第56話「暗殺者」

 ゲッツの護衛の少年がトイレに入ったのを確認して、彼は祝宴の会場に向けて廊下を歩き出す。ナイフスロワーである彼にとっては盾持ちが一番の障害だったので都合が良い。残るは魔法使いと槍使いの小娘達だが、これは大した障害にはならないだろうと踏む。仲介人が情報を寄越さなかったせいで、護衛兵の実力は未知数だ。己の鑑定眼と勘に頼るしかない。身のこなし、年齢から察するに彼らは然程の強敵ではないというのがバルドゥイーンの認識だった。


 彼の名はバルドゥヴィーノ。レムニア出身の暗殺者で、こちらではバルドゥイーンと名乗っている。


 バルドゥイーンが仲介人から受けた依頼はゲッツの暗殺。歴戦の騎士にして冒険者である彼は、平時であれば余程隙を突かねば仕留める事は適わないであろうが、祝宴とあらば酒も入っており、おまけに厄介な鎧も着てはおるまい。毒を仕込んだナイフが肌をかすめでもすればそれでお終いだ。腰に吊った日用ナイフにはべっとりと毒が塗り込まれていた。さらには予備のナイフ12本にも。本来であれば料理に毒を盛る所だが、あまりにも祝宴参加者の人数が多いせいでどれがゲッツの元に運ばれるかわからないため断念した。だが彼は危険度の高い、物理攻撃による暗殺を得意とする男であった。何も問題はない。


 暗殺仲介人は依頼者――――十中八九アデーレであろう――――から前金としては破格の、報酬の60%を既に支払わせていた。暗殺に成功してしまえば権力を存分に振るって俺たちを潰しに来るだろうし、失敗すれば内戦の勝ち目が遠のく。つまりはいずれにせよ報酬が満額支払われる事はなかろうと踏んでの判断だろう。ともあれ、親が新教を奉じるが故に諸共レムニアから追放されたバルドゥイーンからすれば、心情的にはゲッツに肩入れしたい所である。しかし彼はプロであった。金さえ貰えれば、仕事に私情は挟まない。


 使用人に扮した彼は、怪しまれぬよう努めて平静に会場へと向かう。



「……すいませんイリスさん、やっぱもうトイレ行きます」

「ちょっとくらい我慢しなさいよ、クルトはすぐ戻って来るでしょ」

「待てませんよ、漏れちゃいます!」

「ええ……」

「良いんですか、このまま漏らしたら団長の顔に泥を、いえ尿を塗る事になるんですよ」


 ルルの目はわっていた。


「……とっとと行ってきなさい!」


 気圧されたイリスがそう言うや、ルルは一目散に会場を飛び出した。


「ちょっと、せめて歩きなさいよ!みっともないでしょうが!」


 イリスの叱責を無視して走り、ルルは何事か叫んだ。



 凄まじい勢いで護衛の槍使いが飛び出してきた。……かと思えば、彼女は猛然とバルドゥイーンに向かって駆け出してきた。


 まさかバレたか。バルドゥイーンは逡巡しゅんじゅんするが、思い直す。いやあり得ない。彼は仲介人が用意した身分――――既に死んでいるが届け出が出されていないノルマルク市民――――になりすまし、今日この日のために臨時雇いされた使用人として合法的に侵入を果たしていた。仲介人がでもしていなければバレる訳がないのだ。であれば、あの槍使いの小娘はゲッツに小間使いでも頼まれたのだろう。ここで焦ってナイフを抜いては全てがフイになる。プロとして鍛え上げた胆力が彼に正確な判断を下させる。しかし槍使いの小娘はそれをあざ笑うかのように叫んだ。


「既にちょっとんですよーッ!」


 男は即座にナイフを抜き、槍使いの小娘から逃げるように駆け出した。――――仲介人め、裏切ったか!


 こうなれば最早依頼の達成などどうでも良い事クソくらえだ。己の身を守らねばならない。トイレへと続く廊下の窓、そこが脱出口だ。そこから出れば、城壁に事前にかけておいたロープを伝って逃げる事が出来る。男は一目散に駆ける。



 遠くでルルの叫び声が聴こえた気がした。我慢出来なかったのだろうか?そういう事なら急いで出た方が良いなと、放尿を終えた僕はぶるりと身震いしてズボンのボタンを閉め、トイレから出た。そのまま廊下を進むと、前方からナイフを抜いた男が走ってきた。さらにそれを追うようにしてルルも。これは。


「く、曲者だーッ!!」


 僕は人生で一度は言ってみたかったセリフを叫びながら盾を構え、鍋を抜いた。



「チイッ!」


 盾持ちの少年がトイレから出てくるのが予想より早かった。さらに悪い事に、彼は脱出口となる窓の近くに居る。彼をいなし、素早く窓に飛び込まねばならない。衝突の1瞬前に、バルドゥイーンはナイフを投擲とうてきした。



「甘い!」


 僕は鍋を顔面の前で振り、ナイフをはたき落とした。ヴィルヘルムさんの訓練で得た経験だ。短距離で顔面に向かってくる飛び道具は殆ど点にしか見えない。逆に言えば射撃モーションさえ見えていれば、顔面を守れば何とかなる。他の場所は盾と鎧で守られているのだから無視して良い。盾で受けなかったのは、盾で自らの視界を塞がないためだ。こうする事で次の攻撃に対処しやすくなる。


 男は舌打ちひとつ、素早く2本のナイフを抜きながらタックルしてきた。だがこれも団長とヴィルヘルムさんの訓練で経験済だ。左足を引きながら盾で受けたタックルの衝撃を逃し、突き出される右手のナイフを鍋で弾く。この距離ではナイフ二刀流の相手の方が有利と判断し素早く飛び退ると、相手の左手のナイフは宙を切った。



 ガキとはいえ摂政の護衛に選ばれるのは伊達では無いという事か。タックルからの連撃をかわされたバルドゥイーンの頬を冷や汗がつたう。だがまだ判断が甘い。バルドゥイーンは焦りながらも、少年が飛び退った事を嘲笑う。彼が飛び退ったその反対側に、目的の窓があるからだ。踵を返しそこに飛び込もうとするが、チリと脳髄に稲妻が走るような感覚に足を止める。瞬間、槍が目前を通り抜けた。


「失礼、通りますよーッ!」


 追いついた槍使いの少女の牽制。なんたる手練のパーティーか。バルドゥイーンは彼らの実力を侮っていた事を後悔した。背後から盾持ちの少年が襲いかかってくるのをいなす。その間に槍使いの少女はトイレへと向かう。トイレに飛び込み――――城のトイレというものは地下に肥溜めがあり、そこで豚が飼われているものだ――――脱出するという代替案も潰された。洞察力も良い。


 ならば他の脱出口だ。バルドゥイーンは盾持ちの少年の盾をり、その反動で駆け出した。どたどたとやってきた城の衛兵にナイフを投げつけて殺害し活路を開くや、大逃走劇を開始した。



「居たなあ暗殺者!ガハハ!」

「ガハハじゃないんですよ!」


 暗殺者捕縛が失敗に終わり、騒然とする祝宴の会場で団長が大笑いしている。もしかしたら皆の動揺を和らげるための演技かもしれないが、自分が狙われたのであろうに大した胆力である。


「で、一体どうやって気づいたんだ?下手人は使用人に紛れていたらしいが」

「確かにルル、なんで気づいたの?」

「あのう、何が何だかわからないんですけど……?私はトイレに行きたかっただけで」


 ルルは困惑顔だ。うん?暗殺者を追いかけていたのは彼女のはずだが。


 団長も困惑顔でルルに事の次第を聞くと、団長諸共にそれを一緒に聞いていた周りの貴族達も大笑いした。


 結果的にひどい羞恥しゅうちプレイを受けたルルは顔を真っ赤にしていた。ともあれ、万全を期すためにベテランパーティーである【たかの目】(ヴィルヘルムさんは泥酔しており使い物にならなかったが)が護衛として招集され、団長は城に泊まる事になった。団長に労われ、しかし内実があんまりにもあんまりだった【鍋と炎】は微妙な表情で宿に帰った。



 バルドゥイーンは命からがら城を脱出し、スラム街の闇へと紛れ込んだ。本来ならほとぼりが冷めるまで静かに身を隠すべきだが、怒りに燃える彼は今夜自分に1つのを与える事にした。すっかり暗くなった路地裏を通って中産階級の住む街区に移動し、小さな一軒家の前に立つと、ナイフと針金で素早く錠前を破って中に入った。


「バルドゥイーン!?依頼のすぐ後に接触するなど非常識な!こちらからのコンタクトを待つのが――――」


 小太りの仲介人が目を白黒させる。事ここに至ってこの演技とは恐れ入る。


「いいや旦那、そんなの待てないね」

「何だと?おい、ところでこの騒ぎ、仕事はやり遂げたんだろうな!?」

「良く言うぜ。手前てめぇで失敗するように仕向けておいてな。何が気に食わなかった?俺は今まで実直に仕事をこなしてきたと自負していたんだが」

「待て、一体何の話をしている!?」

「とぼけるなよ、お前がんだろ。仕事の事をな……!」

「落ち着けバルドゥイーン、私がそんな事をする訳がないだろう!私に何のメリットが!」

「さぁな、俺の知ったことではない。……第一、気に食わなかったんだよ。いつも不十分な情報で俺を送り出し、そのくせ儲けの半分はかっさらっていく。もっと情報をよこしていれば今回だって失敗なんざ――――いや、最初から失敗させるために俺を送り出したんだったな。天晴あっぱれだよ」

「バカが!仕掛人に必要以上の情報を与えてみろ、もし捕まった時に俺や依頼人に危険が及ぶだろうが!」

「そうだな、仕掛人なんてのはトカゲのしっぽみたいなもんだ。不要になれば切り捨てれば良い。だが切り捨てられる側に復讐されるとは考えつかなかったのか?」

「待て、そういう事では無――――」

「言い訳はもう沢山だ」


 仲介人の首筋にナイフが突き立った。バルドゥイーンが投げ放ったのだ。


「ひゅっ」


 一瞬何が起こったのか理解しかねた仲介人は、自分の首から漏れるその音を聞いて全てを悟った。そして毒が傷口から流れ込み、心臓を締め上げる。恐怖で失神していればまだ幸せだったのだろう。しかし彼とて裏の世界で生きてきた人間だ、その胆力が仇となり失神も出来ず、呼吸も許されずゆっくりと心臓が麻痺していく苦痛をたっぷり味わってから事切れた。


「……やっちまったなぁ」


 バルドゥイーンは血泡を噴いて倒れた仲介人を見下ろしながらそう言い、しかしその死体から手早く鍵を見つけ出し奪うと金庫を開けた。


「ま、逃走資金としては十分過ぎるな。……暗殺者ギルドから追手はかかるだろうが、そこは実力で切り抜けるしかないかねぇ」


 バルドゥイーンはそう呟きながら仲介人の死体をナイフで切り刻み、一軒家を後にした。



 翌朝、街を捜索していた衛兵隊が1人の死体を発見した。「裏切り者に死を」と腹にナイフで文字を刻まれたその死体は、新教の信仰にあつく貧民に頻繁に施しをしている名士のものであった事が、ゲッツ派軍を憤慨させた。


『アデーレはゲッツの暗殺を試みた挙げ句、無辜むこの市民も手に掛けた』


 その情報は瞬く間にノルデン選定侯領を駆け巡り、ゲッツ派軍への資金援助や援軍が増える事になった。

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