデビューした映画のスチール写真」

 そのスチール写真を手に取って、さらにつぶさに見た。

 母に似ている。もちろん、ここまで美しくはないが、この写真には、孝太郎の母の面影があった。

 孝太郎は10歳の時、母を病気で亡くしていた。母の闘病期間は短く、病気がわかってから三月みつきもしないでこの世を去っていった。残された父は、その後、再婚することもなく、自分と弟の二人兄弟を育ててくれた。

 父には感謝している。でも、母がいない寂しさは心の奥に、しこりのようにずっと残っていた。

「わかりました。引き受けます」

 思わず返事をしていた。

「いやー、孝ちゃんありがとう。やってくれると期待していたんだ」

 楢崎は、また、調子のいいことを言った。こういう仕事は一番気をつけないといけない。だが、この美しい女性を一目でも見ることができるなら、この仕事を受ける価値はある。

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