第161話「すれ違い その2」

 語学留学(短期ではあるが)を決意したのには理由がある。大学の図書館で借りてきたサリタリア語の本の翻訳に、ヨハンさんが音を上げたからである。


「これ学術論文だろ……意味のわからん単語もあるし、全体として何言ってるのか俺にはわからん」

「ま、マジですか」


 ちなみに借りてきた本のタイトルは「星界の使者」というものだった。確かに難しそうだなとは思ったが、大学の図書館でサリタリア語のものはこれしかなかったので、選択肢が無かったのだ。


「まぁ確かにお前さんに教えてない単語も沢山書かれてるさ、だがこれを翻訳しながらサリタリア語勉強するってのは、ちょいとハードル高いと思うぜ。何より適宜翻訳する俺が眠くなる」


 確かに、僕が想定していたのはおとぎ話や日記の類を翻訳していくようなもので、いきなり学術論文を翻訳するのは慮外だ。というか無理だろう、高校1年までやった英語でさえ、英語の学術論文を自力で翻訳できるかと言われたら、無理だ。


「じゃあ翻訳作戦はダメですか……」

「自叙伝みたいなのが手に入ればよかったんだがなぁ……まあノルデンじゃ手に入らんのも無理はない」

「となるとやっぱり、現地を旅行して学ぶしか無いですか……」

「あるいは、現地でサリタリア語の簡単な本を仕入れて来るかだな」


 だが冒険者ギルドの大半が東方遠征中の今、残留組は市から離れられない。――――そんな折だったのだ、市への残留が解除されたのは。


 イリスはハイエルフ語の解読をやりたそうにしていたが、「結婚前に何か思い出を作るのも良いかもね」と最終的には承諾。ルルは「美味しいものが食べられるなら!」と承諾。フリーデさんは2つ返事で承諾。


 あれよあれよという間に、パーティーぐるみでの旅行が決まった。無論、僕の我儘なので全員ぶんの旅費は僕持ちだが、信頼できる護衛と考えれば安いものだ(何せ山賊などが現役で存在する世界だ)。


 各方面に旅行に行く旨を伝えると、殿下からは「じゃあついでに、銃がどれくらい普及し始めているか調べて来い」と言われ、イリスの家族からは「南方の商人と顔繋いで来い、銃の販路になるからな」と言われ、ついでにお土産を大量に依頼された。


 ……タスクは増えたが、どれも然程手間がかかるわけではない。


 そういう訳で12月3日、僕たちは南方に向けて出立した。目的地はインデアブルックという街だ。帝国内ではあるが、サリタリア人も多く住むところらしい。本当はサリタリアまで行きたかったのだが、「年内には帰ってきたい」という意向もあり(年末にはクリスマスに相当するお祭りがあるらしい)、ここが目的地になった。片道10日ほどの旅程だ。


 この旅行は馬車を利用しての「贅沢な旅」になったのだが……


「……尻が痛い」

「まあ高速馬車はね……」


 今回乗ったのは人を高速で輸送するための4頭立ての馬車なのだが、これがまた乗り心地が非常に悪い。何せサスペンションが無いので、高速で砂利道を走ると、その衝撃がモロに尻を直撃するのだ。


 片道10日というのは馬車などを使用した場合の話で、徒歩だと平気で片道1ヶ月はかかるからやむを得ない。


「速度には変えられないにせよ……結局この馬車、1日にどれくらい進めるの?」

「砂利道だとまァ、60kmって所ですかねぇ」


 答えてくれたのは御者だ。


「道路が石畳なり何なりで整地されてて、ついでに万全の替え馬もありゃ200kmはいけるんですがね。まァノルデンではどだい無理な話ですわな」

「殿下の道路整備計画に期待ですね……」

「違いねぇや」


 それでも徒歩よりは断然早い。何せ軍隊だと規模が大きいと1日10km、冒険者のような軽装・小規模団体でも1日20kmから30kmが限界なのだ。相当に無理をすれば40kmはいけるらしいが、そう何日も続けられない。


「やっぱり馬って凄いですね。人間の数倍の速度で走れるんですもん」

「そうでしょうそうでしょう。まァ適宜休憩と交代は必要ですがね」


 馬車から後方を見てみれば、2人の騎兵(馬車の護衛だ)に連れられて4頭の換え馬が着いてきている。速度を維持するために、馬車馬だけで8頭の馬が必要なのだ。本当は駅のような場所を作り、そこで休ませておいた馬に交換するのが良いのだが、帝国ではそのようなシステムはまだ無い。


 ちなみに、この馬車のチャーター料は金貨が吹っ飛ぶレベルのお値段だった。8頭の馬車馬、4頭の護衛の馬(護衛の馬も換え馬が必要なのだ)、これが今回引き連れている馬の総数だ。それらに食わせる飼葉料に加えて御者や護衛の人件費もかかる。馬車はとてつもなくコストがかかる乗り物なのだ。


 やがて休憩に訪れた村につくと、馬たちは川の水をがぶがぶと飲み始めた。もの凄い勢いだ。その間に御者たちが、村人から飼葉を買い付けている。


「……大量の水も必要なんだね、馬」

「そうよ。内戦の時、殿下は行軍経路に川沿いを選んでたでしょ。あれは河川輸送の便が良いからだけじゃなくて、騎士の馬を養う意味もあるのよ」


 イリスに言われて思い出した。確かに延々と川沿いを進んでいたが、そういう意味もあったんだなぁ。


「なるほどねぇ。ちなみに、途中に川とか水場が無い時はどうするの?」

「馬車に水を積んでいく、みたいな話になるけど……めちゃくちゃ効率悪いから、普通はやらないわよね。そういう場所には人間が徒歩で行くしか無いわ」

「……ねえ、そういう場所にある村だってあるよね? もしかして流通が徒歩の行商人頼りだったりする?」

「そうなるわね」


 人間が運べる物資の量なんてたかが知れている。接近経路に水場が無い村は、殆ど外部から遮断されたような状態になっているのではないか――――そんな推測が出来る。


「沢山あるぜ、そういう村。麦は沢山穫れるのに、売る先が無いから現金が手に入らない、だから何も買えない……みたいな村はな。何度か行った事があるが、あまり気持ちの良い所じゃあないな」

「そうなんです?」

「外部との接触が少ないせいか、変な風習が残ってたりな。おまけによそ者嫌いが多いし、気味の悪い村が多いよ」

「……何となくですけど、想像がつきますね」

「うむ。まあそういう村は現金に餓えてるからな、カネさえあれば潜伏場所としては重宝するがね。騎馬の追手が居る時は……」

「詳しいですね?」

「……スラムで生きてるといらん知識も増えるんだよ」


 そう言ってヨハンさんはそっぽを向いたが……スラムと辺鄙な農村は関係ないのでは? この人、どうにも堅気の職業出身じゃない気がするんだよな。まあ今信頼出来れば、僕としては出自がどうでも構わないのだけども。


 この日は何度か休憩を挟みつつ馬車で進み、小さな街の教会宿で夜を過ごした。街の食堂に蒸し風呂があったので、痛んだ尻をほぐす事が出来たのが幸いだった。

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