第20話 出逢い②

 俺は右足をわずかに前に出し、あえて肩の力を抜いて見せ、そのまま口の端を上げる。あまり認めたくはないが、この童顔のおかげで人がよさそうに見えると言われる笑顔だ。はてさて、この男には通じるだろうか。


「よう、色男。自分を振った女に付きまとうのは感心しないな」

 あえて余裕の構えでゆったりと話す。

「あんたなら、どんな女もより取り見取りだろ?」

 まるでここが酒場であるかのように。


 俺の言葉に男の左眉が上がり、少しだけ面白そうな顔をする。でもそれはむしろ、男が俺を取るに足らないものと判断したかのようで、警告するように背中の筋肉が収縮した。

 男から得体のしれない力が湧き上がるのを感じた。魔獣が近づいているときのようだ。


 まずいな。本能がここから離れろと警告音を鳴らしている。

 俺が少女を抱えて逃げられるよう微かに身を沈めた瞬間、稲妻のような光が、目の前を横に走った。


 咄嗟に少女をマントで守りながら一瞬目を狭めると、いつの間にか俺と男の間に見知らぬ女が立っていた。


 俺の髪色に似た、燃えるような赤い髪は膝まで届くほど長く、風もないのにふわりと浮き上がっている。

 女が纏う、後姿でも感じる圧倒的な力。それは恐怖というよりもむしろ慈愛を思わせた。

 この女はいったい?

 あまりにも馴染みのない感覚と警戒で、俺は少女を抱きかかえながら、じりっと半歩だけ後ずさった。

 その時だ。マントの下に隠した少女が、嬉しそうにマントから顔を出した。


「イザーナ様!」

「っ!」

 女神イザーナだって?


 まさか肉眼で神を見ることができるとは!

 信じられない。

 それでも人とは思えない女の圧倒的なその姿に、俺は膝をつきたい気持ちを懸命に堪えた。敬う気持ちの大きさよりも、今それをして、万が一この少女を守れなければ絶対に後悔する。とっさにそう思ったのだ。


 微かに振り返った女神が嫣然と微笑んだ。


「愛し子よ、一人にして悪かったな」

 声のような声じゃないような、不思議な響き。その慈愛に満ちた声と眼差しに、今自分が守っているものが、女神にとって特別な存在であることを理解する。

 そんな少女に付きまとっていた男はと見てみれば、彼は少年のように目を輝かせ、うっとりとイザーナを見つめていた。


「おお、わが妻よ」

「はっ?」

 驚いて思わず小さく声をもらすと、クォンタムが俺に寄り添って、

「あれはザキだ」

 と、囁いたので愕然とした。

 あれが……あの男がイザーナの夫、ザキなのか。


 農耕と繁殖の神は愛し気にイザーナの腰を抱き寄せるが、女神はその腕からするりと抜け出した。


「おまえは私に会いに来たのか、それとも私の愛し子をかどわかしに来たのか。いったいどちらなのかしらね」

「かどわかすだなんて人聞きの悪いことを。元々その女は私が子を産ませようと」

「ん? なんだって?」

「いや、花嫁にしようと思ったのに、イザーナが気に入ったって言うから」


 妻の前でモゴモゴととんでもないことを言うザキに、イザーナが恐ろしいほど美しい笑みを浮かべる。


「あの子はもう私の子よ」

「だ、だが、それを人間に渡すなど」

「私が決めたことに、不服だとでも?」

 女神がザキのあごをするりと撫ぜると、ザキはうっとりしたように目を細めた。

「いや、不服などない。あの娘はおまえのものだ」

「そうよ、忘れないで。今度忘れたら」

 そこで女神は言葉を切った。

「おまえには、二度と、会ってあげない」

「そんな!」

「嫌? そう。それが嫌ならさっさとお帰りなさい」

 穏やかな口調でありながら猛吹雪を思わせる冷たく厳しい声に、ザキがぐっと口をつぐむと、イザーナはふわりと空気をやわらげた。きっと優しい笑みを浮かべたのだろう。ザキの目が女神にくぎ付けになったのが分かる。今なら俺たちが消えても気づかないに違いない。


 イザーナにあしらわれたザキが姿を消すと、女神はバサッと髪を手で払いながら振り向いた。そのまま倒れている二人の女の方へ手をかざすと、ふわりとした光が女たちを包み込む。女たちは小さな鳥に変わり、音もなく消えた。

 少女が驚いたように息をのみ微かにもがくので、俺も彼女を抱いていた腕を放した。マントから少女が出ていっただけで、なぜか離してはいけなかったような不思議な気持ちになったけれど。


「イザーナ様、メリティたちはどこに?」

 少女の問に、俺は初めて倒れていた女たちが魔獣だったことを知った。

 メリティは小さな一本の角を持つ鳥の姿をした魔獣だ。クォンタムによると、さっきのはイザーナが人型に変えた侍女だろうとのことらしい。少女の世話をするためについていたものの、ザキに眠らされていたようだ。

 彼女らが暴力を振るわれたわけではないことにホッとした。

 なぜかは分からないが、そんな場面をこの黒髪の少女に見せずに済んでよかったと思ったんだ。


 イザーナの側に行った少女がこちらを向く。

 その時俺は、初めて彼女の姿をはっきり目にしたのだと思う。

「助けてくれてありがとうございます」

 その瞬間、そう言って不思議な礼をする少女以外何も見えなかった。もしかしたら一瞬心臓が止まっていたのかもしれない。気付くと全力で走ってきたかのように胸がドクドクとし、クォンタムに軽く角でつつかれるまで時が止まったような気がした。

「あ、いや」

 我に返ったものの、うまく言葉が出てこない。こんなこと生れて初めてだ。

 これは精霊の魔法なのだろうか。

 女神の元にいる彼女はきっと精霊なのだと、俺はこの時完全にそう信じていた。


 カラカラになった唇をなめ、改めて片膝をつきながらこっそり深呼吸をする。

「女神の愛し子が無事で何よりです」

 彼女から目を離したくはなかったけれど、女神への礼をする俺に、イザーナがクスッと笑った。


「おまえも、私の加護持ちのようだね」

 イザーナの言葉に驚いて顔を上げると、面白そうな表情をした女神が俺の顔をのぞき込んだ。何か小さく囁かれたような気がするが気のせいだろう。女神が俺の髪をひと房摘まんだことで、加護とは俺の髪の色のことだと分かった。


 リュシアーナで赤い髪は珍しくはない。

 ただここまで燃えるように鮮やかな赤は、百年に一人と言われるほど珍しいのだそうだ。


「ふむ。一角獣、お前の名前は?」

 俺の髪で遊びつつ、イザーナがクォンタムに尋ねる。

「クォンタム」

 珍しく緊張したような彼の答えに、女神は「いい名だ」と、深く頷いた。そして俺の名を聞くと、やはり同じように頷く。

「ジェイ・ジェット・ソリア。この髪はこの先、時が来るまで切ってはならぬ」

 時?

 意味が分からず問い返そうとした俺の髪に、なんと女神が口づけた。それが女神の加護だと気づくな否や、俺の全身を何か温かいものが包み込み、ふわりと消える。

 子供のように泣き出したいような、それでいて力が湧いてくるような、経験したことのない不思議な感覚だった。


「女神の仰せのままに」


 もう一度深く頭を下げてから立ち上がると、女神は不敵にも見える表情で笑う。その隣で可愛らしく微笑む少女が、もう一度あの不思議な礼をした。


「ではマリリアート、戻るぞ」

「はい」


 女神の呼びかけで少女の名が分かる。

 マリリアート。真珠マリリアート色の肌をした女神の愛し子。


   ◆


 あの時の俺は、まだ彼女のことを何も知らなかった。

 諒の記憶がないから、彼女の礼が日本式のおじぎであることも分からなかったし、この先迎えに行く予定の、アレクの花嫁が彼女であることも当然知らなかった。


 ただ、「やっと会えた」と思ったんだ。


 彼女が何者であるかも知らないのに、長い間探してた人にやっと会えたと、辿り着くことができたのだと感じ、胸が震えた。

 だから女神の元に戻ってほしくなくて、無意識に手を伸ばした。思わず「もう一度会えるか」と聞いてしまった。


「たぶん」

 女神に何か聞き、そう言って微笑んでくれた彼女の笑顔が、脳裏にくっきりと焼き付いた。


 一目ぼれ――だったのだと思う。

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