第210話「地に満ちるもの その9」
空の真上に昇った月に照らされたラニーアさんの顔には、嘲笑が浮かんでいた。ビーノ少年を拘束した彼女は、旧墓地の丘の頂点に
どうやってここに――――そういった質問を先読みするかのように、彼女は口を開いた。
「お話ししたら獄吏も門番も、快く通してくれましたよ。……ああ、この距離だと貴方には感知出来なかったかしら」
僕はナイアーラトテップの化身が洗脳能力を使用した場合、感知出来る。だがその有効距離まではわかっていない。旧墓地からヴィースシュタイン市までは数百メートルある、少なくともこの距離は不可能と証明された――――いや、今はそんなことはどうでも良い。ラニーアさんは、いやこいつは、僕にそういう能力が備わっていると知っている。ということは。
「貴女が。いや、お前がナイアーラトテップの化身か……!」
「正解。その口ぶりだと、可能性は捨てきれないけど概ねシロと判断していたって感じかしらね。いやぁ我ながら名演技だったと思うわよ、貴方たちはともかく衛兵や獄吏なんて、私を良妻だって信じ切って尋問も手ぬるかったもの」
ラニーアはくつくつと笑う。苛立ちが募り、彼女に銃を向けてにじり寄ろうとするが、ラニーアはビーノ少年の顔にナイフを突きつけて制止した。
「おっと。この子がどうなっても良いのかしら?」
「お前……!」
ビーノ少年は人質に取られたかたちで、これでは僕たちは手出し出来ない。だがイリスは視界が確保されたことを利用し、無言でハンドサインを出した。ルル、ヨハンさん、フリーデさんが遠巻きにラニーアを包囲するように動く。衛兵分隊もアルトゥル捕縛のために1人残り、あとの2人は包囲網に加わった。ラニーアは露骨に不快そうな表情をする。
「小賢しいわね。全員、武器を置いて10歩下がりなさい。それ以上近づいたらこの子の命は保障しないわよ」
僕たちを無力化したら、ラニーアはアルトゥルがやろうとしていた儀式を完遂しようとするだろう。ビーノ少年が殺されるのは看過し難いが、さりとて儀式の結果引き起こされる事態も受け入れるわけにはいかない。
ちらと空を見る。風は未だ強く、雲の流れは速い。もう一度月が隠されれば、今度は暗闇が僕らの味方になるのではないか? 僕はともかく、隠密に優れるヨハンさんなら闇に紛れてラニーアに近づけるはずだ。……儀式の阻止、ビーノ少年の救出。両方を達成するには時間を稼ぐしかない。僕は銃を下げ、ラニーアと対話を試みることにした。
「目的は何だ。何をしようとしている」
「薄々気づいているのでしょう? 豊穣神……と貴方たちが捉えている神格、シュプ=ニクラートの力を借りて、子宝を授かる。それがアルトゥルの目的」
「そうだ、俺たちに子供を! 何も残せない、残すことを期待されなかった俺に子供を授けてくれ、ラニーア!」
拘束されているアルトゥルが叫ぶ。それは必死の懇願であり、心からの希求に聞こえた。
「何かを残すことを期待されなかった……?」
「農村の次男坊、三男坊なんざそんなものだ。口減らしのために村を放り出され、帰ってくることなんざ誰も期待しちゃいない。兄貴は楽なもんさ、親が用意した嫁、親から継いだ農地がある。自分が死んでも子と農地が"自分が生きた証" として残る……だが俺はどうだ? 故郷の連中は、俺なんざとっくに野垂れ死んだと思って忘れてるだろうさ。……ならよぉ、俺が、俺が生きた記憶を残すためには、子供を作って育てるしかないじゃないか」
それがアルトゥルがシュプ=ニクラートの力を借りようとした動機。……少しだけ、僕は共感を覚えてしまった。身一つでこの世界にやって来た手前、自分が生きた証を残すためには、僕のことを子孫に語り継いでもらうしかないからだ。
僕がひいお爺さんより前の世代のことを知らないように、いつか記憶は忘れ去られるだろう。だが血だけは残る。
死ぬのは怖い。だが何かを残せれば、その死も受け入れやすくなる……のかもしれない。そう思った時、ラニーアが嘲笑を深めていることに気づいた。
「……何がおかしい?」
「いや、実に
「ラニーア……?」
アルトゥルが困惑する。彼はラニーアのこういった面は知らなかったのか。今この瞬間、ラニーアは初めてナイアーラトテップの化身としての本性を表しているのだ。……雲はまだ月にかからない。アルトゥルには酷だが、時間稼ぎのために対話を続けねばならない。
「教えて欲しい。お前とアルトゥルの間に子供が出来なかったのは、不幸な偶然なのか?」
「まさか! 何故私が、
「ラニーア、何を言って……」
「そこのバカな男にシュプ=ニクラートを希求させるため粘膜の擦り合いには応じたけど、体内の精を焼くなんて造作もないこと。私が望まない限り、絶対に孕むことはない。……ああ、不幸な偶然といえば、貴方たちが来てしまったことかしらね? せっかく儀式の手順から露見した場合の戦闘法まで教えたのに、結局私が手を貸さなければならなくなるなんて」
アルトゥルは愕然としている。彼は子孫を残したいという思いを利用され、知識を吹き込まれていただけ。……だが、だとしたら。
「わからないことがある。お前に子を授かる気が無いとすれば、シュプ=ニクラートの力を借りるのは一体何のためだ?」
「誰だって自分の苦手なことは他人に仕事として回すし、やりたくないことは他人に押し付けるものでしょう? 丁度、この子とその親が墓守を押し付けられているように。それと同じこと。私は定命の繁殖に手を貸すのは嫌……というより、その手の術は苦手なのよね。増やすよりは刈り取るほうがずっと楽だし。だから委託する」
「何が言いたい……?」
「厳冬期にモンスターが異常に増えたら。食料の奪い合いになるでしょう?」
シュプ=ニクラートの
「……あれをもっと大きな規模でやる気か!?」
ラニーアはにっこりと笑った。奴の目的は、ゴブリンマザーのようなシュプ=ニクラートの
「さて、話はそろそろ終わりにしましょう……クルト、貴方の持っている楔石。それを元の位置に埋め戻しなさい。さもなくばこの子を殺す」
「ヒッ……」
ラニーアはビーノ少年の胸元にナイフを押し当てた。……丁度、大きな雲が月に向かって流れていた。あと少し、あと少しだけ時間を稼げれば。そう思った時、衛兵分隊の1人が声をかけてきた。これ幸いと説明を試みる。
「おい、一体どういうことなんだ……?」
「奴らは、古い神格を呼び出して……野にモンスターを溢れさせ、食糧危機を引き起こそうとしています。絶対に止めなければ大変なことに……」
「じゃああの女の要求には従っちゃダメってことだな」
「はい。でもそうするとビーノが……」
ここで倫理観に関する葛藤を見せて時間稼ぎをする。雲はもう少しで月にかかる。あと10秒か20秒稼げれば。……そう思ったのだが、衛兵たちは憤慨したように吐き捨てた。
「馬鹿な。多数の市民の命がかかっているんだ、ガキ1人の命と釣り合うわけないだろうが」
「そ、それはそうかもしれませんけど」
「特に奴は賤民の子だ、生死を気にかける必要はない。衛兵隊、あの女を止めるぞ。事ここに至っては殺害もやむなしだ、行くぞ!」
「は? ちょっ……」
あんまりな言葉に呆気に取られる僕をよそに、衛兵分隊はラニーアに向かって駆け出してしまった。丁度月が隠れだしたのか、ラニーアの姿がゆっくりと影に覆われ始めた。
「くっそ、突撃、突撃!!」
やけくそになりながら突撃を指示し、僕もラニーアに向かって駆け出す。ラニーアとビーノ少年の姿が影に覆われてゆく中、2つの声が聞こえた。
「――――まあ、魔法陣は不完全だけど。生贄で補えば良いかな?」
「痛い痛い痛い! 誰か、誰か助けて!」
「千匹の黒い仔山羊を産みし者よ。汝の顕現を望み地に潜んだ古き魂に、犠牲の血を
ラニーアの嘲笑混じりの詠唱と、ビーノ少年の悲鳴。
「何をしている!? やめろ、やめろーーーーッ!!」
絶叫しながら駆ける中、月の明かりが消えた。
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