第233話「銀の鍵 その6」

 暖炉の前の椅子に腰掛け、柔らかな笑みを浮かべているイザークさんと向かい合う。……暖炉の薪は芯から燃えており、とても十分かそこら前に火をつけたという感じではない。


 暖炉では最初僕たちにスープを配ってくれた老人が、食事を作っている。しかし彼は陰鬱そうな表情のまま、まるで僕とイザークさんがいないかのように黙々と料理を続ける。イザークさんもまた、彼を気にした様子もない。


 ぱち、と薪が小さく弾けたのを皮切りに、イザークさんが話し始めた。


「ふふ、随分と彼……ヨハンさんには嫌われてしまいましたね。まあ異端の修道士、司祭となれば警戒するのも無理はありません」

「す、すみません……」


 態度でバレていたか。……いや、あるいは会話を聞かれていたか? と焦るが、イザークさんは笑みを崩さない。杞憂、なのだろうか。


「謝ることはありませんよ、。ですからこうしてお話を聞いて頂けるのは、私としても非情に嬉しいことなのです。本当に、久しぶりです」

「そうなんですか……?」

「来訪者自体が珍しいですしね。さて、お話する前に1つ確認しておきたいのですが。クルトさんは『信心深くない』と言われていましたが。ずばり、神を信仰することそれ自体に意味を感じないタイプですか? それとも、ナイアーラトテップ様の教えが肌に合わないタイプですか? ああ、言うまでもなく私は異端者ですので、どう答えても怒ることはありません」

「後者ですね」


 前者と答えた場合、「神を信仰する意味とは」という話を延々とされる恐れがある。僕の目的はこの修道院の秘密やヨグ・ゾトホートの教義を知ることなので、「ナイアーラトテップが嫌いだ」と振る舞っておく。この方が警戒を解きやすいだろうし、事実ナイアーラトテップが嫌いな上に、その化身をブチ殺して回っているくらいなので嘘にもならない。


「具体的にはどのようなところ肌に合わないと?」

「んー……混沌を善しとするところ、ですかね。種族や性別関係なく入り交じるのを善しとする、みたいなところは良いんですけど。なんというか、それでが引き起こされるのは違うんじゃないか、みたいな」


 今回のゴブリンマザー退治の発端となった、ヴィースシュタイン市での出来事のように。ナイアーラトテップは人を混乱させるために活動している。


 子宝を願う男の気持ちを利用して儀式を行い、貧しい子供を犠牲にして。……結果、クレッツェ村の4000人は死に絶え、タオベ伯の嫡男も戦死した。彼らはナイアーラトテップさえいなければ、今も元気に生きていたはずの人たちだ。


「深い知見ですね。そう、混沌を善しとするとは、『混乱による犠牲』を受け入れるということです。世の人々は混乱が起こっても、『これにはナイアーラトテップ様の深慮が秘められているのだ』と解釈します。『混乱から立ち直った時、人は強くなるのだ』と。

 ……実に巧みな考え方です。どんなに酷い混乱が起き、犠牲者が出たとしても、前向きに考えられてしまう」

「ほとんど洗脳、ですよね」

「その通り。ナイアーラトテップに疑いの目が向かないような思考方法を刷り込まれているのですよ、多くの人は」


 イザークさんは深く頷いた。……取り入ることが出来ただろうか?


「……私は最初お会いしたとき、『精神病患者にはヨグ・ゾトホート様の与える長い安息が必要だ』というようなことを言いましたね。あれは事実ではありますが、私がヨグ・ゾトホート様に帰依した根本的な理由ではないのです」

「と言うと?」

「私はね、『混乱による犠牲』を看過出来なかったのですよ。ナイアーラトテップが引き起こす混乱、その犠牲になるのが」

「そうですよね、世界が善くなるとしても、そのために死ぬ人たちにとっては―――――」

「いえ、違います。あれなる神格には、世界を善くするなんて高尚な考えはありません。ただ己の根源的な欲求、いやその機能に従って混乱を引き起こしているだけです」


 ヴィースシュタイン市に現れたナイアーラトテップの化身、ラニーアとの会話を思い出す。


『葉の一枚が、このあと幹がどうなるか考えて動くとでも? 私たちの個は機能よ。そういう機能を持っているから、そう動くだけ』

『……そしてお前は。お前たちは、混沌をもたらす機能を持った神。ただそれだけだ。違うか?』

『正解』


 ――――イザークさんは、ナイアーラトテップの化身その人が語ったのと全く同じことを、理解している。何故その考えに至ったのか。あるいはヨグ・ゾトホート教会で連綿と受け継がれてきた教えなのか。急に、底が知れなくなってきた。


「私はね、そんな神格の犠牲になるのは嫌だったのですよ」

「ちょ、ちょっと待ってください。その考え方って……」

「何故断言出来るのか疑問ですか? どうしてその考え方に至ったのか、あるいはどこで知ったのか?」

「ッ……はい」

「これはこの修道院の来歴にも関わることですが……実はですね、今ここに居る修道士・修道女たちは皆、ナイアーラトテップの恩寵受けし者ギフテッドのですよ」

「――――は?」


 イザークさんは料理を続ける老人の肩に手を置いた。


「私も、彼も、ミハルも。皆、ナイアーラトテップの恩寵受けし者ギフテッドだったのです。……ふふ、懐かしいなぁ。最初に力を授かったときは、いたく感激したものです。『ナイアーラトテップ様の御心に従い、世界をより善く変革するのだ』と意気込んだものです。……今思えば、実に浅はかでした」

「それは、一体……」

「ナイアーラトテップは時に啓示を与え、時に化身を降ろし指示を与えました。私たちはそれに従って行動しました。……でもね、そのうち気づいたのですよ。自分が動けば動くほど、混乱が起きるということに。そして人が死んでいくということに。

 最初はそれでも『これは必要な犠牲なのだ』と解釈していました。でもね、ある時気づいたのです。ナイアーラトテップが、人が死ぬことそれ自体を喜んでいることに」

「ど、どうやって気づいたんですか?」

「私は化身本人の口から直接。貴方たちに掃除してもらった部屋の元あるじ、今は亡きアランは、聡明にも推測で辿り着いたようですが」


 アランさんはともかく、イザークさんは僕と全く同じじゃないか。


 彼らはナイアーラトテップの恩寵受けし者ギフテッドで、僕と同じようにナイアーラトテップの本質に気づいた。衝撃的ではあるが、それよりも先に疑問と不安が募ってきた――――それに気づいた彼らは、どんな目に遭ったのか。


「それで、貴方たちはその後どうしたんです……?」

「聞いたことはないですか? 恩寵受けし者ギフテッドは最終的に発狂し、世界に致命的な混沌を引き起こすと。それゆえ教会は、認知した恩寵受けし者ギフテッドに『護衛』という名目で監視官をつけるのですが。発狂しそうな恩寵受けし者ギフテッドを事前に始末するためにね」


 フリーデさんの本当の役割ってそれかよ! ……彼女は直接ナイアーラトテップの悪性を目の当たりにしたお陰で、僕がナイアーラトテップの化身を殺して回る状況を受け入れているが。何か順序が違ったら、「こいつ発狂したな」と見なされて僕は彼女に殺されていたかもしれないと思うとぞっとする。……いや、これからも殺される可能性はあるのか。


「ともあれ我々は、発狂すれば殺される状況下にあったわけです。……その上でナイアーラトテップが何をしてきたかと言うと」

「発狂させようとしてきた、とか?」


 ヤツが僕に人狼をけしかけたり、『魂の可視化』や『意識の可視化』など、どう考えても人間の精神に良くない能力を与えたりしたように。


「……聡いですね。正解です。多分、ナイアーラトテップは楽しんでいたのでしょうね。自分から力を授かった人間が、意のままに混乱を引き起こし。発狂してさらなる混乱を引き起こすのか、教会に始末されるのかを眺めて。……我々恩寵受けし者ギフテッドとしてはたまったものではないですよ。

 確かに我々は混乱を引き起こし、多くの人を死に追いやりました。しかしそれはナイアーラトテップに騙されていたからです。……それで狂死されられるか、教会に殺されるかだなんて、納得出来なかった」

「それが、ナイアーラトテップ信仰をやめてヨグ・ゾトホート信仰に移った理由なんですね?」

「ええ」


 わかってきた。ナイアーラトテップの恩寵受けし者ギフテッドで、ヤツの悪意に気づき、そしてヤツから攻撃を受けたという点で、僕と彼らは全く同じなのだ。


 僕はナイアーラトテップの化身、その一部と取引することで『泳がされている』状態になっている。恐らく、化身を直接殺害出来たのが大きな転機だったのだろう。増えすぎた化身を殺し、統合すること。それを手伝うことで、僕は生かされている。


 ――――だが、イザークさんたちは別の方法を採って生きながらえたのは確実だ。……そしてその『別の方法』が、この修道院の来歴そのものなのだろう。


 予想外ではあるが、この時点でかなり情報を引き出せている。僕も恩寵受けし者ギフテッドだということを明かせば、もっと話が早いかもしれない。何せ僕も彼らも、同じ「ナイアーラトテップの被害者」なのだから。平和裏にイリスたちを取り返し、脱出するための取引だって出来るかもしれない。希望が見えてきたことに安堵する。


「長くなりましたが、ここからが本番です。私たちがナイアーラトテップと教会からどう逃れ、どうヨグ・ゾトホート様の恩寵に預かり、どうやって暮らしてきたか。知りたいですか?」

「はい、教えてください」



 同じ頃。


 女子寮でも、イザークが話していたのと同じ内容が、修道女によって話されていた。


 ――――ルルに対して。


「……というわけです。ここまでは理解出来ましたか?」

「はい!」


 彼女は何も理解していなかったが、元気よく頷いた。「ご飯と寝床貰ったんだし、お話くらいは聞いてあげないとなー」という気遣いである。


 ルルが修道女に目をつけられた理由は至極単純、「最も絆しやすそうだから」であった。それは事実である。修道女の人を見る目は正しかったが――――これが後に致命的な事態を引き起こすことになる。

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