第25話 夜の散歩②
クォンタムの声にこちらを振り向いたマリリアート様は、俺に目を止めると少しだけ気まずそうな笑みを浮かべた。その、まるでいたずらを見つかった幼子のような笑顔に、思わず吹き出しそうになる。
いかんいかん。笑ってる場合ではない。
笑ってる場合じゃないけど、――――ああ、くそっ。かわいいな。
俺は、決して
胸の奥引き絞られるように痛かった。同時に心臓が忙しく騒ぐのを無視して、彼女の前で跪いた。
「マリリアート様、どうしてこんなところに?」
そう問いながらクォンタムをちらりと見るが、黒眼鏡で俺の視線がわからないらしい。「クォンちゃん、見つかっちゃったね」と言うマリリアート様に撫でられながら、彼は機嫌よさげにもうい一度しっぽを振った。
いや。これは多分、気づいているけど無視してるんだな。よっぽどマリリアート様に撫でられるのが嬉しいらしい。
とはいえ、どうして彼女はこんなところにいるんだろう。
本来なら、問答無用でマリリアート様を部屋まで送っていかなければいけないと、頭の中ではわかってる。ここが安全な場所とはいえ、こんな深夜に尊い身である彼女が、自室以外の場所で一人でいることなど言語道断なのだ。
でもマリリアート様は普通の妃ではない。だから理由を知っておくべきだ。
そんな風に誰にともなく言い訳して、俺は彼女がおびえないよう柔らかな声音になるよう気を付けた。黒眼鏡は外すべきだろうと思ったけれど、少しためらった末、かけたままにする。
多分、以前会ったことがあるなんてなんて覚えていないだろう……。
護衛として紹介された時も、その後何度か顔を合わせたときも、彼女は俺に気づいたそぶりは見せなかった。そのことに淋しさを覚えつつ、心のどこかで安堵してもいた。あの時のことは、クォンタムと自分だけの秘密でいい。
そう思ったのに、マリリアート様が俺の名前を呼んだので驚いた。
「ジェイ・ジェットさん」
その声を耳にした瞬間、心臓が胸を突き破るかと思った。
「俺の名前を憶えてくれてたんですか」
少し声がかすれたけど、動揺していることまではバレてないはず。
ドキドキとうるさく騒ぐ心臓を落ち着かせようと無駄な努力をしている俺に、マリリアート様は嬉しそうにニコッと笑った。
(真珠さん。その笑顔は、
心の奥で
でもジェイはそうはいかないから、何でもないふりで沈黙を守った。でもそのあとに爆弾を投下されてしまい、一瞬動揺してしまう。
「覚えてるに決まってるじゃないですか。ストーカーから助けてくれた恩人ですもん」
「ストーカー?」
またあの方言だ。
内心首を傾げつつ、マリリアート様が俺の名前を憶えていてくれただけではなく、以前会ったことも覚えてくれていることに、どうしようもなく歓喜した。
こんな小さなことでこんなに嬉しくなるなんて。
「それに、こんなに綺麗な髪の色の人も、こんなに大きな人も間違えようがないでしょ? ほかの騎士さんたちの名前はまだ覚えてないんだけど」
ペロッと小さく舌を出して肩をすくめつつも、少しだけ自慢げなマリリアート様に、知らず俺の口の端が上がる。すると、それを肯定ととったらしい彼女が嬉しそうににっこりと笑った。
「たぶん近いうちに会えるって聞いてたけど、イザーナ様の加護持ちのあなたが、私の騎士で嬉しいです。改めてお礼を言わせてください。あの時は助けてくれてありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる彼女に、俺は慌てて手を振る。
「いや、そんな、当然のことをしただけですし。それに、あの、言葉もそんな丁寧になさらなくて大丈夫ですから」
大きな体でおたおたする俺を見て、クォンタムが面白そうに笑った。
「そうだよ。マリリアートのほうが身分が上なんだから、ジェイにそんな話し方しなくとてもいいんだよ」
「身分って慣れない」
少し唇を尖らせたマリリアート様に、クォンタムが「だめだめ」と首を振った。
「神の国ではそうかもしれないけど、ここではちゃんと自分の立場を考えなきゃダメなんだよ。みんなのためにも、――――君のためにも」
最後に大人びた低い声になった聖獣の言葉に、俺はかすかに目を見開き、マリリアート様は渋々と言った風に頷いた。
「うん。そうだよね。ちゃんとしなきゃだよね」
そう言って何か小さくつぶやいた彼女が、慰めを求めるようにクォンタムを抱きしめた。一瞬泣いているのかと思って動揺したけれど、こちらから触れるわけにはいかない。
ぐっとこぶしを握り、マリリアート様が顔を上げたところで、俺はゆっくりと口を開いた。
「話を戻しますが、どうしてここへ? 侍女はこのことを?」
マリリアート様の顔は、少しだけ落ち込んでいるようではあったけれど泣いてはいなかったらしい。俺の質問に少しだけ気まずそうに肩をすくめて見せた。
「えっと、月がきれいだったから、なんだかお散歩したくなっちゃって」
「侍女にも黙って出てきたんですね?」
呆れてそういう俺に、彼女は身を縮めた。
「うっ……。だって、多分もう寝てると思ったから、起こしちゃ悪いなぁって」
ちらっと上目遣いでこちらをうかがうマリリアート様を見て、これは侍女が気づかないうちに帰さないとまずいなと思う。担当が誰かは覚えてないが、彼女がいないことに気づいたら真っ青だろう。騒ぎになってはマリリアート様も困るだろうしな。
がりっと後頭部をかいただけでビクリとされ、俺は肩を落とした。
「怒ってるわけじゃないです。威嚇もしてないので怯えないでください」
「お、怯えてないですよ! ただ、ちょーっと悪いことしちゃったのかなぁって、反省してただけです」
「そうですか」
「そうです!」
ぶんぶんと首を縦に振る様子が可愛くて、本当に黒眼鏡をかけたままでよかったと思った。
「では部屋まで送っていきます」
立ち上がって左手を差し出すと、マリリアート様は少しだけためらってから俺の手にその小さな手を重ねた。そのまま立ち上がるのを手伝うと、彼女は名残惜しそうに泉を振り返る。
「ここが気に入ったんですか?」
鏡のような泉の水面に、ちょうど二つの月が映りこんでいる。
魅入られたようにそれを見つめていたマリリアート様が、こくりと頷いた。
「うん。すごくきれいでしょ」
「昼間も美しい場所ですよ」
普段手入れのために庭師が入る程度で、人は近づかない場所だ。泉を見るならば、もっといい場所が他にもある。
それでもこの小さな泉は、今日、この瞬間から、俺にとって特別な場所になった。
「マリリアート様がお望みでしたら、明日ご案内しましょうか」
「本当?」
なんでもない提案に顔を輝かせたマリリアート様に、俺は「はい」と頷く。
「うれしい。一人じゃもう一度来られる自信がなかったの」
「じゃあ僕も。僕も一緒に行く! ね、いいよね」
「うん、クォンちゃんも一緒ね」
一人と一匹で「ねー」と言い合うのを見て、俺は思わず天を仰いだ。
(なんだこれ。可愛すぎだろ)
そう思ったのはジェイか諒か。
悶えそうなほど可愛いその光景を目に焼き付けてから、俺は小さく咳払いをした。
クォンタムにはあとでじっくり話を聞かないとな。
「マリリアート様。早く帰らないと、いいかげん担いでいきますよ」
わざと呆れた口調でそう言った俺に、マリリアート様は軽やかに笑った。
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