第238話「銀の鍵 その11」
農奴となったヨグ・ゾトホート信者や漂流者たちに会いにいくことになった。ミハルさんに案内され、吹雪の治まった外を歩くこと数分。開拓地の農村で見るような、質素な小屋の群れが見えてきた。ミハルさんはその中の1つを指さした。
「あそこにヨグ・ゾトホート信者たちの生き残り……その中でも比較的高位のものが居る。俺はここで待っているよ、合わせる顔が無いし、向こうも俺が居ては口を開かないだろうしな」
僕たちは頷き、【鍋と炎】だけでその小屋の中に入った。
……酷い環境だ、というのが第一印象だった。6畳1間ほどの空間に、3人の男が居た。全員片足に鉄球のついた足枷を着けており、もう片方の足には腱を斬られた痕があった。木と亜麻で出来た簡素な靴、亜麻で出来たツギハギだらけの服に身を包んだ彼らは、部屋唯一の光源にして熱源たる暖炉の火を囲んで、干し藁で編み物をしていた。全員、栄養状態が悪いのか痩せこけていた。
僕たちを見て驚く彼らに、「修道院をこっそり抜け出してきた"漂流者"です。ここがどんな場所かもおおよそ調べがついています」と説明した。イザークたちを倒したこと、銀の鍵を奪還したことは伏せてある。銀の鍵を奪い返し、僕たちを生贄に元の時空に戻る! と暴走されたら困るからだ。
ともあれこういった「設定」をベースに話を進めることにして、早速質問をしてみた。
「銀の鍵についてもある程度調べがついているのですが、1つ疑問があります。それさえあれば、未来を見通すことも、過去を改変することも可能だと思うんですけど……」
「なのに何故我らがこのような境遇に置かれているか、か?」
「はい」
話に応じてくれたのは、1人の老人だった。彼は元々ここで助祭を務めていたという。
「未来を見通せれば対策が打てるでしょうし、過去に遡って根本からひっくり返してしまうことも出来たはずですよね」
「前者はともかくとして、後者はやっていたよ。幾人も過去へと送り出したとも」
「……それでもこうなった、と?」
「うむ。というのも、過去の改変というのは時空を渡らなかった、残された者たちにとっては意味がないものだからな。例えばそうだな、私が銀の鍵を使って1分ほど前のこの部屋に行き、そこに小石を置いて帰ってきたとしよう」
老助祭は部屋の隅を指さした。
「この場合、今の君たちからは『部屋の隅に急に小石が現れた』ように見える」
「うん? しっかり過去改変に成功してるじゃないですか」
「この場合はな。しかし私が1分前の世界に行き、君たちのうち誰か1人を殺して戻ってきたとしよう。この場合、今の君たちからはこう見える――――私は戻ってきたが、君たちには特に何の変化もない。誰も死なない。その上、私が戻ってこない場合もある」
「……理由は?」
「大規模な過去改変を行った時点で、その世界は元の世界から分岐してしまうからだ。『私が何もしなかった世界』と『私が君たちを殺した世界』の2つにな」
世界分岐論が肯定された形だ。あるいは世界線理論のほうが通りが良いかもしれない。
「貴方が戻ってこない場合、というのは?」
「過去の世界で『本来知りえぬ何か』を知ってしまった場合だ。本来そこにあるべきではない情報を持つものは、意識的か無意識的かに関わらず『何も知らなかった場合』とは行動が変わってしまう、ということなのだろうな。この場合、私は元の世界には戻れない。私が行く先は『本来知りえぬものを知った私が、これから歴史を変えてしまう世界』だ。……まあ、私から見れば元の世界と見かけ上の区別はつかないがね。しかし、元の世界の者からは私が帰ってこないように見える」
「……なら、その理屈でいくと未来を見通す行為は……」
「うむ、未来に送った者が帰ってこなくなる。正確には『未来を知る者が帰ってきた世界』が新たに生まれ、元の世界とは違った歴史を歩むことになる」
それが「残された者たちにとっては意味がない」の理由か。過去や未来に人を送っても、元の世界の人たちにとっては「送った人が帰ってこない」うえに何も変わらない。
「じゃあ未来や過去に人を送っても全く意味がな……ってあれ、でもそれらをやっていたって仰ってましたよね?」
「うむ。未来にはともかく、過去には頻繁に人を送り出したよ」
「意味がないのに?」
「確かに我々にとっては意味がない。しかし、分岐した世界においては大いに意味があることだろう。ゆえに我々は祈るのだ、『別世界の我らに幸あれ』と。我々はたまたま苦難に満ちた歴史を歩んでしまったが、そうではない歴史を歩んだ世界もあるはずだ。我々はそれを信じ、過去に人を送り出すのだ」
彼はとても穏やかな表情でそう言った。仲間を殺され、自身も奴隷化されたというのに。幸せに生きているであろう別世界の自分を信じ、現状を受け入れているのだ。……壮絶な覚悟、あるいは信仰心だ。
「ところで、話しぶりからすると未来に人を送る行為はあまりやらなかったみたいですけど、それは何故なんです?」
「未来に行き、そして帰ってくるには、未来に行く者が銀の鍵を持っている必要があるだろう? しかし残された者たちにとっては『銀の鍵を持った者が帰ってこない』という状況になる。つまり、この世界から銀の鍵が消えてしまい――――この世界からの分岐が失われてしまうことになる。我々はそれを良しとしない。世界の分岐、すなわち可能性を潰すのは人が為して良い業では無いからだ。
……まあ、余程のことがあれば、銀の鍵を持った者を未来や過去に送り出そう、とは取り決めていたがね。イザークらに襲撃された時は、それをする暇も無かった」
脱出する暇もなく敗北した、と。ミハルさんから聞いたが、イザークたちはそれぞれ全く違う特殊能力を持っていたという。『意識の可視化』や『遠見』で警備の隙を突き、不可視の攻撃手段で奇襲、そして貴族として武術を仕込まれたイザークが斬り込んだら……まともな抵抗が出来る組織の方が珍しいだろう。
ともあれ、知りたいことは概ね知れたように思える。過去を改変したとしても、元の世界には何ら影響はない。ミハルさんを過去に送り出しても、僕やイリスには何ら影響はないのだ。
ただ「ミハルさんが修道院襲撃を中止させた世界」が生まれるだけ。僕たちからは観測出来ないにせよ、ちょっとだけ幸福かもしれない世界が生まれるのだ。この世界で起きたことは何も変わらないが、少しだけ気分は良くなる。
――――その後、僕たちは「イザークを倒す方法」を形式的に聞いてから小屋を立ち去った。
そして出した結論は、こうだ。
『ミハルさんを過去に送り出した後、自分たちは元の世界に帰る』
……本当は農奴化された人全員を、元の世界に返してあげたい。しかし鍋に蓄えられている魂は有限で、いくらナイアーラトテップの化身の魂があるとはいえ、全員を個別の世界に送り出せるだけの量はない。
というよりナイアーラトテップに何を言われるかわからないので、保身を考えればミハルさんを過去に送り出すために化身の魂を削るのは避けるべきなのだが……人の心を保つためには、これは必要な行為に思えた。
「どちらにせよ目覚めは悪くなりますが、せめてミハルさんを過去に送れば。……少しだけ、誇りを持って生きることが出来ます。悪しき化身は糾弾してくるかもしれません。しかし善き化身が助けて下さる。……そう、信じます」
フリーデさんはそう言った。……リスクは高い。しかしここで何もせず、『僕たち以外誰も救われなかった』ことを胸に抱えながら生きていくのは辛すぎるし――――その場合の行く末が、ミハルさんのような気がした。罪悪感に苛まれ、精神を病んでしまった彼の姿は、僕たちの未来を暗示しているように思えた。
だが『1人だけでも救った』『こうはならなかった世界を作れた』と思えば、少しだけ気が楽になる。独善的で、自己満足でしかないけれども。全てを救う力なんて無い僕たちにとって、ギリギリ妥協出来るラインだ。
「じゃあ、そういう方向で……出立はどうしよう、今すぐにする?」
「私たちは吹雪の真っ只中に戻ることになるから、食料やシェルターの準備をしないといけないわね」
「そういえばそうだった……」
「それに戦闘で疲れてるし、一晩休んで出立は明日朝にしましょ」
そういうことになり、僕たちは諸々の準備に取り掛かった。
◆
翌朝、修道院の前に僕たち【鍋と炎】とミハルさんは集合した。【鍋と炎】は装備を整え、食料やシェルターの資材を抱えている。そしてミハルさんは、農業小屋のほうからやって来た。
「何をしていたんです?」
「足枷の鍵を置いてきた。後は自分たちでなんとかするだろう」
「なるほど……ところでこの銀の鍵、彼らに返却しなくて良いんですかね。燃料だけ僕が供給して、彼らに送り出してもらうって手もありますけど」
「……やめておけ、死人が出る。銀の鍵があったら過去に人を送るなり、この修道院を元の時空に戻すなりしようとするだろう。そのためには当然、生贄が必要だ」
「あー……」
「それにお前たちが銀の鍵を持っていけば、それは『この世界の可能性を潰す』ことになる。もう、この悲劇が起きた世界からの分岐は失われるんだ。……その方が良いと俺は思うが……決めるのはお前たちだ」
「……いえ、そうですね。確かにここからの分岐は無い方が幸せでしょう。『ミハルさんが過去を変えに行った』という分岐だけで十分です」
全員が頷き合った。そして僕は、鍋から銀の鍵へと魂を注入した。昨晩のうちに、イザークが調べてまとめた、銀の鍵の使い方を記した文章を読んでおいた。なんでも、「行きたい時間と場所を念じる」だけで良いらしい。
……より正確に日時と場所を指定する方法もあるらしいが、この方法は人間には不可能とのことだ。年月日や地名などは結局、人間が定めた尺度でしかない。ヨグ・ゾトホートはそれとは全く違う尺度で時間と空間を認識しているので、その尺度で日時と場所を指定すれば良いのだが……神の尺度や思考なぞ知りたくないし、人間が理解してはいけないものだろう。
ともあれ、僕が差し出した銀の鍵にミハルさんが触れると、暫くしてから彼の背後に銀色の扉が現れた。恐る恐るミハルさんが扉を開けてみたが、その先は銀色の光に包まれており、先は見通せなかった。
「……まあ、飛び込んでみるしか無いか。この先が俺の念じた日時と場所に繋がっていると信じるしかない」
「そうですね。……そしてその先で、ミハルさんが無事に過去を変えられることを信じますよ」
「ありがとう、必ず変えてみせるさ。それだけは約束する。それ以外に俺が出来る礼なんて無いからな。……じゃあ、行くよ。お前たちの世界が、幸福であることを祈る。本当に世話になった」
そう言って彼は銀の光の中に飛び込み、その姿は見えなくなった。やがて扉が端の方からポロポロと崩れだした。過去への道が、閉ざされようとしているのだろう――――その刹那、僕たちの目前に虚空から1人の男が現れた。
「ッ……!」
咄嗟に武器を抜きかけたが、その男はひらひらと手を振り、柔らかい笑みを浮かべた。――――イザークから僕たちを救ってくれた男、アランさんだった。
「感謝するよ、クルト君。私はミハルと共に行く」
彼はただ一言そう言って、扉の中に飛び込んでしまった。その直後に、扉は完全に崩壊した。……取り残された僕たちはしばし唖然としていた。
「……結局彼は、なんだったんだろうね」
「さぁ……でも考えても仕方ないわ。ミハルさんと一緒に行っちゃったなら、ここに戻って答えてくれることも無いでしょうし」
「それもそうだね……じゃあ、僕たちも帰ろう」
僕は鍋の中のゴブリンの魂6個を銀の鍵に注いだ。……起動しない。足りないぶんを、ナイアーラトテップの魂を少しずつ削って注入する。およそ1/8ほど削り入れたところで、頭の中に1つの帯のようなものがイメージされた。始まりも終わりも見通せない、長い帯だ。……時間の流れ、なのだろうか。帯の模様は玉虫色で、模様があるようにも見えるし、全くのランダムのようにも見える。
ここで僕たちが吹雪の中遭難した時と場所を思い浮かべると、帯の中に自分が飛び込むような感覚を得た。……気づくと、僕はあの時の【鍋と炎】を空から眺めていた。吹雪の中、林の中を歩いている。そしてふと、先頭を進むヨハンさんの姿が掻き消えた。その後に続くルル、僕、フリーデさん、イリスも、順番に不可視の扉を
戻るとしたら、このタイミングが良さそうだ。元の世界からすれば、僕たちは「一瞬消えただけ」に見える。「ここだ」――――そう思うと、頭の中のイメージがパッと掻き消えた。気づけば目前に、銀色の扉が生成されていた。
「よし、たぶんこれで大丈夫……僕たちが消えた直後を指定したよ」
「たぶんって言葉、いざ我が身になるとそこはかとなく心配になるわね……」
「そうは言っても、本当に感覚的なものだったからさぁ……信じるしかないよ」
「それもそうね」
「じゃあ、行こうか」
扉を開けると、やはり銀色の光が目前に広がった。意を決して飛び込む。視界が銀色に染まるが、背後でイリスたちが後に続いたのはわかった――――次の瞬間、強烈な寒気に襲われた。
「――――クソ寒い!!」
顔に容赦なく冷たいものが当たっている。雪だ。吹雪だ! 周囲は白一面で、遠くに木々らしき陰が見える。――――僕が念じた通り、元の時空に戻ってきたのだ。
「野営準備!!」
「「「了解!」」」
イリスの号令のもと、修道院から拝借した資材で急ごしらえのシェルターを作るべく行動を開始した。……吹雪が治まった頃に出現するようにすれば良かったかな、と思いながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます