第2話 すべてを思い出すことがあるのだろうか

「諒ちゃん、彼女と別れたんだねー」

 食事の後、ソファでだらっとしながら亜希が兄貴と同じことを言ったので、肩をすくめて肯定しておく。

「そっかぁ、残念だったね。またフラれたんでしょ? 今度の彼女さん、諒ちゃんの理想に近かったと思うんだけどな」


 当然のようにまたと言われたことに苦笑する。

 確かに、長い黒髪に涼しげな目元は、どことなく王妃に似ていると思った。今思えば王妃は日本人顔だ。もっとも日本人に神の声は聞こえないし、魔法も使えないが。


 リュシアーナは生活の中に、歌と踊りと魔法が密着した世界だ。

 歌と舞いを神に捧げ、魔獣からは魔力を分けられ、その力で火を起こすなどの生活に使う。王妃は聖女の名にふさわしく、その力が最たるものだった。


 コーヒーをすすりながら、過去の風景に思いをはせる。


 ジェイが仕えていた当時の王は、美貌の王と称されるほどの美丈夫、アレクサンドル陛下。

 一見女性のような面立ちだが、闘いにおいては勇猛果敢。情に厚い王だった。


 そして、その隣に立つ王妃の名は「真珠」を意味するマリリアート。

 天界から舞い降りた、神の加護を国にもたらす聖女だった。

 聖女の持つ奇跡のような球体の真珠は、神に愛された証しと呼ばれた。

 今の日本では考えられないと思うが、リュシアーナの真珠は涙型で、形も大きさもばらばらだったから、マリリアート様の持つ完全な球体で、しかも大きさの揃った真珠は人の世には有り得ないもの。つまり奇跡以外の何物でもなかったのだ。


 そしてマリリアート様が王に嫁ぎ王妃となったとき、その奇跡の真珠も城と共に「白き宝玉」と呼ばれるようになった。


 王と王妃と、婚姻から一年後にお生まれになった王によく似た王子。

 三人の幸せそうなその姿は、胸が締め上げられるほど美しい光景だった。


 王妃の艶やかな漆黒の髪。なめらかな淡い蜂蜜色の肌。涼やかな瞳。

 笑うと少し幼くなる顔。甘く響く、少しだけ低めの声。

 王妃が俺を見て微笑めば心臓が騒がしく跳ね、悲しげにしていれば、この胸に抱いて慰めたい衝動にかられた。膝に抱き、髪をなでて慰めたい。

 王妃でなかったら、躊躇ためらわずそうしていただろう。


 王たちを、そして国の民を守る騎士という立場でありながら、俺が何よりも守りたかった女性。

 まるで、今も目の前にいるのではないかと思うほどはっきり思いだせるその姿。


 狂おしいほど愛していた。すぐそばにいても決して手の届かない、俺にとって唯一無二の天上の宝玉。絶対に悟られないよう完璧な仮面をかぶりながら、想いを断ち切ることができなかった。


 ただただ、彼女の笑顔を守りたいと、生涯かけて守ると誓っていた。

 王妃の幸せだけを願っていた。

 彼女が幸せであればそれで良かった。

 彼女の笑顔を見たかった。

 ただ幸せに生きていてほしかった。


 色濃くよみがえり続ける記憶は、時に甘く時に苦く俺を縛り付ける。


 子供のころからジェイ・ジェットの記憶があるのに、王妃がいつ現れたのかはなぜか思いだせない。

 自分の心の奥から、押さえても抑えてもあふれ出すこの想いが、一体いつから生まれたのかさえ分からない。そしてその記憶は、一番苦しい二十代以降は思いだせないから、諦めて別の伴侶を得たのか、それとも一生独身を貫いたのかもわからない。それとも、若くして戦死したから思いだせないってこともあるだろう。


 それでも、それは過去のことだと分かっているから。俺ではなく、昔違う人生だった時の記憶だと理解していたから。時に取り出して眺める思い出として大切にしていた。



 だがその記憶は、ある時ふいに甦った。

 高校二年生の時だった。

 何がきっかけかはわからない。夏休み、早朝のロードワークでいつものように走り、途中の公園で筋トレをする。いつも通りの日常。


 突然洪水のようによみがえる記憶に、俺は言葉を失った。

 脳裏に映るのは、崩れながら湖に沈みゆく城。

 どこか美しくも見えるその様子を、なぜか王妃と二人で見ていた。


 王はどうした?

 王子は?

 国民は?

 一体どうしてこんなことになった?


 わからない、わからない、思いだせない。


『ねえ、ジェイ。鍵を解くわ……』


 そう言って、その髪のにおいさえわかるほど近くにいる王妃。


 そして記憶はそこで途切れる。彼女の微笑みを溶かして……。

 なぜ城が崩れたのか、なぜ湖に沈む城を二人で見ていたのか。

 その時何か大切なことを聞いたはずなのに、考えても考えても思い出せない。


 いつもそうだ。

 突然蘇るかと思えば、肝心なところは思いだせない。

 ――いつか、すべてを思い出すことがあるのだろうか。


 自分の中に残る記憶は、かの女性は、夢や遠い思い出と捨て置くにはあまりにも鮮烈過ぎた。

 あれほど愛せる女に、今後出会えることがあるのだろうかと思えるほどに。



「さっき諒がさ、『なんで俺だけ生まれ変わったんだろう』ってぼやいてたんだぜ」

 洗濯が終わったらしく、新しく淹れたコーヒーを置きながら、兄貴が亜希にばらしやがった。

 亜希は少し考えて、

「……同じ時代に生まれて、同じ場所で好きな人と生きられる。それって、奇跡だよね」

 そう言うと、にこっと兄貴に笑いかける。


 俺を思いやった言葉なのは理解したが、わざと、「惚気のろけか」と突っ込みたくなる。いや、亜希のことだ。確実に惚気だな。

「そうだな。もし生まれ変わった恋人とまた巡り会えても、同じ人間とも限らないしな? 犬とか猫とか」

 兄貴が茶化すと、亜希が「もうっ」と言って肘で兄貴を軽く突く。

 なんとも仲睦まじいことで。


 だが二人の言葉は真実だ。

 この広い世界で、最愛の人と出逢える人間はどれだけいるんだろう?

 もし同じ場所に生まれたとしても、それが百年もずれてれば出会える可能性は限りなく低い。


「もしもその王妃様が現代に生まれ変わってたとして、そしたら出会った瞬間分かるものなのかな?」

「さあ、どうだろうな」

 俺がまったく違う姿に生まれ変わったのと同様、もし王妃が生まれ変わっていたとしても、それがどんな姿か想像もつかない。


「わかるといいんだけどな。せめて幸せな姿を見たいし」

 俺が生まれ変わったことに意味があるのなら、彼女に出会って幸せにするためならいい。

 そう思っていることを、みんな気づくのだろうか。兄貴と亜希以外、一言だって前世の話なんてしたこともないし、二人が面白がって吹聴していないのは知っている。


「そうだな。もうアラフォー主婦で、でっぷり太ってガハガハ笑ってるおばちゃんかもしれないしな」

 兄貴は俺をからかうつもりで言ったんだろうけど、思わず王妃のそんな姿を想像した俺はクスリと笑い、

「それもいいな」

 と答えた。

「すっごく幸せそうじゃね?」


 兄貴は目を丸くし、亜希はなぜか頬を赤らめている。


「お前……」

「ん?」

「……いや、お前に惚れられて嫁になったら、すごい大事にしてくれそうだよな」

 兄貴のマジ声に、亜希がコクコクと頷いている。


 そうだな。めちゃくちゃ大事にするだろうな。

 だが、


「兄貴を嫁にする気はないからな?」


 だから顔を赤らめるのはやめろ、このバカップル。

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