2)リュシアーナ

閑話 乳母リドの憂鬱

 私の名前はリド・ペリー。先日二十一歳になったリュシアーナの若き国王、アレクサンドル陛下の乳母だ。


   ◆


 バルコニーから見下ろすと、物干し場で洗濯物を干し終えた洗濯係の女衆が華やいだ声をあげているのが見えた。


「ねえ、見て見て。ジェイ・ジェット様が弓を引く姿! いつ見ても凛々しくて素敵だわ」

「ホントね。ああ、見てよ。あの腕の筋肉。あの逞しい腕に一度でいいから抱きしめられてみたい〜」

「見上げるほど背がお高いのに、遠くから見るとスラリとして見えるのよね」

「ええ。訓練中はすごい鬼迫なのに、普段は優美じゃない? わたし、一度でいいからジェイ・ジェット様と踊ってみたいのよ」

「素敵ね。もしあの方に跪かれて手なんて差し伸べられたら……。ああ、気を失ってしまうかも」

「「「きゃあ」」」


 風に乗って聞こえてくる我が甥への称賛の言葉に、私はくすぐったい思いで肩をすくめた。


 物干し場からは訓練場が見下ろせるが、下からは覗いている女たちのことは見えない。その上、万が一に備え、訓練場には防御膜が張り巡らされている。そんなこともあり本人に伝わるはずがないと信じているせいか、女達の夢みるような言葉はとどまるところを知らない。

 賞賛は甥のジェイ・ジェットだけにとどまらず、騎士団長のニクスや、国王陛下にも及んだ。なんとも可愛らしいことだ。


 私は、二歳で二親を亡くした甥ジェイ・ジェットを親代わりとして育てた。その甥が逞しく育ったことを誇らしく思う。そのことをおもてに出しはしないが、子どもが無事大人になる――この世界でそれは、ある意味奇跡のような出来事なのだ。

 私が十六歳で産んだ子は、一歳の誕生日を迎えることはなかった。


 我が子と共に乳を飲ませた現国王と、我が子の代わりに育て上げた甥。

 その二人がともに二十歳を無事超えたことが私には誇らしかった。ただ――


「リド。心配事か?」

「陛下」

 私はバルコニーにやってきたアレクサンドルに頭を下げる。


 男にしては線が細く声も柔らかな国王は、一足先に訓練場から戻ってきていた。


「いえ、心配事なんて何もないです」

 にっこり笑って、茶の支度をする。

 今は二人きりなので、王も少しだけ砕けた雰囲気だ。


 本当ならアレクサンドラ・・・・・・・と名付けられていたはずの王は、「女」として生まれながら「男」として育てられてきた。この国で今の時代、女の王は不吉とされているからだ。

 それは資質や能力などからではなく、この国の周期――神の問題だ。


 王には本当なら姉が一人、兄が一人いたが、どちらも三歳の誕生日を迎える前に病で亡くなった。王妃はアレクを産んでそのまま儚くなったこともあり、父親である当時の王は民衆を不安にさせないため、そして我が子が少しでも長く生きられることを願って、娘を男として育てることにしたのだ。


 それでもやはり――


「本当に行かれるのですか?」

 差し出がましいのは承知の上だ。それでも我が子として心を込めてお育てした子が「嫁をめとる」というのはどうなのだろう。


 本当なら何年も前に、アレク自身が嫁となってもおかしくなかったはずなのに。

 うちの甥ともども、幼いころから騎士として育てられた王は、天馬を自在に操り、神の怒りを収めてもいる。

 しかし先の天災で王が亡くなり、アレクが即位して一年。もう女だと明らかにしてもよいころではないのだろうか。世継ぎを考えるならなおのことだ。


 そんなことを考えている私に、アレクはフッと笑った。

「せっかくの天啓だ。私は従うよ」


 天啓は一月ほど前に降りてきた。

 陛下の夢に訪れたそれは、マグアーラの山に神に愛されし娘が降り立つから、その娘を娶れというものだったそうだ。


 ――バカバカしい!


 私が瞬間的にそう思ったのも当然だろう。

 民衆の上に立つ王侯貴族とは、すなわち魔力の大きな魔獣を扱える人間だということだ。王の力はその最たるもの。魔獣から魔力を引き出し、国の発展に貢献するのが王の役目。

 ただ、その力が強い分、王は神との距離が近い。そのせいでアレクは娘として生きることも、当たり前の結婚をすることもできずにいる。

 口に出すことなどできないが、やはり口惜しい。


「リド。私はね、聖女の印を見るのも楽しみなんだ」

 静かに茶を飲むアレクの本心は分からない。聖女の印が何なのか教えてくれない為、それがどんなものか分からないことも不安をあおる。


「もしや、聖女と言うのは陛下と逆の存在なのでしょうか」


 つい本音が漏れ、ハッと口をつぐむ。

 だがアレクとの間に子を為すとなれば、女として育てられた男だと考えるのは自然なことではないか?


「ま、それでも構わんさ。この国に平穏な時間がもたらされるならね」

「アレク……」


 嘆息しながらつい愛称で呼ぶと、アレクは「そう呼んでくれるのは久々だね」と、子どものようににっこり笑った。しかしその目は真剣な色を讃えたまま、じっと私を見つめる。こんな目をしている時の彼女は、何を言っても無駄だということを私はよく知っていた。


「でもね、リド。私の決意は変わらない。私にとって大事なことはこの国と、ここに住む民の安全と平穏な暮らしだ。それはリドも含めてだ。――めったにない天啓が私に降りてきたことは、きっと良いことだよ。これが他の者だったら、なにがしか別のことに利用されたり伏せられたりして、好機を逃すことになったかもしれない」

「さようでございますね……」


 王家にかかわりを持つ者として、それは十分に理解している。

 それでも、自ら乳を与え育てた養い子の幸せを願ってしまうのはどうしようもない。そんな母心を理解しているから、アレクは二人きりの時、私の言葉を咎めないのだ。


 下からワッと華やいだ歓声が上がる。

 覗いてみると、訓練を終えた騎士たちが上がってくるのが見えた。

 その中でも、ジェイ・ジェットとニクスはひときわ目立ち、観覧場にいたらしい貴族の娘たちが「誰が誰にタオルを手渡すか」で盛り上がっていた。


 チラリと横目でアレクを見ると、優しく細められた目から特別な感情は読み取れない。黄色い声をあげる娘たちの様子を楽しんでいるようにも見え、私はひそかに嘆息した。


「おっ。ニクスには亜麻色の髪の乙女、ジェイには黒髪の乙女がタオルを渡しに行ったな」


 くじ引きで勝ったらしい娘たちが、それぞれ目当ての騎士の元に駆けていく。


 ニクスは訓練後とは思えないほど一糸乱れぬ姿で微笑みを浮かべ、丁重にタオルを受け取る。その匂い立つような色気に何人かよろめく娘の姿が見え、アレクが微かに噴き出す。普段はアレクも娘たちをよろめかせている側だとは、微塵も思っていないような表情だ。


 ――あの娘たちとは同性なのに、困ったものね……。


 一方ジェイ・ジェットは上半身をあらわにし、その逞しい肉体を惜しげもなく披露していた。最近聖獣にもらったという黒い眼鏡をはずすと少しだけ子どもっぽい顔があらわになり、その差異ギャップに娘たちの小さな悲鳴が上がる。大っぴらに悲鳴を上げると、童顔を気にしているジェイが逃げてしまうからだろう。よくわかっている。


「私が落ち着いたら、ジェイたちにも嫁を見つけないとな」


 独り言ちるアレクの声は聞かなかった振りだ。

 兄のように慕っているジェイやニクスを思う気持ちも本物だろう。しかし今問題はそこではないのだ。


「リド。お小言はそこまで。みんなが上がってくるからね」

「はい」


 口を開く前に止められ、渋々口を閉じる。そんな私にアレクは優しく目を細めた。それはアレクの母親によく似ていて、懐かしさに胸が締め上げられるような思いがした。今は亡き、優しい王妃様。私の手に娘を託してくださった日を、ついつい昨日のことのように思い出してしまう。


「リド、大丈夫。きっといいことが起こる」

「陛下?」


 夢見るように瞳をきらめかせたアレクは、「そんな予感がするんだよ」と、いたずらっぽく片目をつむって見せた。


「とりあえず、聖女は美人だといいな」

「――そうですね」


 そういう問題ですか? そもそも貴女様より美しい女性など、そうそうおられないとは思いますけどね?



 事実、陛下たちが連れてきた聖女は美しく、この国の色々な運命を変えることになるのだが、この頃の私はその片鱗さえも気づいていなかった――。

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