第8話 声が聞きたくなって
彼女がこんな風に電話をくれるのは初めてだからと、少し浮足立っていた心が一気に急降下した。
「真珠さん、何があった?」
彼女の心細そうな声に、文字通りいてもたってもいられなくなる。部屋の中を意味もなくウロウロと歩き回り、見えない何かを探ろうと神経を研ぎ澄ました。
「何もないですよー。ちょっと諒さんの声が聞きたくなっちゃったんです」
真珠の声は、まるで何でもないように軽い口調になっているが、俺はそのまま鍵などをポケットに突っ込んで出かける支度を始めた。
「じゃあ今からそっちに行く。どうせなら顔見て話そうよ」
彼女に合わせて気楽な声でそう言ったが、これは彼女のSOSだ。
直感でそう確信していた。
絶対に何かがあった。でもまだ自分たちの間に距離があるから、彼女は俺に電話してくれたにもかかわらず甘えることが出来ないんだ。
「えっ、でも」
声ににじんでるのは動揺と、隠し切れない安堵。
それに勇気を得て、相手に顔が見えないのに安心させるような笑顔を作る。
「俺も真珠さんに会いたいし。夕飯は食べた? ――うん、俺も済んでる。じゃあ車で行くし、どこかでお茶でも飲もうよ」
今日は親父の車があることを確認し、そう約束を取り付けて電話を切った。酒を飲んでなくてよかった。
そのまま玄関に向かうと、ちょうど兄貴が帰ってきたところで亜希も一緒だ。
「諒、どこかに行くのか?」
「うん。ちょっと真珠さんの所に行ってくる」
兄貴にそう告げ、一応リビングに向かって「車使うよ」声をかけると、亜希が心配そうに眉を寄せた。
「何かあった? 諒ちゃん、怖い顔してる」
亜希に眉間を触れられ、自分が険しい顔をしていたことに気づく。こんな顔で行くわけにはいかないよな。
一度大きく深呼吸をして肩の力を抜いた。
「まだ何があったかはわからないんだ。ただ真珠さんが電話してきたんだけど、絶対何かあった。怯えてるみたいなんだ」
気のせいならいい。でもどうしてもそうは思えない。
「変質者が出たとか?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
亜希が何か考え込み、「ちょっと待ってて」と、奥に話をしに行く。
どうやらうちの母親と亜希の母親がリビングにいるようだ。この分だと父親たちは亜希の家で将棋でも指してるに違いない。昔から月に一度は見られる当たり前の光景だ。
ほどなく戻ってきた亜希は、
「もしもの場合は、うちに泊めるって言って。どうせ明日一緒に遊ぶんだし、ちょうどいいじゃない?」
リビングから出てきた母親たちも頷くので、自分でも思った以上に気が軽くなるのを感じた。真珠は上京して日も浅いし、亜希の言うとおりにしたほうが心強いだろう。
どうも亜希が余計なことを吹き込んだらしく、母親たちのどこか楽し気な目の光が気にならないこともないが、まあいいや。
「了解。ありがとな」
自分が着くまで真珠の話し相手になってると言う亜希にもう一度礼を言い、兄貴に肩をポンポンと叩かれつつ家を出た。
◆
真珠のマンション近くのパーキングに車を停めた。真珠は亜希と電話中だろうからと兄貴に着いた旨を連絡してから、マンションの入口前に立つ。
ここは夜八時以降は家族以外の男は入れない為、部屋の前まではいけないのだ。
ほどなく、ガラスの向こうに少し大きめのカバンを肩にかけた真珠の姿が見えた。
俺に気づいてパッと顔が輝くのを見て、胸の奥にギュッと甘い痛みが走る。一瞬彼女が胸に飛び込んでくれるような気がして両手を広げたくなったけど、かなりイタイやつになりそうなので堪えた。
「諒さん! ありがとうございます。亜希ちゃん、ありがと。……うん、ちょっと待って」
まだ亜希と話していたらしい真珠からスマホを差し出される。
「亜希ちゃんが代わってほしいって」
「そうなの? ……あ、亜希、俺だけど」
「諒ちゃん? お疲れ様」
「お疲れって、三十分くらいだけどな。どうした?」
「あのね、まこちゃんなんだけど、うちにお泊り決定だからよろしくね」
「了解。それだけ?」
なら、特に電話を替わる必要はなかったと思っていると、亜希は声をひそめた。
「あとね、困ってるみたいなのに理由教えてくれないんだよ。ちょっとどこかでさりげなく聞いてあげて。潤ちゃんも心配してるし」
亜希の心配そうな声に胸がざわめく。
少しお節介なところがある亜希だけど、時々神がかりなほど鋭い。真珠と話していてそう言うなら、絶対知っておくべきことだと何かが訴えているのだろう。兄貴まで心配となればなおさらそうだ。
正直俺もそのつもりなので快諾し、真珠にスマホを返した。彼女はそのまま亜希と二三言言葉を交わし通話を切ると、「なんかお泊りになっちゃいました」と照れくさそうに笑った。
それに関しては亜希がうまく言ってくれたのだろう。二つ持っているバッグが重そうに見えたので、大きい方を代わりに持つ。急ごしらえのお泊りセットのようだ。
「さて真珠さん、まずは茶ぁでも飲みに行きますか」
おどけて笑って見せれば、真珠はクスクスと軽やかな笑い声を上げた。でも次の瞬間、何かに気づいたように「あっ」と声を上げる。
「ごめんなさい、忘れ物しちゃいました」
一瞬真珠は、どうしようか迷った素振りを見せていたが、「ここで待ってるよ」と言うと、ホッとしたように頷いてマンションに戻っていく。
女の子だし、色々荷物があるんだろうな。そんなことを考えつつ空を見上げると、星が少し見える。
星を見ることなんてほとんどないけれど、なぜか急に懐かしさがこみ上げてきた。
降るような星空をもう一度見たいと。
前世で見たような空を、真珠にも見せたいと思った。
夏、キャンプに誘うとかどうかな?
田舎なら星も綺麗だろう。もっとも彼女には珍しくないかもしれないけど、架空の小旅行計画を考えると段々楽しくなってくる。
真珠が戻ってきた気配がしてそちらを見ると、彼女が突然俺に抱きついてきた。
いや、何かに怯え必死に縋り付いている。
「真珠さん?」
彼女がガタガタ震えているのに気づき、安心させるように彼女の背中を撫でながら、無意識に全身の筋肉が臨戦態勢に入る。
いったい何があったんだ。
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