第51話「みそぎ」

 ハイデ村の苦い経験があるので、今回はしっかりと旅装を整える。


 とはいえ、必要なものは既に殆ど揃っている。雨具と寝具を兼ねるマント、替えの靴、着替え、それに食料。最低限これだけあれば野営には十分だ。あとはイリスから散々言われていた「初心者セット」とやらを買ってみた。麻袋に納められたその内容物は、火口箱に松明、杭2本とロープという内容だった。杭とロープは何に使うのだろう。高い所から安全に降りる時にでも使うのだろうか?


 それと、僕は小さな調理器具を買っておいた。僕の鍋は武器として以外にもちろん調理にも使えるのだが、魂が蓄えられた状態だと料理の中に魂が溶け込んでしまい幽体の剃刀かみそりの燃料を消費してしまうという弱点がある。そこで、日用の調理用に小鍋を買っておいた。それに鉄串も。これで行軍中の調理は不便なく行えるだろう。


こうして買ったものを家に持ち帰って荷造りし、僕は風呂屋に行く事にした。出立は明日なので明日に入ろうかと思ったが、即位式の時のように同じことを考える人が沢山要るだろうと予測して、今日のうちに入る事にした。このクーデター……内戦がいつまで続くのかはわからないが、少なくとも行軍中に風呂に入るのは無理だろう。今日のうちにしっかりと風呂を楽しんでおきたい。


 幸いにして風呂は空いていた、というか浴場には僕以外に客が居ない。というのも、今は14時頃なのだ。この世界では風呂は朝入るのが主流だ。しめしめと思いながら頭から湯を被り、僕はまず蒸し風呂に入る。レンガで囲まれた狭い空間は心地よい熱気に包まれていた。


「ふーっ……」


 壁面に空けられた細い窓から光と空気を取り入れているようで、蒸し風呂の中は仄暗い。電気が無いのだからこういう形式になるのだろう。だがこの薄暗さが心地よく、目を閉じてじっとしていると全身から汗がじっとりと染み出してくる。耳を澄ませば、料理人のものと思われる声が隣から聞こえる。食堂のかまの熱を利用してこの部屋を温めているのだろうか。


「蒸し風呂って何でこんなに気持ち良いんだろうな……」


 夏の暑い日に外でかく汗は不快極まりないというのに、蒸し風呂――――サウナでかく汗は不快どころか、何か悪いものが汗と一緒に出ていくような気すらして気持ち良い。裸だからだろうか。なら夏に素っ裸で外を歩いたら気持ち良いのではとバカな事を考え出し、思考がゆるくなっている事を感じる。リラックスしている証拠だろう。


 全身が汗でじっとり濡れた所で、蒸し風呂から出る。濡らしたタオルで全身を拭き上げ、最後に水を頭からかぶる。


『農民の風呂なんてそんなもんですよー。風呂窯持ってるのは領主様か富農くらいなもんです』


 いつかルルがそんな事を言っていた。汗で汚れを浮かせてそれを拭き取り、水を被って流して終わり。それが農村や水が貴重な地域の入浴法らしい。


 だがここは都市で、しかもブラウブルク市は水源地だ。潤沢で清潔な水を、パン焼き窯や鍛冶屋の熱、さらには火炎魔法使いまでも動員して湯を沸かしているので誰でも気軽に風呂に預かれる。


 であるので、シャワーこそ無いが代わりに蒸し風呂で身体の汚れを落としてから浴槽に浸かるという、現代日本の入浴法に近いプロセスを踏む事が出来る。


「では本命と行きますか……!」


 僕は浴槽にためられた湯にざぶんと浸かる。先程被った水で閉じた毛穴が湯で温められ再び開き、同時に全身の筋肉がほぐされていくのを感じる。広い浴槽に1人で浸かるというのは不思議な楽しさがある。小さな風呂屋だと、大きなタライやたるに2, 3人で浸かるスタイルになるらしいが、この風呂屋はレンガで組まれた大きな浴槽を備えている。大きなと言っても5人も入ればぎゅうぎゅうになってしまう程度だが、それでも日本のユニットバスよりは大きいのだから十分満足だ。


 風呂好きにとってはこうして湯に浸かっているだけでも十分に楽しいのだが、この世界では日本では許されない楽しみが1つある。僕は風呂からあがり、浴場と脱衣所を隔てる扉を開いて声をかける。


「すいません、シュヴァルツビール下さい」

「あいあい」


 見張り番の男に声をかけ、ビールを持ってきて貰う。そう、入浴しながら飲酒という禁断の楽しみがこの世界にはあるのだ。日本では禁止されている風呂屋が殆どだろう。異世界万歳、中世万歳だ。


 受け取った木のジョッキを持ちながら再び湯に浸かる。そしてビールを呷る。温められた身体の中を冷涼な液体が炭酸と共に抜けてゆき、シュヴァルツビールの特徴である焦がしたモルトの香りが鼻をくすぐる。


「最高……」


 恍惚こうこつとした声が漏れる。血流が良くなっているせいか、すぐに酒精が全身に巡ってゆくのを感じる。身体がふわふわとしてきて、それを鎮めるようにビールを呷るとその冷たさで一瞬意識がすっきりする。そして湯で胃が温められると、すぐに身体がふわふわしてくる。それを冷たいビールで鎮める…………ああ、なんて甘美な負の連鎖なのだろう。あっという間にジョッキの底が見えてしまった。


 もう1杯飲むか――――いや、ダメだ。そもそも日本で入浴前・入浴中の飲酒が禁止されているのは事故が多いからだと聞く。僅かに残った理性がその事を思い出させ、これ以上の堕落を踏みとどまらせる。節度を守った堕落、それが快楽なのだと良くわからない理論が頭に浮かぶ。僕は名残惜しさを感じながらも風呂をあがる事にした。浴槽から出て、手桶に湯を汲んで汗を流す。最後に冷水を被って汗を止めれば入浴は終わりだ。そう思った時、不意に後ろから声をかけられた。


「お背中流しましょうか?」


 ふうっ、と耳元を撫でるようなその声に僕は肩を跳ねさせながら驚いてしまう。


「ひょおう!?」

「こんにちは、坊や」


 振り返れば、そこには背中流し女兼マッサージ屋兼娼婦しょうふのエルゼさんが居た。色素の薄い金髪を垂らしたハーフエルフの女性で、豊満なバストをタオルで隠している。


「ワーオ……こ、こんにちは」

「クーデターの件、大変だったわね。でも生き残って……また市に住める事になって嬉しいわ」


 彼女はそう言いながら、ぐいと僕を座らせて背中を流し始めた。強引な、と思ったが背中を細い指で撫でられる快感があっという間に不信感を洗い流してしまう。酒も手伝っているのだろう。


「でも明日にはまた軍役で出立しなきゃいけなくて」

「あらあら。それで当分風呂に入れないから、今日しっかり入っておこうって?」

「そういう事ですね……」

「良い心がけね。不潔な男は嫌われちゃうからね……あのガールフレンドはお元気?」

「い、イリスの事ですか?彼女はそのう……まだそういう関係じゃないんですよ」

「あらあら」

「しかも聞いて下さいよ、あいつ思わせぶりな事しておいて突き放したり、昨日なんて股間蹴り上げてきたんですよ」

「ひどいわねぇ」

「でしょう?」


 完全に酒にやられているのだろう、柄にもなく愚痴が出てしまう。しかしエルゼさんがそれを聞いてくれるのが心地よい。いや、背中を流されて肉体的にも気持ちいいのだが。


「……それじゃ、軍役の間はが大変ね?」

「そっちの世話?」

「行軍には娼婦が着いてくるのが常だけど、風呂に入れないのは彼女たちも同じよ。不潔な女に金を払って処理するのは不快よ?それに病気も怖いし……」

「え、エルゼさん、一体何の話を……」

「愛し合ってる彼女さんとなら、多少汚れてても我慢出来るでしょうけど……でもそういう関係じゃないんでしょう?」

「エルゼさん????」


 エルゼさんの声が段々甘く、とろけるような音色に変わってゆき僕の耳をくすぐる。罠だ、これは罠だ。ジョッキがあるので僕が酒を飲んでいるのは彼女にバレているのだろう、籠絡するチャンスだと思っているはずだ。だがここで引っかかってやるのは少々しゃくだ。前回は背中流しからのマッサージで籠絡され、一夜限りの夢に引きずり込まれそうになった。いや一夜限りの夢は見たいのだが、それはそれとして2度も手玉に取られるのは僕の尊厳が許さない。


 冷静になれ、僕。こういう時は状況を俯瞰する事で冷静になれるはずだ。思い返してみよう――――僕は異世界転生してから色々とご無沙汰で、おまけにパーティーメンバーのルルは豊満を押し付ける事数度、イリスは僕の純情と股間を攻撃する平坦女だが面倒見は良く、顔は最高に可愛い。そんな状況に置かれ、新居に移ってからは個室が存在しないのと同義という事でやはり色々とご無沙汰だ。それは実に2ヶ月に及ぶ。――――整理出来た。良く我慢してたな僕。


 自尊心が芽生え、それは自己肯定感にすり替わり、エルゼさんがほのめかす行為をも肯定し始めた。


「坊や、綺麗な状態で楽しめるのは今だけよ。それに私は純潔……あなたが、」

「買います」

「へ?」

「買います。一晩限りの夢を。下さい」


 食い気味で答える。


「わ、わかったわ」


 エルゼさんは若干引きながらも頷き、彼女に身体を拭いてもらって浴場を出た。服を着て見張りの男にビール代を支払うと、彼は後ろに居るエルゼさんを一瞥し、僕に同情したような、しかし励ますような笑みを浮かべる。


「……頑張れよ、坊主」


 僕は無言で親指を立てた。


 風呂屋の奥にはベッドが設置された個室が幾つかあった。僕とエルゼさんは2人でそのうちに1部屋に入った。



 …………数時間後、ミイラのようにげっそりとした僕はフラフラと風呂屋の廊下を歩いていた。背後で肌をツヤツヤさせているエルゼさんが手を振っている。かすむ視界で前を見ると、1人の男が廊下の壁にキザったらしくもたれ掛かり、腕を組みながら立っていた。先程の見張り番の男だ。


「……よう坊主、初めてだったんだろ。どうだったよ」

「ええ……それはもう……凄かったです……凄すぎた……ハーフエルフって凄い……」

「半分人間の血が混じってるとはいえエルフは本来性欲が薄い、ありゃエルゼ個人の特徴だ。……その様子じゃあいつの2つ名は知らないな?」

「はい……」

「"若人わこうど潰し" ……それが奴の2つ名さ。あいつの有り余る性欲は並大抵の男じゃ対処出来ねえ、性欲旺盛な若者をターゲットにして……それでも何人もたおされて来た。俺の友人も……。だがお前は生き残った」

「…………もしかして、あなたも?」

「ああ、"生存者" さ。もう10年も前になるがな」

「……名前を教えて下さい」

「敬語なんてやめろよ。俺はオットー、呼び捨てで良いぜ。お前は?」

「クルト」

「よろしくな、クルト。今日からお前は兄弟で、戦友だ」

「ああ、オットー……!」


 市を経つ前に友人が増えるなんて、なんたる幸運なのだろうか。これは絶対に生きて帰らなければ。


「……で、だ。俺は見張り番と売春斡旋あっせんを兼任しててな」

「は?」

「今度来た時は女の好みがあれば言ってくれよ、それに沿って紹介してやるからよ。勿論エルゼが良ければ呼んでやる」

「ええ……」

「まあ今日はもうそんな気分じゃないだろ、次来るまでに考えておいてくれよ!じゃあな!」


 そう言うとオットーは去っていった。……そう言えば今回も前回も、僕が1人の時にエルゼさんが来たな。もしかして両方とも彼はタイミングを見計らって彼女をあてがったのか?エルゼさんが "若人潰し" なのは事実なのだろう、それは身を持って理解した。……であれば、そんな危険な娼婦は普通の男なら買わない。つまるところ、最初から不人気嬢を押し付けるために僕に目をつけていたのでは????


「一杯食わされた……」


 むしろ食われたが。この世界の人たちは、やはり逞しい。


 僕はとぼとぼと、しかしすっきりとした顔で家に帰った。

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