第3話 そんな奇跡、あるわけがない

「ところで亜希、さっきからお前、何見てるの?」

 珍しくスマホをずっといじっている亜希の手元を、兄貴がひょいと覗き込んだ。

「あれ? これ高校の時の写真? 大会の時?」

「そうなの。友達がアルバムにまとめてくれたんだ。短大卒業して、春からこっちに就職してるの」

 ほらほら、可愛いでしょうと、亜希は次々と俺にも写真を見せてくる。

 亜希は高校からチアリーダー部で、その部活で知り合った地方の友人らしい。

 その中の一枚に、俺は殴られたような衝撃を受けた。


「亜希! 今の写真もう一回見せてくれ!」

「いいよー。好みの子、いた? 友達だったら紹介するよ」


 そう言って渡してくれたスマホの画面にくぎ付けになる。

 写真に写る一人を、震える指で拡大する。


「王妃……」

「あれ? まこちゃんと知り合い?」

 自分の目に映るものが信じられず動揺する俺に、亜希はきょとんとした。

「近江まことちゃん。この子だよ、春からこっちに就職してる友達。ああ、たしかに諒ちゃんの好みに合うね。今は髪がもう少し短いけど」

 王妃を近江と聞き間違えたらしい。

 だが、どくどくと鳴る心臓の音が耳の奥でうるさくて、どこか遠いところで話しているような気がする。

 その写真に写る姿以外、すべてのものが遠ざかったようだ。

 大会後なのか、チアのユニフォームに身を包み、はじけるような笑顔のポニーテールの女の子。

 すんなりした手足、細い腰。


 意識が水に沈む。音が遠くなる。

 コポコポと音を立て、頭の中を何かが駆け回る。

 考えようとするのに意識は停止し、ただ水の底へと沈んでいく。


 この姿は……。

 忘れることなどできようものか。

 俺が、ジェイが知っている姿より少し幼い。

 だが、俺がこの姿を見間違うことがあるだろうか。

 まさかまさかまさか。


「諒!」

 背中に衝撃が走り、一気に世界が戻ってくる。

「大丈夫か? もう一回蹴ったほうがいいか?」

 なぜか真顔で足を上げる兄貴に、大丈夫だと手を振る。

「どうしたの、諒ちゃん。まこちゃんと何かあった?」

「……なんだ」

「え?」

「王妃なんだ……」

 一瞬流れる沈黙の後、二人が悲鳴のような大声を上げた。

「え? え? 王妃様も生まれ変わってたのか?」

「どういうこと? そっくりって意味?」

 二人が矢継ぎ早に質問してくる。

「わからない。でも、この子はあまりにもそっくりなんだ。実際に会ってみたら違うかもしれない。でも……」

 そう言いながら、自分が震えていることに気が付く。

 あんなに会いたかった女性の姿を見て震えるとは。


「もし本人じゃなくても、諒ちゃんの好みにぴったりってことだよね? まこちゃん、今日公園にくるんだよ?」

「え?」

「今日、都立公園の芝生広場のイベントに行くって言ってたから、そのあと合流しようって話してたの。紹介する。会いたかったんでしょ。きっとこれはチャンスだよ、奇跡だよ。運命だよ!」

「いや、でも。そっくりだから会いたいとか、さすがに失礼じゃ」

「大丈夫! 諒ちゃんは潤ちゃんの次にかっこいい! 自信をもってお勧めする! それに紹介したって、結局選ぶのはまこちゃんなんだから、お友達から始めればいいでしょ? モテすぎて順序がわからないとか言わないでよね? ……あー、なんとなく、そんな気がしないでもないけど」

「…………」

「そうそう、まこちゃんの名前、きれいなんだよ。真珠って書いて、まことって読むの」


 ドクンッ


 心臓が痛いくらいに脈打つ。

 何か大事なことを思い出しそうな気がした。

 一瞬見えた気がした。

 でもそれは、ふわりと舞う蝶の羽のように、手のひらからするりと逃げていく。


「まこちゃんに彼氏がいるって話は聞いたことないけど、いたとしても、結婚してる相手よりは可能性があるよね」

 亜希が、うつむく俺の顔を覗き込むようにそう言った。

「そうだ、な」


「前から聞きたかったんだけど、王妃様の旦那である王様に、嫉妬とかしなかったの?」

 兄貴が興味津々と言った顔で聞いてくる。

 気持ちを上げようと、わざとからかっているのがわかって、思わず苦笑した。

「王のことは好きだったよ。嫉妬したことはなかったな。子供のころから……っ!……可愛がってたし……」


 自分が言いかけた言葉を、あわてて伏せる。

 俺は今、なんて言いかけた。

 王を子供のころから、『妹』のように可愛がってた……。そう言いかけた。


 ちょっと待て、どういうことだ?

 たしかに王とは、子供のころから共に鍛錬する仲間でもあった。ジェイの育ての親が王の乳母だったから、確かに兄弟に近い関係だったともいえる。――そんなことを思い出す。

 騎士団長であったニクス・ブラードと、後の王アレク。そして俺。

 年のころが近く、物心ついたときから共に育ったんだ。


 アレクとマリリアート様が結婚し、王子も生まれた。これは確かだ。

 王が女だってことはあり得ない……。同じようにマリリアート様が男だってことは……ない、よな?


 そこまで考えて、ふと蘇った記憶に血液が上昇する。

 俺に口づける王妃。一瞬ついばむような感覚を思い出し、慌てて打ち消す。

 いや、ありえない。そんなことはあり得ない。

 妄想にしてもやばいだろ。



「えーっと、そろそろ準備して公園に行こうぜ?」

「あ、ああ、そうだな」

 時計を見ると十時を過ぎていた。いったい何時間物思いにふけってたんだ。


 緊張しながら、サックスのケースを持ってくる。

 演奏できるのか、俺。


 今日で何かが変わるかもしれない。

 考えてみたら、王妃が生まれ変わったとしても、同じ姿なんてありえないんだ。


「そんな奇跡、あるわけがない」


 そう自分に言い聞かせると、不思議なほど落ち着いた。

 別人だと納得した途端、今日会える予定の近江真珠さんに俄然興味がわいてくる。

 王妃とそっくりなこの女の子は、一体どんな人なんだろう。

 恋人云々は――、うん、どうでもいいな。万が一恋人になれたら嬉しいかもしれないけれど、王妃そっくりの女性にフラれるのはきつい。たぶん、一番きつい……。


「亜希、とりあえず余計なことをしないでくれよ」

 少しだけうめくような声になった俺を見て、亜希はにっこりとお姉さんぶった笑顔を見せる。

「りょうかーい。大丈夫、だまって見てるから。安心して」


 うっ。絶対こいつ、面白がってるな。

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