第9話 疲れてるのかもしれません
周りを警戒するも、今は外に人の気配はない。
「部屋で何かあった?」
警察に連絡かと思ったが、真珠は首を振って増々強く抱き着いてくる。
とにかく彼女を落ち着かせようと周囲を見渡す。道路のはす向かいにある公園がよさそうだと見当をつけ、「ちょっとごめんね」と彼女を抱き上げた。
そのまま走って道路を渡り公園に入りベンチに座らせると、真珠は驚いたのか何度も瞬きをしながら俺を見上げる。その頬はうっすら赤く染まり、怯えの色が影をひそめたのでホッとして隣に座った。
本当はすぐ近くの自販機で飲み物でもと思ったけど、今は一歩でも離れるのはよくないと判断した。事実、真珠の手が遠慮がちに俺のシャツを掴んでいる。軽くその手に自分の手を重ね、一瞬躊躇したあと、彼女の後頭部に反対の手を回して引き寄せると、真珠は抵抗することなく俺の胸に額をあてた。
ベンチは小さな公園の中央近くにあった。誰かが近づいてくればすぐ気づく場所だ。周りに意識を飛ばしながらも、それを気取られないよう真珠が落ち着くのを静かに待つ。やがてギュッと俺のシャツを握りしめていた手が緩み、小さく息を吐いた彼女が少しだけ離れた。
「落ち着いた?」
こくんと頷く真珠に、少しだけ微笑む。
今も公園やその周囲人が近づく気配はないし、ここから少しだけ見える真珠の部屋の窓にも不審な動きは見えない。
「驚かせてごめんなさい」
「いや? けっこう役得だったよ?」
申し訳なさそうに言う真珠にウインクして見せると、彼女は一瞬虚を突かれた顔をした後、ぷっと可愛く噴き出した。
よかった。かなりリラックスしてきたみたいだ。
どこかに移動するか、もうしばらく座っているか聞くと、「もう少しこのまま」という。シャツから離れた手を改めて握ると、彼女は少しためらいがちに握り返してくれた。
「私、疲れてるのかもしれません……」
怯えるようにこぼれた言葉に思わず顔をのぞき込む。
すると彼女は困ったように苦笑した。
「ずっと誰かに見られてるみたいで……変な声も聞こえるんです」
おかしいでしょ? と小さく呟くので、俺は首を振った。
「どんな?」
「……よく分かりません」
盗撮、盗聴。色々な可能性がよぎる。
「ずっと付きまとう視線は、気のせいだって思おうとしたんです。カーテンも閉めてるし。大家さんにも相談したら、念のため盗聴器やカメラがないかも調べてくれて」
盗聴器が引っ越しの前に仕掛けられる事案があるそうで、けっこう神経質なくらい丁寧に対応してくれたという。
全然知らなかったこと、欠片も気付かなかったことが悔しい。どれだけ不安な思いをしていたのかと、奥歯をぎりっと噛み締めた。
「結局何もなかったんですよ。でも今度は声が……」
真珠がぶるっと震え、心底不快そうな顔になった。
「その声が私を呼んでるみたいなんです。最初は、どこかのラジオか何かの音が紛れたのかなとか、色々考えて……」
一瞬言葉が途切れた後真珠はいきなり立ち上がり、「ああ、もう! 誰が嫁よ!」と吐き捨てると、はあっと息を吐き再び座り込むので、その勢いに目を丸くする。
よめ? 嫁っ?
「すみません。その呼びかけが嫁っていう風に聞こえるんです。花嫁って。もうっ、それがあんっっっまりにも気持ち悪くて、ゾワゾワするというか、こう、モヤモヤしてて」
両手にこぶしを握り吐き捨てるように言った後、汚物に触れたかのような彼女の表情に俺も眉を寄せた。
「いや。そんなの、俺も不快だし」
「ですよね。気持ち悪いですよね」
我が意を得たりとばかりに真珠が身を乗り出すが、彼女を嫁扱いする男がいるかもしれないと考えるだけでも不愉快過ぎた。
何かを仕掛けられているのか?
彼女のストーカー? やっぱり部屋を調べたほうが。いや、ここはまず彼女を安全なところへ連れて行く方が先か。
真珠が腕をさすり始めるので「寒い?」と聞くと、彼女は一瞬言いよどんだ後、俺が笑わないと確信を得たのか苦笑して見せた。
「いえ。絶対私の気のせいなんですけど、さっき忘れ物を取りに戻って玄関の鍵をかけてた時、――腕をこうグイって、引っ張られたんです」
「なっ!」
思わず立ち上がると真珠は首を振って俺を止めた。
「でも、誰もいないんです。本当に誰も、何も。――なのに誰かの気配があるのだけはずっと感じてて……。それで私、幻覚が見え始めたんじゃないかって怖くて。取り乱してごめんなさい」
部屋は事故物件ではないらしい。
でも幽霊かも? などと騒げば、馬鹿にされるか哀れまれるかのどちらかだろうと考えたという。
幻覚や幻聴なら、東京が合わないのだと実家に連れ戻されるかもしれない。
「そんなの、絶対いやだったんです。まだ始まったばかりなのに負けた気がするし。それに……それに……」
言葉を詰まらせた真珠は、汚いものがそこに触れたかのように二の腕をさすった。少しだけ悩んでから「腕、見てもいい?」と聞いてみると、真珠はコクンと頷いてカーディガンの袖を捲くって二の腕を出した。
「このあたりを握られた感じがしたんです」
そう言うと、感触を思い出したかのように真珠がブルッと震える。
その場所に触れると、彼女がホッとしたように肩の力を抜くのが分かったから、綺麗にするイメージでしばらくさすってから、まくっていた袖を下ろす。何もヒントはなかったけれど、微かに引っかかりを感じた。それが何かは分からないのに知っているような――。
とりあえず今日真珠は亜希の所に泊まり、明日改めて部屋を調べたうえで、場合によっては警察に相談しようということになった。
「でもライブは中止しないでくださいね。楽しみにしてたんです。その……目の前で、諒さんのサックスを聞くの……」
真剣な顔で訴えられ、俺は安心させるようににっこり笑った。
「ん、わかった」
気が張っていたのだろう。励ますつもりで頭を撫でると、真珠は少し泣きそうな顔で俺を見た。
「諒さんは笑ったりしないんですね」
笑う?
「なんで。真珠さん、嘘は言ってないでしょ」
「そうですけど、でも、信じてもらえるような話じゃないですし」
「それを言ったら、俺のほうが信じられないような話は山ほどあるよ」
貴女と話したいことが山のようにあるんだ。
「そうなんですか?」
「うん。いつか聞いてくれる?」
王妃ではない貴女に会えて、今俺がどんなに幸せかを。
「――諒さんは、優しいですね。‥………になる」
その寂しそうな声にギクリとする。
まるで、誰にでもそうなのだろうと言われた気がした。二人の間に見えない壁を作られた気がした。後半は口の中でつぶやかれたらしく、よく聞き取れなかった分ひやりとした。
不本意ながら、あまりにも馴染んだこの感じ。――うそだろ? フラれるときの予兆じゃないか。
なんでだ。王妃のことを考えたからか?
「それは、俺が真珠さんを好きだから!」
焦るあまり考えるより先に言葉が出てハッと口を押えたが、こぼれんばかりに目を見開かれた真珠に、ばっちり聞かれたのは間違いなかった。
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