第41話両面宿儺

 嫌悪感を抱くことに、良心は痛まない。


 真っ白な壁と天井。眩しいくらいの白光。

 それから、金属が剥き出しになっている――鉄格子。


 罪人なのだろうか。黒と白が混ざっている灰色の髪。市松模様の囚人服。若くはない。明らかに老人だった。背もたれの無い古書を楽しげに読んでいる。

 中にはベッドとサイドテーブル、そして椅子しかない。


 今まで多くの妖怪と出会ってきた。魔王もそれに等しい妖怪も、それ以上の妖怪とも出会ってきた。

 しかし、目の前に囚われている老いた男は、何かが違う。

 危険と言うより、穢れを感じる――


「良かったらそこに座りなさい」


 古書から目を離さずに、老人はいつの間にか現れた椅子を私にすすめた。

 私は最大限の警戒をもって座る。

 そして沈黙。


 老人が栞を挟んで本を閉じると「この本を知っているかな?」と表紙を見せた。

 日本語ではない、外国語で書かれた題名。

 筆記体で書かれていて、どの国の言語か分からない。


「いえ。知りません」

「中世ヨーロッパで書かれた詩集だよ。この世にたった四冊しかない。テーマは当時における『悲しみ』さ。裏切られた悲しみ。死別の悲しみ。理不尽な仕打ちの悲しみ。ありとあらゆる悲しみが詩の形で描かれている」


 老人は本をサイドテーブルに置いて私に訊ねた。


「君にとっての悲しみは何かな?」


 頭に過ぎったのは、しぐれとの別れだった。

 老人は楽しそうに「女か」と言い当てた。


「……心を読まれるのは慣れていますが、あまり良いものではありませんね」

「ふふふ。一つだけ、聞かせてくれるかな?」


 老人は朝日を見るような爽やかな笑顔で問う。


「その女を殺したら、君はどう悲しむのかな?」


 雷獣から怖ろしいとは聞いていた。

 でも、ここまでとは聞いていなかった――


 絶句している私に老人は「そう言えば、名乗っていなかったね」と優しげに言う。

 その表情は私の畏れを楽しんでいた。


両面宿儺りょうめんすくなという。よろしく頼むよ」


 両面宿儺という妖怪について、私は事前知識があった。

 妖怪の里に向かうとき、悪五郎が車内で語っていたのだ。


『わしは土蜘蛛と戦ったことがあるが、それ以上に厄介だったのは両面宿儺だった』

『厄介? 両面宿儺?』

『あいつと会う機会はないだろうが、もし出会うことがあれば、丁重に接しろ。歯向かったり口答えなどしてはならん』


 悪五郎は念を押すように私に言い聞かせた。


『関わるだけで嫌な思いをする。善悪で語れないほど、厄介な妖怪だよ』


 悪五郎が妖怪を悪く言ったのは、それが初めてで、後にも先にもなかった。

 そんな妖怪が目の前に居る――


「そんなに怯えなくていい。私は今、牢獄に閉じ込められているのだから」


 一見すれば穏やかな老人だと思われるが、私には分かる。

 この妖怪は殺すだろう。赤ん坊でも老人でも殺す。

 自身のために、簡単に殺せる妖怪だ。


「それより、和菓子をくれるのだろう? その包みをくれないか?」


 両面宿儺に指摘されて、私は和菓子の入った包みを差し出した。

 中には若鮎わかあゆ――カステラの生地で求肥と呼ばれる、水飴と餅粉を練りこんだものを包んだ鮎の形の和菓子が入っている。


 両面宿儺は若鮎を頭から食べた。そして満足そうに「美味しいな」と呟く。

 こんな状況なのに、和菓子を褒められたことを嬉しく思うのは職人のサガなのだろう。


「君のことは知っている。柳友哉。神野悪五郎の子孫だ」


 若鮎を食べきった両面宿儺。包みをテーブルの上に置き、私に「血の因縁を克服したいのかな」と問いかけた。


「…………」

「その様子だと、迷っているようだね。いや、答えは見つかっているけど、決断はできていない、かな?」

「全てお見通しというわけですか」

「決断さえしてしまえば、後悔は無くなる」


 両面宿儺は「私は戦いに破れて、ここに封印されている」と言う。


「だが何百年、何千年閉じこめられても、武振熊命たけふるくまのみことに挑んだことを後悔していない」

「それは、何故ですか?」

「決まっているだろう。私は絶対、同じことを繰り返すからだ」


 両面宿儺は迷い無く答えた。

 自分の歩んだ道は正しいと信じているようだった。


「だから、君がどんな決断をしても、何も変わらない」

「…………」

「何事にも終わりがないようにね」


 両面宿儺はふと「もう時間だね」と呟いた。


「面会時間には限りがある。これでお別れだね」

「あ、あの――」


 私は両面宿儺に何か言おうとして――

 気がつくと神社の前で立っていた。


「元の場所か……」


 なんなんだこの気持ちは。

 とてつもない開放感を覚えていると「ご苦労だったな」と雷獣が空から現れた。


「どうやら、妖気がもらえたようだな」


 瓢箪を確認すると、量が増えている。後二割と言ったところだ。

 いつの間にもらったのか分からない。


「それでは、行こうか」

「どこへ行くのですか?」

「あの方の知り合いのところだ。よく本を差し入れしてもらっているらしい」


 雷獣が乗りやすいように姿勢を低くした。


「久しぶりだな。異国に行くのは――」

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