第5話「その名は鍋と火」
「クルト、そろそろ礼拝始まるわよ」
「ん”おぉん」
イリスの声で目が覚める。頭に鉛を突っ込まれたような感覚に思わずひどい声が出てしまう。これが二日酔いというやつだろうか。礼拝?僕無宗教なんで――――その言葉はあまりの気だるさから声にならず、結果的に僕に冷静に考える時間を与えた。
『――外法の産物かもしれないもの、知識のない牧師にでも引き渡したら魔女裁判モノじゃないかしら。告発しようかしら?』
昨晩イリスはそんな事を言っていた。この世界ではまだ宗教の権威が強いのかもしれない。そうであれば、宗教行事に参加しないのは相当な悪印象だろう。それに。
「覚えてないけど行く……」
絞り出すように答える。僕は記憶喪失という事になっている。ならば無宗教というのはまずい。重い身体を励ますようにして立ち上がり、扉を開けると気だるそうなイリスが待っていた。彼女も二日酔いなのだろうか。その身体は昨日の魔法使い風の装束ではなく、町娘風の服装に包まれている。両親に連れられて行った、オクトーバーフェストとかいうドイツ風の祭典で女性店員が着ていた服に似ている。肩から鎖骨の下あたりまでが露出しており、そのバストは平坦だった。
「うわひどい顔。下で顔洗って来なさいよ。あと身体拭いたら?」
彼女は鼻をつまむ仕草をして、先に下に降りていった。そういえば風呂どころか着替えもせずに寝たんだった。汗と酒の臭いでひどい事になっているだろう。汚部屋を見渡し着替えとタオルを見つけると、それを持って下に降りる。
イリスは「水場は外に出て裏手」と言い残し、広間に行ってしまった。玄関を出るとまばゆい日差しが目を刺す。8時か9時ごろだろうか――と思ったところで、そもそもこの世界の季節がわからない事に気づく。それどころか1日が何時間なのかもわからない。調べるべきことは多い。
ギルドの裏手に回るとそこには井戸があり、数人の男性団員たちが気だるげに身支度している。井戸のすぐ近くに木板の仕切りがあり、その向こうから女性の声が聞こえる。反対側は女性用か。1/2の確率で間違えて迷い込まないで良かった。
「おはようございます」
「……ウィース……」
低い返事が返ってくるが、これは僕が
「……痛い」
麻で出来たタオルはごわごわしてて、綿のタオルとは大違いだ。
「お前も二日酔いか」
「ええ、まあ」
二日酔いで頭痛がすると勘違いしたのか、団員が声をかけてくる。彼は頭に手を当てながら、タオルで歯を磨いている。僕もそれに
「ところで1日って何時間なんですか?あと今何時です?」
「お前マジで記憶喪失なのな。1日は24時間、そろそろ9時だよ」
「ふへー」
奥歯を磨いていたので気の抜けた返事になったが、内心安心した。時間単位は地球と同じようだ。1時間が何分なのか、それより下の単位がどれくらいの長さなのかは明らかではないが、そのあたりは実感覚で慣れていくしかないだろう。
「因みに今の季節は」
「春だよ」
太陽の位置を確認する。……うん、春の9時はこれくらいの日の高さだった気がする。こんなところで小学校の理科に泣かされるとはと思いつつ、
「難儀だなぁ。ま、頑張れよ」
そう言い残してその団員は建物の中に戻ろうとする。他の団員もそうだ。そこで僕は重要な事を聞いていないと気づく。
「あっ、最後に1つ教えて下さい!」
「ん?」
「トイレってどこです?」
◆
近くにあった粗末な木の小屋がトイレだった。深く掘られた穴の中に用を足し、置いてあった木の葉で尻を拭いてギルドの建物の中に戻る。尻が痛い。
礼拝は昨日宴会をやった広場で行うようで、椅子の配置が若干変わっていた。イリスの隣の席が空いていたのでそこに座る。……彼女が表情を変えないのを見るに、少なくとも
しばらくすると団長がやってきた。
「よォ皆、おはよう!おはよう!!」
そして大声で挨拶した。
「団長声がでかいス」「二日酔いなんで勘弁して下さい」
昨晩飲みすぎた団員たちが頭や耳に手をやりながら文句を言う。
「酒に飲まれる方が悪いんだよ!」
わかっててやっているのだろう、がははと笑いながら必要以上の大声で答え、団長は席についた。それとほぼ同時、遠くで
「おはようございます」
「「「
団員たちが気だるげに挨拶を返す。
「まずは昨日の戦闘、お疲れ様でした。幸いにしてわがギルドに損害はありませんでしたが、他の隊では多くの兵が
全員が目を
そう考えると、昨日命を落とした人達が哀れに思えてきた。ほんの少しの運の差で死ぬ。それが戦争なのだ。僕は彼らの
「――黙祷やめ。では、礼拝を始めましょう。先週の続き……といきたい所ですが、今日は初参加者が居るので基本に立ち返りましょうか。申し遅れました、牧師のマルティナです」
視界の端で、先程時間と季節を教えてくれた団員がウィンクしているのが見えた。僕が完全に記憶を失っている事をマルティナさんに伝え、配慮するよう取り計らってくれたのだろうか。僕は心からの感謝で頭を下げた。
「皆さんご存知の通り、我らが
ここで言う混沌とは無秩序ではなく、あらゆる人種――エルフやドワーフ、リザードマンがひとところに集まり、混沌を以て調和となす事を示します。故に我々は信仰を持つものであればあらゆる性別や人種、出自を受け入れます」
なるほど、そういう信仰か――――ここで僕は1つ思い当たる事があった。僕をこの世界に転生させた女神。確か『
「故に、我々は全ての民への愛を説きます。差別したその人物が、まさに我らが主の
すみません、僕その
「しかし我々は今、旧教を奉じる諸侯と戦争の最中にあります。彼らは混沌の範囲を人の内に定め、他種族の信徒を認めません。また権威にしがみつき、聖職者がまるで貴族の如く振る舞っています。……全て聖典には書かれていない事です。この戦争を通じ、早く彼らが真の信仰に目覚める事を祈りましょう」
これは宗教改革が起こり――――それによって戦争が起きているという事だろうか。団長が敵に「
その後は賛美歌を歌い(知らない歌だったので口パクで合わせた)、祈りを捧げて礼拝は終わった。今日は休日のようで、戦争の最中だというのに団員たちは各々の宿舎に帰り始めた。広間に残ったのは僕とイリス、そして団長だけだ。団長は僕達のテーブルに座り、何やら1枚の紙と筆記具を置いた(羽ペンとインクだ!)。
「どうだ、説教聞いて何か思い出したか」
「いえ全く」
「そうかァ……。ま、しっかり働いてちゃんと祈ってればいつかは神の慈愛で記憶が戻るだろうよ」
すみません、多分それは無いです。
「私はむしろ記憶が戻らないで欲しいんだけど。クソ野郎に戻ったら嫌だし」
「言えてるなァ!」
がはは、と団長がイリスの言葉に笑う。団長もクソ野郎だと思ってたのか。
「さて本題に移ろうか。本来ならお前みたいな記憶喪失者は教会で療養を命じるところだが、今は戦争中だ。貴重な人手を教会にやるわけにもいかねェし、かといって無能を飼っておくほどギルドも甘くない。よってお前にはとっとと常識を取り戻してもらって、かつ一丁前の戦力になって貰わなきゃ困る」
「頑張ります」
「おう。そこでだ、イリスをお前の教育係としてつける。イリスはお前と同期の見習いだからな、本来なら別のパーティーに割り振って教育を受ける側だが……今は戦争中だ。既存のパーティーの足並み乱す訳にはいかねェ。例外措置になるが、戦争が落ち着くまではお前たち2人でパーティー組んで宜しくやってもらう」
「むう。団長、戦争が落ち着いたら私にも正式に教育係がつくんですよね?」
「神に誓って保証する。んで、一人前と認められたら――――晴れて正式にブラウブルク市冒険者ギルドの1員だ」
「わかりました」
イリスはほっとした様子で胸をなでおろす。そのバストは平坦だ。
「さて、臨時かつ例外ではあるがパーティー結成の手続きをする」
そう言うと団長はテーブルに置いた羊皮紙を取り、羽ペンにインクをつける。羊皮紙には既に何事か書かれているが、文字が読めない。団長は空欄になっている所にペンを走らせる。
「リーダー、
「えっ、何ですかその名前。それにディーターって誰ですか」
「あー?……ああ、そういう知識も抜けてるのか?お前達平民は姓が
これは思わぬ新情報だ。ディーターなる人物はクルトの事を何か知っているかもしれない。それにしても……
「"平坦なる" て」
「ぶっ殺すわよ。もう少し大人になったら改名するから」
イリスが
「名前で揉めるなよォ、あっ揉めないか」
「ぶっ殺しますよ」
「
「【紅蓮の炎】とかどうかしら」
「良い考えだ、じゃあ【
「なんで!?」「なんでよ!?」
イリス案も中二病臭くて嫌だが、団長案もひどい。イリスが強く抗議しているが、団長は笑っていなす。
「ダサい名前の方が早く成長して脱出したくなるだろ? イカした名前は一人前になって正式にパーティー組む時まで取っておけ」
「むう」
そう言われては納得せざるを得ない。
「というわけで。ブラウブルク市が冒険者ギルドの長、ゲッツ・フォン・ブラウブルクが問う。神と領主の権威を認め、その血を人と人に連なる者のために流す事を誓うか?」
「誓います」「……誓います」
「宜しい。戦時による特例措置として未熟なる汝らの武装と集合を認め、冒険者ギルドの権威と義務を【鍋と火】の名と共に授ける」
団長は剣の腹で僕とイリスの肩を叩いた。
「……以下、特例につき省略。まあ、宜しくやれよ!解散!」
「「はい!」」
こうして僕はイリスとパーティーを結成した。【鍋と火】という名前は気に入らないので早く一人前になって改名したい所だが。
そういえば、『お前達平民は』と言っていたから団長は貴族という事だろうか?そしてイリスの名前だが――――
「
日本語にするとなんだか親近感が湧くな。
「ぶっ殺すわよ」
イリスは僕の尻を蹴っ飛ばした。
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