第119話「語学訓練」*

 朝食を摂って行軍開始。行軍中、ヨハンさんが偵察に駆り出されていない時はサリタリア語を習う事になった。テキストなど無いので、ひたすらに「音」を覚える作業だ。学校の英語教育だとテキストを見ながらという事が殆どだったので、これは新鮮だ。


「Puttana」

「ぷったーな」

「違う違う、もっと音を良く聴け。Puttana」

「Puttana」

「良し、文を加えよう。Ti amo, puttana」

「Ti amo, puttana」

「筋が良いじゃないか。完璧な発音だ」

「ありがとうございます。……ところで今の、どういう意味なんです?」

「"愛してるぜ、売女ばいた"」

「…………」


 睨むとヨハンさんはげらげらと笑った。僕で遊んでるなこの人?? だがこんなの絶対に学校じゃ習わないので、どこか楽しんでいる自分も居る。


「こいつは実践的な会話文だぜ、何せ男が他国語を覚える一番安上がりな方法はな、ねんごろになった外国人娼婦にベッドで教えてもらう事だからな。娼婦を口説く文句から覚えるのさ」

「本気で言ってます??」

「本気さ、俺だってプリューシュ語を覚える時はそうしたんだ」

「イリスに睨まれるから僕には真似出来そうにないですねぇ」

「だろうなぁ。まあ今のは冗談として、会話文と単語を音ごと丸暗記するのが語学習得の最短ルートだ。覚えた会話文の各単語を入れ替えるだけで最低限カタコトで喋れるようになるからな。そこまでいきついたら、あとはサリタリア語話者と会話しながら細かい所を訂正して貰えば良い」

「なるほど。なんか新鮮ですね、こういう語学勉強方法は」

「日本じゃ違うのか?」

「文法から始めるかと」

「そりゃ独学で、本読みながらやる時のやり方じゃないかね。近くに話者が居るならそいつに間違い訂正してもらえば良い、文法なんてそれで勝手に染み付くだろ」

「あー、日本だと20~30人の生徒に1人の教師ですからねえ、それは難しいんじゃないかと」

「なるほどな。……っていうかそんなに外国語覚える生徒が集まるのか?」

「義務教育なので、日本国民は11歳から全員始めますよ。今は9歳からになったかもですが」

「国民全員に英才教育施すのか、日本は?」


 そう言ってヨハンさんは天を仰いだ。この世界基準だとそれは英才教育になるのか?というかこの世界の教育水準ってどんな具合なんだろう。


「こっちの世界の一般的な教育ってどんな感じなんです?」

「基本的には両親から習うんじゃないかね。あとは教会で聖典を読むために文字を教えたりはするが、それに参加出来るのは余裕がある家庭の子だけだな。家の仕事を手伝わにゃならん家庭は参加する余裕なんて無い」

「……両親が無学で、余裕も無い場合は?」

「おう、もれなく自分の名前すら書けない無学な子の出来上がりだ。というか、商売人の家庭でも無い限りはそんなもんじゃないかね。文字の読み書きが出来るのは人口の1割程度なんじゃないか?3割は絶対に超えないと思うぞ」


 そりゃ幼少期から外国語をやるのが「英才教育」扱いになるわ。まず自国語の文字すら書けない人が大半なんだから。


「……そういった状況が変わるよう、教会は動いておりますよ」


 そう言うのはフリーデさんだ。


「どういう事です?」

「現在、聖典と文字習得用のテキストを安く頒布はんぷ出来るよう準備中です。……ウドが付呪に使っていた活版とやらを覚えていますか?あれを接収した教会が、写本に活かせると気づいたのです」


 すっかり忘れてた。確かにあれを使えば、手書きの写本しかないこの世界の本の価格に革命を起こせるのでは、とは思っていたが、その後のゴタゴタですっかり忘れてしまっていた。いやまあ、商会の運営で一杯一杯だし活版に手を出す余裕なんて無かったけどさ。


「写本が安く出来るって事かい?」

「そうです。安くテキストが頒布出来れば識字率が上がる。そこに安く聖典が頒布出来れば多くの人々が聖典を読める。一家に一冊聖典という夢の時代の到来です」

「ま、まあそれは大変結構な事だと思うが。写本の値段が崩れたら牧師見習いと学生に恨まれないか?」


 はて、何故彼らが困るのだろう。聞いてみるか。


「どういう事です?」

「いや、写本の担い手は牧師見習いと学生なんだよ。写本は基本的にカネが無い彼らの重要な収入源なはずだが」

「大丈夫です、布教のための犠牲とあらば喜んで受け入れてくれるものと確信しております」


 そう言ってフリーデさんは平均的なバストを張った。僕はヨハンさんと目を合わせ、「やべーぞこの狂信者と教会」という気持ちを共有した。多分受け入れてくれないぞそれは。……いや、これは教会がやってくれて良かったのかもしれない。僕が活版に手を出していたら、絶対多くの人に恨まれてただろうし。頭のおかしい教会がその役目を担い、本の価格を下げてくれれば僕ら一般市民はノーリスクで安い本が手に入るのだからむしろ感謝すべきなのかもしれない。ありがとう頭のおかしい教会。


「……ま、いずれにせよサリタリア語のテキストが手に入るのは随分先になるだろうな。今は耳と口で勉強するとしよう」

「そうですね……」


 再びサリタリア語の授業が再開し、行軍中ずっと日常会話文を音で覚えた。行軍中に見える景色をヨハンさんがサリタリア語で表現し、それを覚えるという形式を取った。これは旅の記憶と絡んで覚えやすい。


 なお、【鍋と炎】の他の面子も僕らの会話を聞いていたようで、休憩中にカタコトのサリタリア語で会話するのがちょっとした遊びになった。


「てぃあーも、ぷったーな!」


 ルルがそう言いながらパンを頬張った。恐らく「Ti amo, paneティアーモ、パーネ (愛してるよ、パン)」と言いたかったのだろうが、面白かったので誰も訂正しなかった。

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