第14話 イケオジボイス

 一角獣の声が想像よりも低くて渋い声だったことに驚き、驚いた自分に首をかしげる。

 もしこれが人間だったら、五十代半ばくらいの渋いイケオジだな。

 そんなことを考えつつも動けずにいると、一角獣は音もなくゆっくりと近づいてきて、俺の周りをゆっくりと一周した。そして一通り観察がすむと俺を見上げ、また少し首をかしげる。不思議なものを観察するようなその仕草は、まるで水槽の中にいる金魚を眺める子どもみたいだ。


 外灯の明かりに照らされた一角獣の体は全体的に白っぽい毛だけれど、角は地球をギュッと凝縮したような複雑な深い青色だった。その懐かしい色合いに胸が震えるけれど、あの子がここにいるわけがない。

「声は聞こえぬか?」

 その少しだけいたずらっぽい声に、俺はようやく大きく息を吐いて「聞こえる」と答える。まさか現代日本で一角獣と話す日が来るとは夢にも思わなかった。

 いや。リュシアーナでも一角獣はめったに人と話さない。聖獣と呼ばれる獣は、自分が心を許した相手にしか声を聞かせない生き物だから。

 この一角獣もそうなのだとしたら、心許されたものとして最大限に敬意を払うべきだろう。


 俺は記憶に刷り込まれた作法に則り、左手にサックスを持った状態で一歩足を引いて跪く。

 ここでそれが正解かは分からなかったものの、心の奥でジェイ・ジェットが諒の体を突き動かした。そんな感じで右手を胸に当て、一礼した。

 それは神や精霊、聖獣へ敵意がないことを示す礼だ。この一角獣が自分の知る聖獣ではないとしても、知能がある生き物がいきなり蹴りつけたりはしないだろう。――しないよな?


 きっかり二秒後に頭を上げると、なぜか一角獣が足を折って座り込み、俺の顔を面白そうにのぞき込んだ。目の前に角がこちらを向いていることにギョッとしそうになるけれど、この角は危険ではないと心を落ち着かせる。

 だがこれはどういうことだろう?

 目を少し泳がせたあと、このまま黙っているのも、ましてや逃げるのもおかしいかと思い、軽くため息を吐く。


「我が名は黒木諒。聖獣よ、あなたの名前は?」

 あえて一角獣ではなく聖獣と呼び、至極真面目に尋ねた俺に、彼(彼だよな?)はそれには答えず、「今の曲をもう一度聞かせてくれないか?」と言い、しっぽをぱさりと振った。


『ねえねえ、ジェイ。ジェイってばぁ。今の、もう一回吹いてよー』

 イケオジボイスにかぶせるように、舌ったらずで甘えた声が重なって、ひどいデジャブに思わず首を振る。

 …………いやいやいや。まさか。


 なぜかたらりと冷や汗をかきつつ、この非現実極まりない状況がひどく懐かしい。

 竜笛の音色は魔を払うけれど、聖獣にとってはご馳走のようなものだ。この一角獣は、自分の知るそれと同じものだと感じる。そして彼が俺の音を望むなら、きっと何かが良い方向に行くのではないか。

 そんな期待を胸に、俺は「承知した」と頷いた。

 立ち上がってさりげなく周囲を見回すと今も人がいないのは、一角獣の作る領域にいるからだろうか? これは超えられない何かに触れることが出来た証だと、そう信じていいのだろうか。


「真珠さん……」

 祈るように小さく小さく呟いてから、すうっと息を細く吸った。


 もう一回さっきと同じ曲を吹くと、やっぱり目の前に焚火を囲むマリリアートと小さな一角獣の姿が見えてくる。そしてそれは次第にぼやけ、高速の早送り、もしくは巻き戻し映像のように次々と場面が変わっていった。

 あまりにも早すぎて色くらいしか分からないまま、それでも指は正確に動く。この曲を止めたらすべてが消えてしまう。そんな恐怖に突き動かされていたのだ。


 やがて白い部屋が見えた。

 石造りのそれは神殿にも見えるけれど、淡い光を放っていることから神の家を模した神殿ではなく、神の家そのものだと瞬間的に理解する。なぜか強い既視感に襲われるものの、懸命に音を途切れさせないことに集中した。


「ついに手に入れたぞ。我が花嫁よ」

 ぐったりと意識を失ったまま、美しい男の腕に横抱きにされている女性が見える。

(真珠!)

 動揺に音が乱れた瞬間映像も乱れ、慌ててサックスに集中する。


 男の声はあの時のものだ。

 そしてその姿はかつての世界の神の一柱、ザキだった。


 火の女神イザーナの夫で、農耕と繁殖の神。

 ザキはイザーナに隠れながら、気に入った女であれば、神でも精霊でも人間でも関係なく妻にすると言われている。瞬間的にそんなデータが浮かび上がった。


 愕然とした。

 異界の神だと?

 なぜ!


 混乱を心の奥に押し込み、必死で目の前の光景に集中する。

 どこかに隙が見えないか、彼女に手が届かないか必死で探した。今は側にいるはずの大きな一角獣の姿も見えない。


 なぜ見たことがないはずの神の姿を知っているのか。――それを考える余裕さえなかった。



 ザキが真珠を長椅子に横たえると、彼女が小さくうめき声を上げた。目が覚めるのか、瞼が微かに動くのを楽しそうに見ていたザキが、ふっと眉をひそめた。

 真珠の頬に、薄い紙で切ったような細い傷が斜めに走っている。

 ザキも気づいたのだろう。小さく舌打ちすると下僕らしき女たちを呼び、婚姻までにきれいにするよう命じた。そこで真珠が目を覚ましてパニックを起こす。

 怯えたように周囲を見回し、長椅子から転がり落ちるようにザキから逃げた。

 くすっと笑ったザキが、あっという間に真珠を壁際まで追い詰め、その美しい面輪を彼女のそれに寄せる。


「怯えぬとも良い。おまえは私の花嫁となるのだ」

「いや! なんなの、いったい。ここはどこ!」

「ここは私の館だ。傷は痛いかい? かわいそうに。この頬の傷が綺麗になったら婚礼の儀を上げよう。おまえはその身を我に捧げ、我の子を産むのだ」


 ザキからうっとりと、愛おし気に頬を撫でられた真珠が悲鳴を上げ、

「いや! 諒さん! 諒さん!」

 と泣き叫ぶ。


 その身を護るようにぎゅっと丸まって、俺を呼びながら泣く真珠の姿に気が狂いそうだ。



 くそっ。どうすれば彼女の所に行ける。

 音が乱れれば、すぐにつながりが消えるのは間違いない。

 どうしたらいい。俺はどうして見ているだけなんだ!


「我の前でほかの男を呼ぶなど不快極まりないわ」

 ザキがまなじりを上げ、殴り掛かるかのように右手を振り上げた。


「真珠さん!」

(しまった)

 とっさに叫んでしまった俺はすぐにサックスの演奏に戻ったが、目の前にあったはずの光は消え、俺は夜の公園と静寂の中に取り残された。

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