第237話「銀の鍵 その10」

【鍋と炎】は各々が持っている情報を共有した。


 女性陣がとても微妙な表情になった。フリーデさんが頭を振り、表情を引き締めて言う。


「情状の余地はありましたが、酌量の余地はありませんでしたね。やはり暴力して正解です。……でしょう?」

「アッハイ、そう思います。いかなる事情があろうとも、僕たちが奴隷になるべき理由にはならないですし」


 僕は小さく震えながら頷いた。なるほど即座に救援に来てくれたのはありがたいし、結果的に大正解なのであるが……少ない情報で即暴力に走った女性陣の恐ろしさ、そして壊滅的な要約能力を発揮したルルの知性に慄くしかない。


 ……ヨハンさんも非常に微妙な表情をしているのを見るに、裏で色々と動いていたのだろう。しかし暴力によって殆ど無駄になったのは察した。彼は「俺が得た情報はまあ、ミハルから聞いた方が早いだろうな」とミハルさんに話を振った。


 ミハルさんは気が動転しているのか、何かを語りだそうとしては口を閉ざすことを繰り返していた。……これはこちらから質問した方が早そうだ。


「色々知りたいことはあるんですけど……さっき僕たちを助けてくれた男性は誰なんです?」

「……アランだ。間違いなく、アランだった。死んだと思っていたのに……」


 ミハルさんは語る。


 アランさんはナイアーラトテップの恩寵受けし者ギフテッドたちの中でも、良い意味で異質な存在だったという。神学者だった彼は教養も相まって物腰穏やかで、一党の精神的支柱でありご意見番であった。


 そんな彼はナイアーラトテップの恩寵受けし者ギフテッドとなっても特殊能力を願わず、ただ知識のみを求めたという。――――そう、特殊能力の代わりに「常人が識りえぬ知識」を授かった恩寵受けし者ギフテッドだったのだ。


 故にヨグ・ゾトホートの力を利用すれば、この隔絶された修道院のような空間を作れることを知っていた。彼がナイアーラトテップに最後に願ったのは、「銀の鍵の在り処」の知識であったという。そして銀の鍵の在り処を知った一党は修道院襲撃を決め込んだが、それを一番悔いていたのはアランさんだったという。


 ……そして彼はある日良心の呵責に耐えきれなくなり、虚空へと身を投げて還らなかった。そして今一瞬だけ還ってきた理由や方法、それは不明だという。


「銀の鍵……これか」


 僕はイザークの死体の懐から、銀色の大きな鍵を取り出した。僕の掌より大きなそれは、ほのかに銀色に発光していた。銀製品にありがちな黒ずみは一切なく、銀色の光にしてもよく見てみれば様々なスペクトルを放っていた。境目の無い虹色。いや、じっと見つめてみればそれは単純な色の遷移ではないことに気づく。例えば赤はどこかの戦場に揺らめく炎だ。黄色は宇宙に浮かぶ衣。緑はその色の太陽に照らされた大地。青は海底から天を仰ぐ者の視点。紫は蠢く触手の塊から覗く複眼。ああ、紫と白の間の色も無限に分解していける。揺らめくあれは


「見つめるな」

「ッ……」


 ミハルさんの手が鍵を遮り、僕は我に返った。銀色の光の中に何を見たのか、つい今しがたのことだというのに記憶が朧気だ。だが今、人間が知覚してはいけないものを知覚しようとしていた気がする。


「大丈夫……?」


 そう案じてくるイリスの声から甘い味を、彼女の吐息から臓腑のかたちを、彼女の輪郭から魂の手触りを感じてしまい、ぎょっとする。……だが数回深呼吸すると、それらの感覚は消え去った。今のはヤバかった……。


「大丈夫、収まった。ミハルさん、これは一体何なんですか……?」

「ヨグ・ゾトホートの権能を『人間が知覚出来るかたち』に収めたものだ。……いや、鍵を見つめたお前が感じたように、人間が知覚してはいけないものまで知覚してしまうんだ、完全な代物ではないのだろうな。ともあれそれは、全ての時間、全ての空間への窓口になっている」

「えっ、じゃあこれがあれば僕たち元いた場所と時間に戻れるんじゃ!?」

「理論上はな。……だがそのためには対価が必要だ。人間の魂およそ10人分はな……マロシュが蓄えていたぶんはイザークが使ってしまったし、農奴たちを殺すしか方法が……」

「いやそのくらいなら、僕が持っているので大丈夫ですよ」

「は?」

「実はですね――――」


 僕は、自分がナイアーラトテップの恩寵受けし者ギフテッドであること、持っている鍋に『吸魂』の付呪が施されており、ゴブリンとナイアーラトテップの化身の魂が収められていることを話した。


「ゴブリンの魂は残り16体ぶんありますけど、人間換算だとどれくらいになるんでしょうね。まあ足りなければ最悪、化身の魂放り込めばなんとかなるんじゃないかなーと」

「えーと……うむ、意味がわからない……いや、本当に意味がわからない。えっ、化身って殺せるの? しかも魂ってその鍋みたいな物質に取り込めるの? えっ、じゃあマロシュが吸い上げた魂を自分の魂に溶け込ませて自我崩壊したのは無駄だったのか? それに化身ぶち殺して無事なら、俺たちが化身から逃げてた意味は??」

「いやこの鍋の製作技術は失われているので、僕も再現出来ないんですけど……マロシュさんは何というかお気の毒としか……あと化身ぶち殺しても大丈夫なのは、僕と化身……の一部の個体群と利害が一致したからです。多分これも再現性ないです」

「だろうな!! そうじゃなきゃ俺たちバカみたいだもんな!! ヨグ・ゾトホート信者ぶち殺して奴隷化するために、良心押し殺したり自ら狂うことで受け入れたりした意味がなくなるもんな!!」


 ミハルさんはキレた。……かける言葉がない。僕だって前クルトが残したこの鍋と、化身を殺害せしめる武力と決意を持った【鍋と炎】という武力集団が無ければ、今頃ミハルさんたちのように「とんでもない方法」でナイアーラトテップから逃れようとしていたか、さもなくば死んでいただろうから。


 僕自身の努力と決意の成果も勿論あるにせよ、「根本的に境遇に恵まれていたのでどうにかなりました」という人間が、それを持たなかった人間にかける言葉なんて無いと思う。


 ……ミハルさんがひとしきりキレ散らかし、落ち着くのを待った。


「……話を戻そう。とにかくその銀の鍵と、お前が蓄えている魂があれば元いた時間と場所に戻れる。だが1つ、頼みたいことがある」

「聞きましょう」

「それだけの魂があれば俺を、『俺たちが修道院を襲撃する前の時空』に送り出すことも可能なはずだ。どうか、そうして欲しい」

「……理由は?」

「アランを説得し、この修道院の場所を秘匿させるためだ。そうすればこの『襲撃され、隔絶されてしまう修道院』という時空はなくなり……俺たちに殺されたり農奴化されるヨグ・ゾトホート信者もいなくなる。俺たちが為した最後の悪事がなくなるんだ。

 ……俺は、どうにかして贖罪がしたい。俺からお前に差し出せるものは何も無い。身勝手な頼みだとはわかっている」

「…………」

「元々俺はなんとかしてここを脱出して、外で別のヨグ・ゾトホート教団を探し出し、この修道院のことを伝え、彼らに過去改変を託そうと思っていた。……望み薄なやり方だとはわかっている、自分が飛んだ先でヨグ・ゾトホート教団を見つけられるかも、彼らが銀の鍵を持っているかも運次第だからな。それに外の世界でナイアーラトテップが俺を見逃すはずがない、途中で殺されるのがオチだろう。……だがお前に協力して貰えれば、ナイアーラトテップの干渉なく確実に歴史を変えられるんだ。だから、どうか……!」


 ミハルさんはそう言って頭を下げたが、僕は首を横に振った。


「……残念ですが、引き受けられません。というのも……」


 僕はSF映画で見たことがある、『タイムパラドックス』の概念を話した。


 仮にミハルさんが歴史を変えることに成功したとして、その結果がどう僕たちが生きていた時代に影響を与えるのかわからない。仮にミハルさんたちが修道院襲撃を取りやめて元の世界に存在し続けたとして。その結果生きるべき人が死んでしまったり、死ぬべき人が生きてしまったりして、巡り巡って『イリスが生まれない』だとか、『僕と出会わない人生を歩んでしまう』だとか、そういう変化が起きる可能性がある。それは受け入れられない。


 完全に僕のエゴだし、考え過ぎかもしれない。ミハルさんが歴史を変えれば、少なくとも悲劇は1つ消せるだろう。だがその対価に僕とイリスが築いてきたものが無くなってしまうのは、可能性レベルであっても受け入れがたい。危険の芽を摘めるなら、摘んでしまいたい。


 ……自分で言っていて気づいてしまった。僕が何を犠牲にしようとしているのかを。何をしようとしているのかを。


「ミハルさん、貴方の気持ちは理解出来ます。……でも、受け入れません。そしてこの銀の鍵……きっとヨグ・ゾトホート信者の人たちにとって大切なもの……これも僕が持ち去ります。彼らが仮に貴方と同じことを考えて銀の鍵を使った場合、僕たちが歩んできた歴史が保証出来なくなるから」


 だから、そのために。絞り出すように、言う。


「僕はさせなければならないんです」


 農奴の人たちを全員、この修道院から出してはならない。ミハルさんもまた、出してはならない。彼らが歴史を変えることが無いように、ここに閉じ込めておかなければならない。


 ……彼らがここでゆっくりと滅びてゆくことを、強制しなければならない。――――いや、大事を取るなら


 そんなことはやりたくないが、やらねば自分たちの身に危険が及ぶとするなら、やらなければならない。……畜生、これじゃイザークやミハルさんがやったことと同じじゃないか。保身のために他人を踏みにじるなんて。


「……そうか。わかった、受け入れよう。考えてもみなかったよ、俺の過去改変が誰かの未来を踏みにじることになるかも、なんてな。……俺はもう、そういうのは嫌なんだ。だから受け入れるよ」


 ミハルさんはそう言って、肩を落としながら力なく笑った。……自己嫌悪と罪悪感がこみ上げてくるが、必死に押し殺す。……その時ふと、イリスが声をあげた。


「ねえ、あんたの言うタイムパラドックス理論? とやらはわかったけど、それが起こりうるとしたら、1つわからないことがあるわ」

「……というと?」

「銀の鍵なんてシロモノを持っている団体が、なんで僻地でひっそりと暮らしていたのか? ってこと。自在に歴史を変えられるなら、ナイアーラトテップ教会じゃなくてヨグ・ゾトホート教会が天下を獲っている世界だって作り出せたはずでしょ? なのに何でそうしていないの?」

「あ、あれ? 確かにそうだ……」

「それにミハルさん、銀の鍵って過去だけじゃなく未来にも行けるの?」

「可能なはずだ」

「だとすれば、貴方たちが襲撃しにくることもある程度は予見出来たはずよね。例えば大雑把に100年後の世界を見てきて、修道院が無くなっていたら……過去を改変出来るなら無限に対策を打ち出せるわよね」

「……ふむ」

「でも彼らはそうしなかった。何故? リスクやリソースの問題があったのかもしれないけど……それがだったから、って可能性もあるわよね?」

「意味のない行動? 歴史改変が? ……あっ」


 ……イリスの言いたいことがわかってきた。そうだ、時間旅行モノのSFには2つの解釈がある。1つは僕が考えるように「過去を改変すると未来に影響が出る」というもの。


 もう1つは、「過去を改変した時点で世界が分岐してしまう」というもの。元の世界から「改変された世界」が分岐し、それぞれの世界は何ら影響を与え合わず、別々の道を歩んでゆく。故に元の世界で暮らす人々にとっては歴史改変なぞ意味はない、と考えられる。


 ……この解釈なら、少しは救いがある気がする。「修道院が襲撃された世界」は慄然と存在し続けるけど、「修道院が襲撃されなかった世界」――――ほんの少しだけ幸せな世界も、同時に存在出来る可能性がある。気休めで、自己満足かもしれないが、やらないよりはマシと納得することは出来る。


「……農奴化されたヨグ・ゾトホート信者たちに聞きにいきましょ。もしかしたらミハルさんを元いた時空に送り出しても、私たちには何ら影響が無いかもしれないわ」


 すっかり「最悪の可能性」ばかり考えていたが、少しだけ希望が見えてきた。もしかしたら「いや、タイムパラドックスが起きるよ」と一瞬で否定されてしまうかもしれないが、そうではない可能性もある。行動を決めるのは、それを確かめてからでも遅くはないはずだ。


「じゃ、インタヴューしにいきましょ」


 イリスはそう言ってから、ばつの悪そうな顔でルルとフリーデさんを見た。


「……今度は穏便な感じのをね」

「「ソウデスネー」」


 ……女子寮で具体的にどんな会話が為されたのか気になるが、怖いので触れないでおこう。知っておくべきこともあるけど、知らなくて良いことだってあるんだ。銀の鍵から発せられる光の中に見たものと同じだ。多分。

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